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花もつ女たち №67 ヴィヴィアン・マイヤー (写真家*フランス系米国人*1926~2009) 

花持つ女たち
 ヴィヴィアン・マイヤー (写真家*フランス系米国人*1926~2009)
マイヤー

 数奇な人生、といってしまうと何事かを語ってしまって予見を与える。しかし、ヴィヴィアン・マイヤーという女性のことを思うとき、とめどなく疑問の符点を連鎖したくなり、それを要約すると「数奇」な人生となるのだろうかと思ってしまう。
 家政婦としてベビーシッターとして働くつづけたヴィヴィアン・マイヤーという女性が83歳で死去し、その遺品がシカゴの小さな競売場でオークションに掛けられる。遺品のなかに、古い時代のシカゴの光景が写っている大量のネガが収納されたボックスがあった。それを写真に門外漢の青年が380ドルで落札した。青年はシカゴの歴史を自分なりに再構築したいと考えていたアマチュア歴史家。日本にもよくいる地方史家というものだろう。生業を持ちつつ余暇を趣味としての地方史に使う。ネガはその資料に役立つかもしれないと思ったのだ。それが、すべての発端だった。彼がいなければそのネガはゴミとして焼却され、マイヤーの存在すら彼女を知るひとびとの死去とともにまったき消えただろう。

 青年は写真をプリントしてネットで紹介した。この時代の特有の探索の方法だ。それが思わぬ反響を呼び、終にはニューヨーク近代美術館での回顧展に発展した。
 写真家と書いたが、マイヤーは生前、写真で1セントも稼いでいない。したがって写真家とはいえないのかも知れない。けれど、生涯、たった1枚の絵しか売れなかったというゴッホが画家であるならば、マイヤーも写真家といって良いのだろう。ただ決定的に違うのは、ゴッホは売りたかった、しかし、マイヤーは売ろうともしなかった。それどころかネガのままプリントすることもなく、「作品」としての写真を自分でみていないのだ? モーツァルトの多くの曲が生前、演奏する機会もなく埋もれたという挿話とも異なる。つまり、マイヤーはシャッターを切る、という行為に傾注した写真家といえるかも知れない。
 家政婦、あるいはベビーシッターとして働いたのは、生きてゆく手段であった。好きでやっていたわけでもない。子ども好き、ともいえなかったようで、幼時の面倒をおこたることも多く、ときに暴力でゆうことを効かせるということもしたようで、それが原因で解雇されてもいる。
 マイヤーはそうした家事労働で稼いだ金の大半を写真に注ぎ込んでいたのだ。デジタル時代の話ではないから、フィルム代だけで相当な金額になっていただろう。回顧展が開催された時点では、数十万枚のネガが存在したらしい、その後の発見もあるようだ。その作品総数は確定していなかった。それぐらい厖大な作品を遺した。発見されたネガのプリントも終了していないようだ。
 マイヤーはただひたすらローライフレックス、ファインダーを上から覗き込むタイプの二眼レフカメラのシャッターを切りつづけたのだ。
 このファインダーを上から覗き込むタイプの二眼レフは、筆者が最初にもった同形式のカメラであった。父親から譲られたものだった。このカメラは被写体の人物と視線をそらさずに撮影できるという利点のあって、これに執着したマイヤーは確かに表現者としての個性の持ち主だったことが分かる。しかし、マイヤーはプリントしなかったばかりか、フィルムの存在すら私蔵し、公にしなかった。生涯、独身を通したマイヤーに近い親族もいなかったから、死後、破棄され焼却されてしまう可能性もあったわけだ。マイヤーはそれを回避しようとも、また思っていなかった。
 つまり表現者としてのマイヤーはただシャッターを切ることで終わっていたのだ。
 まったく黙して語らなかったマイヤー。何故、写真を撮るのか、撮りつづけるのか? 何故、プリントしなかったのか? 人にみせようとしなかったのか? すべて謎である。セルフレポートもたくさん撮っている。それは若い時代から晩年に及ぶ。しかし、マイヤーはそれすらもプリントしていない。フィルムにただ記しただけだ。
 マイヤーに撮って写真とは、いや、生きるということはなんだったのか? 謎だらけ。
 マイヤー研究はいま、緒についたばかりだが、その写真と生涯は人間の存在の不思議さを象徴していよう。
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巧妙なウソ ビン・ラディンの死にまつわる挿話 映画『ゼロ・ダーク・サーティ』

巧妙なウソ ビン・ラディンの死にまつわる挿話 映画『ゼロ・ダーク・サーティ』
ゼロ

 2011年5月、〈9・11〉から約10年後、パキスタンの地方都市にあった広壮な民家がウサーマ・ビン・ラディンの潜伏先、及び全世界に指令を発する拠点として米軍の特殊部隊シールズが夜間、攻撃した。成果は、ビン・ラディン殺害、そして大量の資料が押収された、と米国政府は発表した。
 映画は、この民家に見立てた簡易「要塞」を若いCIA職員マヤ(ジェシカ・チャステン)が執念で探り出し作戦を成功に導いたとされる米政府発表の「事実」をサスペンス仕立てで描いたものだ。はたしてビン・ラディンの殺害が真実であったか、という疑念を捨てれば良くできた映画である。158分という長尺にも関わらず一気にみせる語り口はさすがに『ハート・ロッカー』でアカデミー賞・作品賞を獲得したキャスリン・ビグロー監督の手腕だと感心させられる。
 厖大なデータと地を這うよう な努力によって潜伏先を割り出して行く過程そのものは映画としてみれば退屈なものだが、適宜、スクリーンに刺激を与える挿話を挿入して飽きさせない。シナリオも巧みなのだ。
 しかし、大詰め、作戦が終了し、ビン・ラディンとされる遺体がアフガニスタンの米軍基地に運ばれてくる。そこで検視するのがマヤひとりなのだ。当時の米国にとって「9・11」の首謀者、最大のオタズネモであったビン・ラディンを、写真だけでしか知らないマヤが、さしたるキャリアもない若い一CIA職員のマヤに判定させる、などというアホなことがあろうはずがない・・・そんなことは政治に相当オンチな人間にもわかるはずだ。と思ったとき映画の感興は逆流し、これはなんだと白けてしまう。
 本作を試写室でみたときの、その感想はDVDで再見してもまったく変わらないものだった。公開時、本作について批 評を書かなかったのは、そうした違和感があったからだ。

 本作は、アカデミー賞の主要5部門にノミネートされた。受賞したのは音響編集賞という地味な技術賞のみだった。さすがに審査員もビン・ラディン暗殺作戦そのものに疑念をもっていたと思われる。映画が米国で話題になってから元国務次官補代理だったピーチェニックという人物が公けに暗殺作戦のウソを語り、映画を批判した。以下のピーチェニック氏の発言要約の出典は、http://disquietreservations.blogspot.jp/2013/01/dr-steve-pieczenik-hollywood-films.html  に拠る。

 「・・・オバマ大統領はビン・ラディン殺害という大芝居を、自身の大統領再選のために必要とした。同大統領自身、ウソであることは承知していた。私とともに長年、一緒に仕事をしてきたCIA職員の誰もがウソと認識していた。」

 「・・・そもそもビン・ラディンは2011年以前に死んでいたはずだ。彼は、マルファン症候群(Marfan syndrome)という不治の病いに侵されていた。私は当時国務次官補代理であったから、その情報に触れていた。マルファン症候群という病気は遺伝病だ。国務省に勤務していた私は、彼の病歴の記録から、それを知っていた。体内の組織が徐々に分解していくために長寿は望めない。短命が条件つけらた不治の病いだ。変性遺伝子疾患であって治療法がなく、寿命を延ばすこともできない。」
 「・・・政府の発表では、ビン・ラディンだという遺体は海に投棄されたという。しかも、投棄の前に、ビン・ラディンのDNAを採取したと詐称した。」
 インタビューの核心的部分だけ抜書きした。
 
 〈9・11〉以降、ブッシュ政権はイラクに「大量破壊兵器」が集積されているとして武力侵攻、フセイン政権を壊滅させた。しかし、どこにも「大量破壊兵器」は存在しなかった。しかし、国際社会は米国の虚言を、より「悪」としてのフセイン独裁政権の粉砕という“大義”の前に「信じ」目をつむった。虚言であったことが証明されても、米国は糾弾されていない。
 映画『ゼロ・ダーク・サーティ』は公開後、DVDとなって世界に流布している。ウソも百編繰り返せば“事実”となることをオバマ大統領は願っているのか? ハリウッド映画の実力のひとつはウソが完璧な証言によって暴かれるまで、“史実”として一定期間、 機能させる可能性をもつことだ。それが怖い。世論とは、そうして形成されてゆくのだ。冷戦下の ハリウッドで起きた“赤狩り”はまったくのでっち上げだったが、生身の才能は確実に潰されていったのだ。チャップリンすら追われた。

グァテマラ*映画『線路と娼婦とサッカーボール』

線路と娼婦とサッカーボール』
      チェマ・ロドリゲス監督
娼婦の

 中米グァテマラ、1990年代の半ばまで30有余年にわたる内戦をつづけていた小国だ。
 めぐまれた自然、希少種の動植物、地味の豊かな農地、先住民がそれぞれの習俗を守って暮らし、マヤ文明華やかな時代の広壮な神殿都市遺跡が散在する。
 もし、寡頭階級の貪欲、なりあがり軍人たちの暴力、そして多国籍企業の横暴がなく、民主主義が機能し、公教育が整備され識字率が上がれば、この国はいくらでも豊かになれるだろう。6年、この国に暮しての実感である。
 
 貧しい。いま現在、実勢としてもっとも貧困率の高い中米の小国だと思う。政府の発表する統計など、この国ではまったく当てにならない。「統計」とは権力者が恣意的に操作する支配の道具でしかない。
 既得権を放そうとしない寡頭層はいまも民衆を制度的に強いた「創られた無知」につけこみ、イビツなシステムを保持する。その最大の犠牲者は貧しい女性であり、子ども老人たちだ。本作は、この小国の矛盾を最下層の娼婦たちの生活に象徴させた記録映画である。

 カメラは乾き冷徹だ。娼婦に対するヤワな同情、神経質な感傷とは無縁の視覚から日常を切り取っている。
 貧しさには無限大のグラデーションが存在する。それが途上国の実態である。
 〈貧困の文化〉という言葉がある。貧困は特有の文化土壌を醸成することを客観的にルポしたのは、人類学者のオスカー・ルイス。本作は〈貧困の文化〉論に対する雄弁なテキストともなっている。娼婦の〈貧困〉を量化せずに個別性を重視し説得力を持った映画である。
 タイトルの「線路」とは首都の旧市街に終着駅をもったカリブ海と太平洋を縦断する国有鉄道を意味する。この鉄道は筆者がこの国で暮らしはじめた1991年には客車が走っていた。現在は貨物専用になった。内戦で疲弊した経済は客車の整備に手がまわらず老朽化し廃止された。
 一度、客車のなかからスラムの空気をしたたかに吸ったことがある。
 スクリーンは、匂いを出さないが、スラムには独特の饐(す)えた臭気がある。貧困の臭いだ。歩いてスラムに入れば臭いは自然となれる。しかし、走る列車に飛び込んでくる臭気はきつい。映画の娼婦たちは、そんな臭気のなかで日々、客をとりつづけている。そして、客となる男たちも貧しい。このスラムから10分ほど歩けば、そこそこの調度をそろえた小綺麗な娼婦館がある。そこには本作に登場する娼婦より若く綺麗な娼婦がはべっている。さらに、外資系の会社のオフィス、外国公館があつまる治安のよい界隈には、肌の白い、欧州女性の体形をもつ若い娼婦たちがドル紙幣で身体を売っている。
 映画は、最下層の娼婦たちが主人公だから、そこに映し出される光景は貧しくくすんでいる。この国の貧困のドキュメントともなっている。そんな娼婦たちがサッカー・チームを結成した。これはタブーへの挑戦だ。
 たとえば日本で、ソープランド嬢たちがチームを編成し、白昼、現役女子高校生や女性警察官チームと対戦することなど考えられないだろう。まがりなりにも、それが実現するのはラテン的風土の寛容性である。しかし、同時に濃密なカトリック倫理観に支配された保守層は、娼婦たちのチームそのものを否定、いや唾棄する。グランドで娼婦たちが転び怪我をし、血が吹き出て、「(健全な)な女性に附着したらどうする」とエイズに対する無理解も出てくる。そんな環境のなかで娼婦チームは国内各地を転戦し、カメラの前で問わず語りに身の上を話し、夢が語られてゆく。
 〈賤しい〉仕事であることは娼婦たちも映画の作り手も承知している。居直ったりしない。匿名の〈娼婦〉であることを拒絶し、個性 をもつ女であることを主張することを覚悟したとき、この映画は普遍性を獲得した。
 ロードムービーとしての側面もある。この国に6年暮らした評者には古代マヤのティカル神殿都市、カリブ沿岸のリンビングストンの海、そしてスラムも懐かしく思い出す。映画に登場するすり鉢状の谷間にへばりつくスラムは、国家宮殿やカテドラル(中央大聖堂)が建つ中央広場と指呼の間の距離にある。この国の施政者は風向きでスラムの臭気が流れてくる場で執務している。
  (2007年10月)
*本稿を採録したのは現在、東京・神保町でグァテマラ映画『火の山のマリア』が公開されているからだ。マヤ系カクチケル族の娘マリアは、この国ではいつスラムに沈み、娼婦となるかもしれない位置にいる。この国で最下層の娼婦となっているのは、先住民の衣裳を脱ぎ都市部でいきる娘たちでもある。

映画「四川のうた」      ジャ・ジャンクー監督

映画「四川のうた」
     ジャ・ジャンクー監督
四川のうた

 隆盛を極める、といっても過言でない中国映画界にあって現在、もっとも動向が気になる存在がジャ・ジャンクー(賈樟柯)。少なくとも筆者にとっては大層、刺激的な存在である。
 それは80年代後半に“第五世代”といわれたチェン・カイコー(陳凱歌)、チャン・イーモウ(張芸謀)、ティエン・チュアンチュアン(田壮壮)らが旧式の溶鉱炉からはじき出された熱い火の玉となって、政府の文化政策から外れる地点で、ないしは斥候といった地平で“問題作”を撮っていた時期に彼らを注視していたと同じように気がかりであるということだ。先行した3人の才能は北京オリンピックの迎える頃にはすっかり政府の文化政策に忠実な文化官僚になっていた。
 “第五世代”を生み出した旧式の溶鉱炉は、四川の 巨大工場「420工場」のように破棄された。“第五世代”が新仕様でつくった溶鉱炉からジャ監督らの世代が出てきた。
 “第五世代”の精鋭も季節を経て、チャン・イーモウは北京オリンピックの開・閉会式の総合監督という名誉職を拝受してしまった。それはちょうど大阪万博に戦後の焼け跡から噴出したアヴァンギャルド運動の担い手たちが吸収されていった情況と酷似する。
 ジャ監督の新作『四川のうた』は映画という表現媒体を考える上で貴重な“教材”とも成りうる可能性を秘めた映画である。ここで安易に「秀作」とか「佳作」といった評言は使わない方がいい。一昨年だったか新藤兼人門下の若い監督が、『陸に上がった軍艦』という映画を撮った。ドキュメント部分と劇が混在する作品だが、虚と実は整然と区切 られ、自ら戦中体験を語る新藤氏が「劇」を補足し説明するというものだった。軍隊組織の愚かさを指弾し、戦争の狂気を語って「誠実」な映画だったが、それだけのことだった。
 しかし、『四川のうた』はドキュメント劇が不可分に融合させ、語るべきことをあますことなく語りきり、映画としての可能性もまた先駆する前傾姿勢の作品である。
 前作『長江哀歌』は三峡ダムに呑み込まれる廃市の解体事業、ダム建設という現在進行形のドキュメントを背景にした創作であった。本作は、現代中国工業史といったカテゴリーのなかで一項、割かれるような巨大工場の閉鎖、解体事業の進展を現在進行形のドキュメントとして見せながら、ドラマも同時進行させた。俳優たちがその工場で生き働いた元労働者を演じて体験を回顧し、個人史を語り未来を見据えるというものだ。映画を包むフレーム はあくまでドキュメントのそれなのだ。
 廃工場に座り労働体験を語る、その姿は「演技」なのである。予備知識がなければ、彼・彼女らを俳優とは思うまい。それほど労働者に同化し欺く(俳優冥利につきる演技ではなかったか)。
 安易なドラマづくりを排し、平凡なるが故の非凡な演技で、中国革命成立からの歳月を、それぞれの生活譜のなかから語る。それは巨大な歴史のカオスを包蔵する現代中国史にあっては、人の生の終りともに焼却される小事でしかない。
 ジャ監督はそうした民衆の生き様を惜しむ。歴史はそうした市井人のおびただしい集積という認識があるように思う。
 中国五千年というが、統一王朝の成立は漢の始皇帝に始まる。二千百有余年の歴史である。この漢期に文字や貨幣が統一され、度量衡の基 準も設けられた。法体系が確立したことによって巨大国家が誕生したのだ。この漢期の文字がいわゆる「漢字」である。しかし、その巨きな事業もまた卑俗な人間社会の虚実皮膜のドラマのなかでひとつひとつ紡ぎ出されていった。
 朝鮮戦争の影響で東北地方から南方・四川へ“疎開”した巨大工場は最盛期三万の労働者が働き家族10万を養っていた。「工場」は数一〇万人の生活を支えてきた。映画はその労働者たちの“歴史”を二時間たらずの映像のなかで象徴化してみせたのだ。ジャの英才は漢王期に生きた才将・張良に劣らない現実認識力に満ちているように思う。
 民族史は弛まざる動態である。
 その動態の象徴をジャ監督は三峡ダム建設現場に立ち、そして巨大工場の閉鎖を見つめることで中 国史の”記述”に映像を使っているのである。 (2009年3月記)

社会の基本は人の繋がり、と教えてくれる 映画『キリマンジャロの雪』のロベール・ゲディギャン監督

社会の基本は人の繋がり、と教えてくれる
映画『キリマンジャロの雪』のロベール・ゲディギャン監督
キリマンジェロの雪2

 東日本大震災の後、「絆」という言葉がさかんに飛び交った。いまも各所に「絆」の文字が掲げられているが、いささか褪色しはじめている。人の「絆」は1年で希薄になるものではないが、マスコミが主導した「絆」は拙速のシステムだったか、と再考させてくれる映画が『キリマンジャロの雪』だった。来日したゲディギャン監督に取材した。(2015年5月)

 映画の主人公ミシェルは定年を間もなく迎える港湾労働者。EUのなかでも経済的な疲弊度が小さいといわれるフランスだが、企業は生き残りを掛けてリストラをつづけている。ミシェルの職場でも数名を解雇して累積赤字を軽減化することが労使交渉で決まった。その数名を決めるのは組合で、執行部は恨みなしでクジで決めようとなった。そのクジを引く役目をミシェルは引き受けた。そして、自分で外れクジを引いてしまい自らを解雇する。
 「私は労働現場を描くことで世代間の確執を取り上げたかった。リストラされる人間をクジで決める行為は平等ではない。労働者の生活条件がほぼ同じなら公平かも知れないが、定年間近で年金も保障されるミシェルと、働きはじめて間もない非熟練で低賃金の若年労働者とは釣り合いは取れない。現在、フランスでは若者の賃金は みな低く親世代に喰わしてもらっている層が多い。そんな若者たちはみなプライドを奪われている」
 ミシェルとともに解雇された青年の一人は再就職もままならず幼い弟二人を抱え、たちまち貧窮。そして、不良仲間の口車に乗って強盗に及ぶが間もなく逮捕されてしまう。兄を突然、失った弟たちは保護施設に送り込まれることになるだろう。そんな子どもたちの姿をみてミシェルは自責の念をおぼえる。
 「労働組合は少なくともフランスでは会社との交渉だけに存在するものではなかった。戦争反対、福祉の向上などを掲げて闘争したヒューマニズムの拠点だった。私は初老のミシェルにその精神を甦らせたかった。人の絆の大切さをね。」
 ミシェルとその妻は、刑務所に入った青年の弟たちを引き取り育てるこ とを決意する。無論、そこには葛藤の日々、周囲の無理解などがあるわけだが……。
 「いま、フランスは大統領選挙の渦中だが、社会党のオランド候補が勝利するでしょう。日本とどうようフランスでも市場経済で人の絆が希薄になった。資本主義の行き詰まりは目に見えている。富を公平に分配するシステムが地球規模で求められている。オランド政権下で国も少しは変わるでしょう。」
 監督は大統領選挙に控え、映画でオランド候補を支持した。昨年、本作はフランスで半年以上のロングランを記録し、延べ300万を越える観客を集めたという。その観客の大半がオランド候補に票を投じただろうか・・・・・。

*オランド政権下でパリ郊外に住むイスラム系青年がテロを起こした。もう、その事件の記憶も遠さかりつつある。社会平等を訴えた大統領も1期や2期で成果があがるような時代ではない。特に経済システムが強固な先進国ほど劇的変化は望めない。それは真理だ。しかし、政治家は「夢」を公約にしないわけにはいかないのだ。

署名アラカルト №8 長野まゆみ 自作慈愛的創作型

署名アラカルト №8  
 長野まゆみ  自作慈愛的創作型 
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 現代の作家のなかで、長野まゆみさんほど自作を脱稿後も慈しんでいるひとはいないと思う。
 否、創作に携わる才能は皆それぞれのやりかたで愛でいるはずだろう。しかし、慈愛の発露には明白な相違がある。長野さんの場合はそれがより具体的なかたちで示す、象徴するという意味で右に出る作家はいないと思う。
 長野さんは一作毎にかならず自前で「雅印」を創作する。そして、その「雅印」を他著に流用しない。筆者がみた限り流用例は確認されていない。
 便宜上、「雅印」と書いたが、創作的な小口版画といえるものだと思う。
 それぞれの作品、物語の内容に即して、長野さんてづくりの「雅印」が刻まれる。
 それを二色以上の色を用いて捺(しる)す。二色というより、それなりに多くの本に捺すわけだから手間かけるのは大変。だから、長野さんが使用しているのはJC,JKのおんなの子たちのように品揃えの多い、おしゃれ文房具屋さんに行ってグラデーション型のスタンプ台をみつけ、それを使っている印象だ。それもメタリック顔料のものを使う。その色にあわせてローマ字筆記体で署名を記す。その意味では長野さんの新作が出るたびに、次はどんな工夫があるのかと楽しみなわけだが、彼女の描く世界にさほど共感を覚えないわが身であるから、ついでの際に確認するぐらいだ。
 写真の署名は、『千年王子』の扉にあるものだが、この作品も筆者はすんなり入っていけない世界。長野さんのファンタジーは人工的な機密空間、湿度の少ない乾いたセラミックの枠のなかで展開されているようで、そこに登場する「人物」もよくできたフェギアに人工頭脳が嵌め込まれた印象だ。ナチュラル感が希薄なのだ。本書の「王子」に敬意を表して、左の紋様が王家のエスクード(紋章)を象徴しているようだ。
 同時代のファンタジー作家といえば、筆者の好きな作家に上橋菜穂子さんがいる。上橋さんの世界には土の匂いがある。緑のそよぎがある。それがわたしには好ましい。そこでは人は傷つき、血の生臭い気配もあるし、傷は膿み、ただれることも受け入れる。 しかし、長野さんの人間は血を流しても、生臭い匂いは感じられず、膿も生じない、という感じだ。その意味では現実生活に疲れた読者には逃避のオアシスなのかも知れない。長野ワールドを溺愛する読者は現実からの遊離感を求める人たちなのかもしれない。読書しているあいだは異次元にワープしていられるだろう。日常的な重力のない世界を描けるというのも、また才能だ。
 地から浮かぶ遊離感に浸りたいと思う読者には至福の時間だろう。そして、そんな読者に支えられて長野さんは堅実な世界を次々と編んでゆく。それも小説のおおきな効用である。

ベネズエラに南北アメリカ大陸の各先住民族の青年指導者たち結集(旧稿と現在)

ベネズエラに南北アメリカ大陸の各先住民族の青年指導者たち結集(旧稿と現在)
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 急激な原油価格の低下は産油国に経済的な混乱を引き起こし当該政府の屋台骨を揺るがしている。その顕著な国のひとつがアメリカ地域最大の産油国ベネズエラだろう。
 
 2011年8月に書いた記事に次のようなものがあった。原油価格1バレル130ドル前後を推移していた頃の話だ。現在の30ドル前後という相場の4倍以上の価格である。この時、ベネズエラは大いに潤っていた。原油の輸出によって稼いだ潤沢な外貨によって時の大統領ウーゴ・チャベスは「ボリバル革命」を宣言、キューバのカストロ政権を下支えし、中米の非産油国に援助を行なって、自らが唱える「革命」の同調国を増やしていた。しかし、その果実が実る前に資金が潰え去り、カリスマ性のあったチャベス大統領の死去、同国の「革命」はすっかり色あせた。所詮、金頼みの「革命」であったのかと思わずえない。
 ここに採録するのは、チャベス政権下、国庫が豊かであった時期の有意義であったことには相違ない会議についての報告である。残念ながら、この会議の現在を筆者は知らない。

 *    *    *
 
 8月7日、南米ベネズエラの首都カラカスで第四回インドアメリカ先住民青年ボリビアーノ会議が3日間の予定で行なわれた。
 同会議に南北アメリカ諸国18カ国の代表も参加し、総数400人に及ぶ大規模なものとなった。ベネズエラには約54万の先住民が隣国と接する辺境部を中心に暮らしている。
 1992年のコロンブス「新大陸」到達500周年、そして翌93年には国連が「国際先住民年」を制定、さまざまな取組みが行なわれた。中米グァテマラのマヤ系先住民出身の人権活動家リゴベルタ・メンチュウさんがノーベル平和賞を受賞するなど大いに盛り上った。多くの国で先住民の国会議員が誕生するなど、先住民自らが声を上げて国の対先住民政策が改善された。
 しかし、500年の負の遺産はあまりにも大きく先住民の人権状況はいまなお厳しい。カラカスの会議でも飢えないための食糧問題、居住地域の安全保障、消滅の危機にある伝統文化・習慣の復権・回復、そして尊重など先住民が生き延びるための基本的で緊急を要する問題が討議された。
 「国際先住民年」から18年目となるが南北アメリカ諸国の先住民を巡る状況は改善したとはいいがたい。こうしたなかでベネズエラが率先して会議を主催できるのもウーゴ・チャベス大統領の指導力に負うところが大きい。同大統領自身、「自分の血のなかにはアフリカの血も先住民の血も流れている。アメリカ人そのものが自分である」と公言する。
 豊かな石油の輸出によって得られた外貨を基盤にして、民衆のための国づくりを進める同国だが、先住民人権運動でも主導的な役割を担おうという意志表示を感じさせる国際会議であった。
 先住民文化の遺産を尊重し保全・継承するという仕事ではメキシコが一歩進んだ成果をあげてきた。しかし、北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟して以来、米国産の補助金に守られた廉価な農産物の流入によって同国先住民の貧困化が進んだ。小規模・零細の先住民農民は経済のグロバリゼーションの最初の被害者であった。
 経済の市場主義を「カジノ経済」と批判するチャベス大統領が模索する先住民の人権状況の改善とはいかなるものか・・・正直、まだ見えない。同大統領の主導によって16世紀、スペイン征服軍に対し抵抗した先住民指導者のひとりグアイカイプロ(?~1568)の国家的英雄の座すえた。そして紙幣にもその肖像を刷り込んだ。ラテンアメリカ諸国の紙幣にはそうした先住民英雄像が散見する。しかし、生身の先住民たちは、紙幣の像ほどには尊重されてない。チャベス政権の「革命」とは、理念より実効だが、「国際先住民年」以来の停滞を克服できるのだろうか。

バチャータのファン・ルイス・ゲラの基金創設へ  (ドミニカ共和国)

バチャータのファン・ルイス・ゲラの基金創設へ  (ドミニカ共和国)
Juan Luis Guerra

 日本的にいえば還暦目前のファン・ルイス・ゲラ。ドミニカ共和国(以下、ドミニカ)にあってメレンゲとならぶ音楽の構成要素バチャータを長年ひとりで牽引してきた観のあるゲラ。むろん、メレンゲに無関心であったわけではない。「エル・ナイアガラ・エン・ビシクレタ」のようにバチャータとメレンゲを見事に融合したヒット曲もある。ただ、ときに社会性も持ち込むゲラにとってはバチャータのほうが創作しやすいということだろうし、声の質がメレンゲよりメロウなバチャータに合うということだろう。そんなゲラ、今年、デビュー33年目を迎えたが少しも衰えたところはみせず、感性は更に磨きがかかっている印象だ。
 2009年8月に東京と福岡で日本初公演、その際、日本語も取り入れた「バチャータ・エン・フクオカ」を作ってヒットさせた。日本でもファンは多い。
 昨年はラテン・グラミーの最優秀アルバムを『トド・テイエネ・ス・オーラ』で受賞。最優秀歌唱賞でも「ツス・ベソス」でノミネートされていたが、メキシコの新鋭ナタリア・ラフォルカデにさらわれた。ゲラ自身は自分の音楽性が今日的に高いレベルで維持されていることに自信を深めた年となった。
 この2月上旬から米国ニューヨークのマジソン・スケア・ガーデンでの公演を皮切りに受賞アルバム名を冠したワールド・ツアーを開始した。この2月、ミック・ジャガーをはじめとするローリング・ストーンズの60代の面々が南米チリから開始したツアーを横目にゲラも負けてはいない。少年時代のゲラはビートルズにおおきな影響を受けている。その好奇心の範囲にはブライアン・ジョーンズ時代のローリング・ストーンズも存在していたはずだ。ゲラ世代のラテン・ポップスに担い手たちは多かれ少なかれ日本と同じようにビートルズに深甚な影響を受けている。
 ニューヨークはご存知のようにドミニカ系米国人が多く住む町だ。カリブ圏でいえばプエルトリコ系住民についで多いだろう。つまりヒスパニック観衆を多く呼び込める町からツアーをスタートさせたということだ。ついで、カナダ、プエルトリコ、そして母国ドミニカに帰還後、中米地峡のホンジュラス、エル・サルバドル、パナマ、コスタリカと中米地峡諸国を巡演。その後、ヨーロッパ・ツアーに向かうという例年になく意欲的なゲラである。
 そして今秋、ラテン・グラミーの授賞式に合わせてゲラは、自分が資金を提供し、若く才能のある音楽家を支援するために「ファン・ルイス・ゲラ、ラテングラミー文化基金」(仮称)を創設することを表明している。
 今年のツアーも、その「基金」の宣伝と資金作りの目的もあるのかも知れない。ニューヨークでの公演では最近作の受賞アル
バムの曲にこだわらず、これまでもっとも知れたゲラのヒット曲「ブルブッフ・デ・アモール」「バチャータ・ロサ」「フリオ・フリオ」など手勢の“4:40”とともに活動していた時期(1984-2015)の名作を積極的に取り上げたのも後につづく各国での公演への前評判づくりのような気がする。  
 ツアーで中米地峡諸国が目立つが、この地域はゲラと4:40の最初のワールドヒット曲「ブルブッフ・デ・アモール」を早くから受け入れた地域だ。まだ内戦が暗い影を落としていたグアテマラ、エル・サルバドルなどでも海賊盤のカセット・テープが大量に出回っていたことを昨日のことのように思い出す。当時、ゲラの歌は平和を希求する人々に寄り添っていた。ユーチューブの再生回数でも「ブルブッフ~」を収録した最初のベストアルバム『バチャータ・ロサ』からの曲が上位を占めている。その視聴率は、ツアーの選曲におおきな影響を与えているだろう。

署名アラカルト №7 猪瀬直樹

自尊的渇墨型 
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 前都知事氏である。もちろん猪瀬氏の名を高らしめたのは著述家としての旺盛な活動だ。その知名度と前々都知事にして作家の石原慎太郎氏の後任者として1200万都民の代表となったわけだが、金の問題で失脚してしまった。
 猪瀬氏をついだのが現在の舛添要一現知事である。1995年に就任した俳優にして直木賞作家の青島幸男氏からはじまる都知事=著述業の系譜となる。舛添氏を学者とするむきもあろうが、学際的業績は客観的にみてたいしたことはない。舛添現知事の署名もまったく無個性でぞんざいで、署名に対する自愛感は希薄。事務的なものだ。
 その点、慎太郎氏の署名は“暴走老人”には似合わない大変、格調のあるもので凛とした気配がある。おそらく『太陽の季節』でデビュー した当時は、まったく違った筆だったのだろうが、政治家となってからの署名を見る限り年齢、作家としての自信がくる風格を感じさせる。面白いのは弟裕次郎さんの晩年の署名もなかなか立派なもので、兄慎太郎氏と似ている。

 さて猪瀬氏。書でいうところの渇筆での署名。目にする限り、氏の署名はほぼこの渇筆大書型だ。揺るぎない。
 都副知事になってからも著作はあったが、『ミカドの肖像』『土地の神話』、あるいは『ペルソナ~三島由紀夫伝』などを書いていた時期の仕事と比べると、行政官としての仕事に時間が割かれる分、密度が薄くなっているように思う。
 『ペルソナ』は三島自死後、出された評伝のなかで、もっとも優れた著作のひとつだろう。猪瀬氏の調査にかける網の掛け方、捕捉の手法、緻密さに関心させる力作であった。三島に近かった人たちの情緒過多の類書に比べて、その渇 きの客観性に説得力があった。都知事職を辞してから数年、また渇筆、大書の力作をみたいものである。その署名に一時は1200万都民を率いた権能者の余韻といったものがのこっているだろうか? 

蝶の群れを踏みしめる メキシコのオオカバマグラの群生

モナルカチョウ保護区で数百万頭が乱舞
  モナルカ
  *蝶の数え方は、匹、羽も使われる。けれど学術用語としては「頭」が使われる。自然保護に関する記事でもあるので、ここでは「頭」を採用した。

 昨12月に「ホタルの爆発」、じつはヒカリコメツキムシの群舞であったのだけど。そのホタルとおもったひかり虫をばしばしと打ち避けたことを書いていたら、そういえばと思い出したのが、メキシコ・ミチョアカン州の松林で遭遇した360度、蝶だらけの奇景だった。1993年に次のような記事を書いていた。

   メキシコ・ミチョアカン州アンガンゲオ村の松林にあるモナルカチョウ(和名オオカバマグラ)の保護区ではいま、数百万頭が群生している。
 モナルカチョウは、同州とメキシコ州の特定の山間部、しかも決まった幾つかの松林(保護区)にだけ毎年10月頃に数百万頭が飛来する。ここで、一頭のメスから450あまりの卵が生み出され、孵化する。孵化したチョウや、その子や孫の世代が翌年4月半ばあたりから次々と飛び立ち、広大なメキシコの大地を 北上し、米国に入りロッキー山脈を越えてカナダまで飛んでゆく。その距離、約3000キロ!
 夏を北米で過ごしたチョウたちは半年後、その孫や曾孫世代がメキシコに戻ってきて、ふたたびおびただしい生と死のドラマを繰り返す。
 マナルカチョウ、それぞれの個体は北米とメキシコの航路はいつでも初飛行だ。それにも関わらず迷うことなく確実に行き交う。遺伝子に組み込まれた航路なのだろう。
 一つひとつの保護区には数十万頭には数十万が群生する。無数の松の枝が、チョウの群れの重さに耐えかねてしなっている。チョウたちは、飛翔に必要な体温を蓄えたものから次々と舞い上がる。花吹雪のように飛びかっているチョウは先に日を浴び、からだが暖められたグループだ。何千、何万という飛翔。ま るで森から湧き出し沸騰しているような壮絶な光景だ。
 しかし、いずれの保護区も周囲の森が無残に伐採され、農地に替わりつつある。
 メキシコ政府は、モナルカチョウ保護に気を配っているというが、周囲の農地を買い取って森林に再生するような抜本的な対策を採らない限り、保護区の自然はやがて農薬の散布などでますます破壊されていくばかりだろう。 

 この記事中に書かなかったが、保護区を取材中、わたしはオオカバマグラを無数に踏み殺していた。前に進むも後ろに下がるも周囲の地面にオオカバマグラが群れているのだった。立錐の余地もなく。踏み込むと飛翔する蝶もいるけど、逃げない蝶も多いのだ。たぶん、飛翔するための熱を蓄えていない個体、あるいは寿命が尽きかけている個体も多いわけで、それは靴底でグシャという感触もあたえずに地に沈んでゆく感じ。唯々諾々と踏み潰されてゆく。感触はないのだけど、なんともいえない不快感、やんわりと滑るような感覚。しばらく、奇妙奇天烈な記憶が留まってしまった。帰路は自分の足跡、罪障の痕をみたくないのでルートを変えたが、その分、蝶の“事故死”が増えたわけだが…。ビル街を歩いていたら、空から鉄枠つきの重い看板に頭からグシャと潰される感じなのかなぁ・・・と思ったりして、メキシコ・シティに戻ってから、安全対策も甘い商店街を歩いている間、しばらく車道近くを歩いたものだ。
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