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花もつ女たち №69 レオノーラ・キャリントン (画家*英国・メキシコ 1917~2011)

花もつ女たち 
 レオノーラ・キャリントン (画家*英国・メキシコ 1917~2011)
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 メキシコ、古(いにしえ)のアステカ帝国。皇帝たちの憩いの森であったチャプルテペックの深い緑。ここにリスが庭の木々を走りまわる楕円形の国立近代美術館がある。そのギャラリーはフリーダ・カーロをはじめとするメキシコ女たちが描き出した、こ惑的な一群の渦が逆巻く。

 写真家、舞踊家なども含めて拙著『フリーダ・カーロ ~歌い聴いた音楽』の第2章で、カーロとは別にメキシコの女性芸術家たちを取り上げているので読んで欲しいと思うが、そこで甘美な冥界を描きつづけたレオノーラ・キャリントンを取り上げなかった。理由は英国生まれで20代のはじめにメキシコに渡り、晩年は米国ニューヨークに制作拠点を移し、そこで永眠したという事情、そして、彼女の絵からはアステカの血の匂いも、マヤの神秘もほとんど感じられない、という思いからだ。メキシコ画家としての「純粋」さにこだわりがあったからだ。
 しかし、生涯の大半をメキシコで過ごし、51歳のとき米国に一時的に移転したのも、メキシコ五輪直前にメキシコ市中でおきた流血事件への批判だったことを後日、知った。独裁的な大統領が軍に指示、学生・労働者、市民たちへの反政府活動、それはきわめた穏健なものであったが、五輪主催国の長として、“みぐるしい”反政府活動を嫌った。いまだに犠牲者の数が確定していない血の弾圧は、市中心部トラテロルコ(三文化広場)で起きた。非政治的な画家キャリントンにとって、政府にそうした行動で抗議の意思を示すのは、それなりの重い選択であったのだろう。
 今、拙著のなかでメキシコ画家として、取り込まなかったことを筆者の料簡の狭さに恥じ入っている。そのうち、それなりの分量で批評しなければいけないが、いまは書こうと思うが、いまは備忘録的にここに記すのみだ。

 メキシコ美術史を通覧してもキャリントンのような富裕層から出た才能はいないのだろう。
 18歳で英国のジョージ5世の社交界にデビューしたという彼女の出自は異例だ。生家は機織り機械の発明から財をなした資産家であった。つまり、インドなど植民地から血を吸い上げた英国資産階級から出た才能といってよい。キャリントンはそのことにあまり思い煩うということもなかったようだし、またする必要もないだろうが、画家の背景として記しておく必要はあるだろう。
 窮屈な寄宿舎暮しの学生時代をのぞけば、まぁ何不自由ない物理的に恵まれた生活のなかにあった。そこで自由奔放に個性を伸ばし、空想の世界に浸って育ち、自立した。少女のあふれる想像力はやがて絵画の世界に解放されてゆく。その初心は晩年まで尽きることはなかった。 そして、社交界へデビューしたキャリントンではあったが、彼女は男に選ばれる女にはならなかった。あえて苦難の道に進むことになる男に恋をして、メキシコまで流浪することになる。

 少女の想像力はやがて欧州世界の政治的な混沌、ナチの台頭、不条理な弾圧を恋人エルンストとの生活のなかで知る。シュルレアリストとして注目されていた画家エルンストの世界は憂鬱な気配のなかにある。時代の陰鬱な揺らぎがあるが、キャリントンのそれは現実から逃避、あるいは遊離した孤絶した世界だ。繊細な浮遊感に魅力がある世界といえるだろう。
 筆者がフリーダ・カーロと同世代のメキシコの画家として並べなかったのは、キャリントンの資質もあるだろうが批評性の希薄さに物足りなさを感じていたのかもしれない。幻想小説の挿画のようにみえてしまう絵解き図のような文学性も性に合わなかったのかも知れない。
 精神形成期における生活感の欠落、衣食住に満ち足りた香華のなかに育った少女にとって「芸術」は極私的な感興であればよかったという事情が、最晩年の作品まで尾をひいていると思う。しかし、それを初心よりの貫徹させたとみれば、その持続性、執拗さは表現者のおおいなる美点である。少女の夢想は歳月のなかで、生活のさまざまな澱すら養分に換え、それを貪欲に掌(たなごころ)のなかに熟成しながらも、メルヘンの香気を失わなかった精神の若さは脅威である。
 色相があらわにとどめられた初期作品は標高2400メートルの高地の大気のなかで、色相は解体し、固有色はいくども攪拌され微妙なグラデーションのなかで事物はみな詩的な象徴性をもつことになった。夢と現実が分水嶺の境界上で攻めぎ合う。自由と禁制、正義と不正、解放と抑制・・・20世紀後半の世界の揺らぎは人を思わぬ地まで飛ばした。ひとつの鋭い感性が、そんな時代に生きている手触りを確かめようと絵筆で検証していたキャリントン。絵は、彼女なりの極私的な日記のようなものではなかったのか。
 キャリントンの詩想は晩年まで衰えなかった。それは深い森のなかに潜む小さな泉池、濁りも秘めた水面(みずも)が鏡面となって揺らぎ刻一刻と変容する幻視の世界。生きている限り、詩人を捉えてはなさない桎梏でもある。彼女はそれに身を委ねていた。
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署名アラカルト №9 ソン・ギジョン(孫基禎) ’ベルリン五輪マラソン金メダリスト

署名アラカルト №9 ソン・ギジョン
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 時どき思いがけない署名(本)が入る。この連載では主たる興味として個性的な署名しか扱わないので、まっとうな筆跡署名は取り上げない。その意味では、ソン・ギジョン氏の署名は元来、本連載に馴染まないかも知れない。しかし、ハングルでソン・ギジョンと記されているのではなく、漢字で「孫基禎」と記されていることに拘(こだわ)ってみた。
 朝鮮が日本の植民地であった時期、ナチのオリンピックとわれた1936年ベルリン大会に「日本代表」として参加したソン選手は、マラソン競技で日本に金メダルをもたらした。
 母語・母字としてのハングルを奪われていた時代、ソン選手の優勝は朝鮮民族におおきな励ましとなったことはいうまでもない。そして、当時ソウルで民族新聞を自任していた「東亜日報」は、表彰台のソン選手のランニングシャツにあった日章旗を白く塗りつぶした写真を掲載した。それは朝鮮総督府の統治に対する抵抗、「独立」活動として弾圧された。同新聞の関係者は逮捕され、新聞は停刊された。
 ここに掲げた署名は、1988年、ソウル五輪を前に自ら書き下ろした自伝『ああ月桂冠に涙』に添付されていた写真にあったものだ。日本での発売の際、関係者に贈呈したと思われる同書に添えられたものだ。ハングルではなく、「孫基禎」という滑らかな署名である。解放後、ソン氏はハングルでの生活に戻ったわけだが、日本で書かれたであろう署名は漢字であった。そのことの意味をさまざまに解釈できるだろうが、ソン氏の思いに届くわけではない。

絶版文庫 Ⅱ*宮城道雄・随筆集『春の海』

Ⅱ 宮城道雄・随筆集『春の海』旺文社文庫
  宮城喜代子・自伝『筝ひとすじに』文園社刊*1990初版
 
 滝廉太郎の『花』(1900)が西洋音階を使って和風を損なわずに生まれたはじめての日本歌曲といわれる。その伝で、宮城道雄の『春の海』〈1929)を邦楽の作曲技法で西洋的な表題音楽の普遍性を完成させた最初の作品といえるかも知れないが、宮城の処女作(?)「水の変態」(1909)などから筆者はシューベルトの「鱒」を連想するぐらいで、芸術的完成度では『春の海』に譲るけれど、すでに作曲家としての天凛があった。
 盲目の筝奏者にして作曲家、そして随筆、音楽批評などをまとめて2種の全集をもった著述家にして、東京藝術大学に奉職した教師であった。宮城の筝はもともと伝統的な生田流から出てきたものだが、古典音楽家として精進するかたわら邦楽の革新、発展のために作曲をはじめ多くの活動をしてきた巨きな才能だ。
 本書は9冊の随筆集から精選された約50篇が収録されたもので発表順に並べられたもので、生誕100年事業の一環として1993年に講談社から刊行された後、旺文社文庫に入ったものだ。旺文社文庫そのものが消え、絶版となった。
 本書は身辺雑記風のものが多く、宮城の言葉で、創作の原点、邦楽界の事情とか音楽批評といったことを探ろうという魂胆をもって読むと肩透かしを食らう。ただ、朝鮮時代の少年時代から近くで煙草の店を開いていたギリシャ人と親しくなり、当時、日本でも入手が困難だった欧米からの輸入レコードをたくさん聴いていたことを知り、戦後は早くからドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーなどを積極的に聴いていることを知った。
 意外な発見はあるもので名文家・内田百聞、トルストイとドフトエーフスキーの個人全訳という大業をもつロシア文学者・米川正夫の両氏が宮城の親しい友人で筝の弟子だったことをはじめて知った。内田は宮城の文章の助言者であったらしい。宮城の随筆はいずれも風通しのよい向日性のものがおおい。戦時中、歌舞音曲が封じられた時代を語る口調もけっして深刻ぶりはない。その辺りは百聞風流人の薫香をよく聴いたせいかも知れない。
 随筆で宮城は繰り返し、目はみえないが、そのかわりカンが良いと書いている。たとえば、
 「私はよく手を引かれながら、道を教えて行くことがる。自動車の運転手にも、よく教えてやるのである。」といった類いだが、38年間、宮城の第一の弟子であり、宮城の手引きを勤めた宮城喜代子さんの自伝『筝ひとすじに』では、
 「ところで、先生(宮城)は目の不自由な人にしては珍しく、カンの悪い方でした。勘とか閃きの全部が音楽の方にいってしまっていたのかも知れません」とある。本人の弁だけではわからぬものである。
 宮城のカンの話はともかく、喜代子さんは筝曲演奏家として人間国宝に認定された独立した芸術家だが、自伝は宮城音楽をどれだけきちんと継承できているのかと自問自答しつづける。
 喜代子さんには失礼かも知れないが、自伝を宮城の傍系資料として読みはじめた。しかし、読みはじめて、たちまち宮城の第一級の資料であることを認識させられた。
 宮城が語ることのなかった作曲の苦心、演奏会の心構え、関東大震災や戦時中をどう生き延びたかといった証言などが問わず語りで時系列に語られているからだ。自身を語って、いつも傍らにいた宮城が語られる。それは大正から昭和戦後にかけての邦楽史ともなっている。
 邦楽作品を、はじめて五線譜に採譜したのは1907年、当時、東京音楽学校で邦楽調査係にあった三宅延齢であった。童謡「浦島太郎」「ひなまつり」などの作曲家でもある人だが、喜代子さんは宮城の命を受けて三宅に五線譜の記法などを本格的に習った人でもあり、宮城作品が楽譜として多くの遺されたのも喜代子さんの大きな仕事であった。宮城は生涯、600~700曲作ったといわれるが譜面として残っているのはその半数でしかないということだ。宮城道雄の資料に埋もれがちだが、喜代子さんの自伝も大切に継承してゆくべきだろう。(本書は文庫化されることはなかったが、むしろ一度は文庫化して欲しい書として取り上げた。)

花もつ女たち №68 クララ・シューマン (ピアニスト*1819~1896)

クララ・シューマン ピアニスト・作曲家
 クララ

 クララは幼いときから晩年まで実に克明な日記を遺した。幼い頃は父ヴィークの代筆で、愛娘の成長日記のようにして書かれはじめ長じて乙女の秘密が封印される日記となる。ヴィーク記の部分は優れたピアノ教師としての教授日記でもあり、19世紀のピアノ教育の一端が記されているという意味でも希少な資料でもある。

 クララとロベルト・シューマンとの恋愛、結婚、そして夫の夭折という「愛」の物語はあまりにも有名で、そこにクララの優れた芸術家としての姿が埋没してしまうこともある。それは、恋愛期の往復書簡も多く遺されているため語りやすく興味を惹くからだろう。
 天才少女の名をほしいままにしたピアニストであったクララ自身がショーマン作品の初演奏者であり、バッハやベートーヴェンの幾多の作品の初公開演奏者という“前衛”に位置していたので、同時代の多くの証言記録が遺されることになった。当時、リスト自身しか弾けないといわれた、リストの難曲も作曲家の前で弾きこなした演奏家がクララであった。そんな逸話に事欠かない。つまり、クララ自身の記録はそのまま音楽史における重要な資料、財産なのである。

 ここにシューマンがまだクララに恋愛感情を覚える前、当時、辛口の音楽批評家として名をしられていたシューマンのクララ評がある。
 「彼女(クララ)は幼少でイシスの女神のヴェールをあげた。この幼女は静かに見あげている。大人たちはその光輝に盲目になるかも知れない」と。13歳のクララの演奏評として。
 また当時、ゲヴァントハウスの指揮者としてライプチヒ市民の偶像であった若きメンデルゾーンも、クララのピアノに驚愕し、「彼女は小さな悪魔のように弾いた」と書き付けている。

 しかし、なんと多忙で意欲的な芸術家として70年近い活動を持続し、敢えて書くが「内助の功」として夫シューマンに寄り添い、シューマン芸術の普及に努め、7人の子(4人は幼くして死去)の母となった婦道の鑑のような生涯はまったくもって頭が下がるような神々しさ。シューマン亡き後はブラームスの控えめで適切な補助があったとはいえ、ひとりの女性が成しえた事業の大きさに瞠目する。ピアノ協奏曲など多くのピアノ曲を作曲した才能であったことも忘れてならないだろう。
 音楽教師としての父親の存在としてモーツァルトやベートーヴェンの事例が物語りとなるが、クララもまた父ヴィークの存在なくしてピアニストとしての大成はなかった。その畏敬する父はシューマンとの結婚に裁判まで起こして抵抗した。クララのその時、“恩師”の父を切ってシューマンに走る。そういうドラマチックな挿話に満ちたクララの生涯は、映画や舞台で愛の物語として繰り返し描かれてゆくことになる。そんななかで、シューマンの「トロイメライ」がクララへの愛の告白のように思われてしまう誤解も生じた。

アラル海  20世紀最大の環境破壊  …ウズベキスタン紀行抄

アラル海の激しい後退
  20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

 
 ヒロシマの「原爆ドーム」を核戦争の象徴としてユネスコが世界遺産とするなら、今またアフガニスタンのバーミヤン石仏の破壊跡を人間愚行の証しとするなら、消滅しつつあるアラル海の荒廃そのものも収奪的経済がもたらした環境破壊の最大の現場として世界遺産とすべきだ、と思った。

アラル海

 想像を絶する光景だった。
 「ここは激しい波が打ち寄せる断崖絶壁だった」とタクシーの運転手が言った。
 しかし、見渡すかぎり広漠とした無彩色の空間がはるか彼方、地平線まで果てしなくつづいていた。
 第二次世界大戦の巨大な戦勝記念塔がそこに建つ。おそらく、戦勝塔は、ナチドイツの鉄の暴風によく耐え、戦い抜いたソ連人民の不屈の精神を象徴するのだろう。絶えず吹き寄せる海風を受け止める、そんな苛烈な場所に建てられた意図はそういうものだと思う。
 そう、戦勝碑が建立された当時、アラル海の波頭はその岸壁を洗い、豊かな魚影は近在の村を潤していた。しかし、岸辺ははるか彼方、二〇〇キロも後退してしまったのだ。
 「アラル海がここから去って、冬は厳しく、夏は過酷になった。ひどいもんだよ。美味い魚は食えなくなるし」とも運転手は言った。
 彼はカラカルパクスタン人、モンゴル族の末裔となる。母語はウズベク語の縁戚にあたるカラカルパック語だからロシア語が拙いのは仕方がない。文法はもとより時制もいい加減で、みな現在形で処理していると通訳してくれた在タシケントの日本大使館職員が言った。
 まだ四十年にも満たない前の話。タクシー運転手の幼少期には、アラル海は世界第四位、琵琶湖の約一〇〇倍の巨大湖であった。それが一九六〇年代から急激に水位を下げはじめ八〇年代には水面が一五メートルも下降し、湖面積で六二%、水量で八四%も減少し、現在は中洲が露呈して三つに分断されてしまった。涸れた湖底ではそこかしこで塩が凝固し、やがて風に削られ、微粒子となって宙に舞い上がる。そして、近在の農地に降り注ぎ、土壌を荒廃させているのだった。破壊の連鎖は止まらない。
 戦勝塔の建つ岸壁から三キロほど下ったところに漁港があった。かつて沿岸最大の水産加工工場をもったムイナクである。すでに岸と湖の境い目は消滅し、打ち捨てられた漁船、輸送船、そして沿岸の町をつないで航行していた小型客船の残骸があちこちに点在し、かつてそこが湖であったことを教えているだけだ。廃船は赤錆を晒して無惨である。甲板は指で押せばポロポロと剥離してしまうほど脆くなっている。
 アラル海はムイナクを見捨てたが、町はまだ生き延びている。しかし、ゴーストタウンといってもおかしくないほどの過疎状態だ。異様な静寂にみちている。映画館の扉が打ち付けられている。四、五階建ての公団住宅もあるが、人の気配がない。町の佇まいは立派だが荒廃感が著しい。子どもの姿がみえない。生活臭がまったく希薄なのだ。
 アジアやラテンアメリカのスラムは住民の過剰がその体臭とともに荒廃感を漂わせているものだが、ムイナクは住民の過少が町を“スラム”化し、冷たい風が人いきれを凍りつかせている感じだ。
 水産加工工場へ行った。かつて地域経済を支える柱であったところだ。正門の鉄扉には、湖から魚を捕獲する漁民の姿が描かれていた。絵具がまだ剥落せず残っている。つい最近まで操業していた、という印象だ。しかし、誰もいない。施設を管理する者もいない。
 最盛期には、年間四万トンの水揚げがあったアラル海の漁業はほぼ壊滅した。湖面積が縮小するのに比例して、残った湖水は塩分濃度を高めた。そして、カザフスタン側に分離して残された小アラル海でわずかに魚影をみるだけで、南の大アラル海側では魚影は消えたといわれる。
 ムイナクの町の入り口にたつ案内塔には、魚の絵が波の象徴とともに描き込まれていた。繁栄する漁港の面影は、住民たちの心にまだ生きている。アラル海はそれほど急激に衰退したということだ。


 アラル海は城壁をもたない遊牧国家スキタイの昔から中央アジアの人と自然を潤してきた。
 モンゴル族の侵出、ティムール帝国の盛衰、ロシア帝国の南進、そしてソ連邦に併呑され、やがて独立へと……人間社会の興亡に寄り添い、数千年のあいだワガママな人間社会に豊かな富を分け与えていた。人間たちもアラル海を畏敬し、さまざまな祈りの言葉ともに崇めてきた。仏教、ゾロアスター教、そしてイスラム教……祈りの言葉が貶められ、宗教をアヘンと見なした“労働者”の政府がはるか北方に誕生したときアラル海は荒廃へと助走しはじめた。
 ウズベキスタンの首都タシケントからティムール帝国のかつての王都サマルカンドを車で訪ねた。その道沿い、その左右にはてしなく綿花畑がひろがっていた。
 その大半が大戦後、クレムリンの命令型計画経済によって強制された土地改良、不毛の砂漠や荒蕪地を綿花畑に変える一大プロジェクトによって生まれたものだ。
 綿花栽培には多くの水を必要とする。
 ウイグル語で天山山脈をテンリ・タグというが、ここを源流とするのがシルダリア川。そして、七〇〇〇メートル級の高峰がつらなるヒンドゥークシュ山脈から流れ出す大河アムダリア川、この二大河川の豊かな水量をソ連政府は無限のものとみなした。そして、両大河から乾いた大地に水を引き込む運河を通し、四通八達させて綿花栽培地を拡大しつづけた。
 この運河建設に大きな足跡を残したのは大戦直後、ソ連軍に抑留された日本兵たちだった。というより、ウズベキスタンの運河は日本の抑留兵の存在抜きにしては語れない。
 首都のタシケントをはじめ各所に祖国に帰還することなく息絶えた抑留兵士たちの墓地がある。過酷な運河建設にたずさわり、病いなどで倒れた兵士たちが眠っているのだ。
 首都タシケントにウズベキスタンのボリショイといわれる国立ナボイ歌劇場がある。華麗とはいいがたいが質実剛健でティムールの末裔たちの首都にふさわしい剛毅さはある。この劇場の建設に日本の抑留兵がかかわり一九四七年に完成した。抑留された日本の若者たちの血と汗の結晶といってよい。
 「若者たち」と書いたが、歌劇場の建設に従事した日本抑留兵は「タシケント第四ラーゲリ」に収容されていた。歌劇場の建設を担当した抑留兵隊長は当時、二十五歳の永田行夫陸軍大尉であった。みな若かった。
 一九六八年、タシケントは都市直下型の大地震に見舞われる。スターリン時代に建設された建物の大半が壊滅したといわれる。しかし、ナボイ歌劇場はビクともしなかった。以後、ウズベキスタンでは、「日本人たちの優れた技術、誠実な仕事が堅牢な建物を残してくれた」との賞賛が定着した。
 ソ連から独立して以後、ウズベキスタンは、「わが国は日本と交戦したことはない。戦争はモスクワの政府がやったことだ」という“論理”で親日国であること宣明している。そのリップサービスに酔ったか、中央アジア五カ国中、ウズベキスタンは日本からの経済援助をもっとも多く享受している。しかし、政敵を非合法手段で逮捕、拘禁し、健全野党の存在すら認めないイスラーム・カリモフ大統領の“独裁”を擁護する姿勢は、欧米の人権諸団体からは懐疑の目で見られていることは認識すべきだろう。
 さて、ナボイ歌劇場建設でみせた日本抑留兵の堅実な仕事は、運河建設でも例外なく発揮されたのは当然である。当時の日本人の愚直なのだろうか、激しい労働にも関わらず慢性的な食糧不足、医療設備の不備、そして厳しい気候風土にも関わらず「手抜き」をしなかった。しかし、そうした仕事への誠実さは抑留兵たちの肉体を蝕んだ。多くの犠牲者を出した。コーカンド二四〇人、アレグレン一三三人、ベガワード146人、チュアマ三二人……と確認されているだけで八〇〇人以上の抑留兵が帰還することなくウズベキスタンの荒野に眠ることになった。
 戦後、運河建設に関わった人たちの手記や記録などが数種出版されている。けれど、その多くが私家版で広く読まれることにはならなかった。筆者が手にした自費出版を幾つか読んでみて、あらためて当時の日本人達の労働観、あるいは責任感の強さを知った。建設に携わった人たちが皆、「恥じない仕事」という意識をもっていたことだ。
 彼らの名が歴史に刻まれるわけではないが、「日本人の仕事」として残ることの意味を日本人として責任を待たなければならないと思っていた。日本人としての矜持が妥協を赦さない、という心根を皆、もっていたのだ。戦前の日本は、そうした美質をもった人たちをふつうに育てていたのだと思う。昨今、見つからなければ数本、鉄骨を抜いても、細くても安く上がれば 、それで良い。利潤を追求することを最優先させた“構造疑惑”など、ウズベキスタンの荒野で血と汗を流した人たちには理解できないことだろう。


 日本人たちが建設した運河は無論、現在も使われている。
 もちろん日本人に責任はないが、結果として堅牢に作られた運河はアラル海に流れ込むべき二つの大河の流れを急速に細くしてしまった。
 大規模灌漑事業は第二次大戦後から一九七〇年代まで引き継がれた。日本人たちが建設した運河から支脈も延びた。そうして七〇年代には六二〇万haの灌漑農地が造成されている。
 スターリン時代、綿花増産と運河建設の近視眼的な生産第一主義は、「やがてとんでもない自然破壊を引き起こす」と警告する農学者がロシアやウズベキスタンにも存在し、条理を尽くして反対していたという。しかし、そうした勇気ある学者は反ソ的存在として“粛清”されていった。また、ソ連邦中枢の科学アカデミーとその傘下に多数の研究機関が存在しながら、灌漑事業の推進による環境被害を食い止める調整制御機構をつくれなかったのは、生産向上というスローガンに乗らないと研究資金が政府から得られないという体制上の問題も無視できない。
 綿花栽培を主体的に担ったのはウズベク人であることは間違いないが、彼らはもともと遊牧の民であった。農耕を好まない民族である。しかし、ソ連政府はロマ族(ジプシー)の定住化を強制したように、中央アジア諸国の遊牧民の定住化を、イスラム教団の活動を停止させ、影響力を殺ぎながら推進した。
 一所不在の民族譜を織りつづけてきた遊牧民を定住化するには、生活の糧の創出がなければならない。急速な工業化社会が実現できない以上、農地を確保しなければならなかった。しかし、元々、痩せた地で収益を出せる換金作物は限られていた。伝統的な綿花栽培を拡大するのが一番、手っ取り早かった。しかし、綿花栽培には大量の水が必要だった。米国南部に綿花畑が広がったのは、カリブ海から吹き寄せる雨雲による降雨量があったからだが、中央アジアの降雨量の絶対値は少ない。そこで二つの大河から運河で水を敷くこととなったのだ。
 ラテンアメリカやアフリカ諸国の多くが旧宗主国から砂糖、コーヒー、あるいはバナナなどモノカルチャー経済を強いられ、今日まで構造的な貧困から抜け出させないでいるのと同じような状況によってもたらされた人災なのだ。クレムリンは中央アジア諸国にモノカルチャー経済を効率よく短期間で強いたともいえる。
 

 これまでウズベキスタンのアラル海として書いてきたが、正鵠を欠く。
 何故ならば、アラル海の沿岸を持つ地はウズベキスタンではなく現在、防衛と外交権をタシケント政府に委ねているカラカルパック自治共和国なのだ。ソ連邦崩壊後、短期間、「独立国」として存在いた時期もある。その独立以前、この小国は世界から弧絶した「封鎖国」であった。
 一九三〇年にスターリンはこの小国に「調査団」を派遣した。この国に散在する歴史的建造物の「科学的調査」を実施するというのが目的だった。調査の本当の意味は、いかにモスクワ政府に従わせるかの一点のみ。調査の結果として、一〇〇のモスクと二〇のマドラサ(神学校)が三四年、たった一年間で取り壊された。ただ破壊されたのではない。モスクなどの廃材はそのままソ連スタイルの役所などの建設資材として活用されていったのだ。
 カラカルパクスタンの首都はヌクス。中央政庁前の通り駱駝が日がな一日、寝そべっているような町である。その政庁の周囲には旧ソ連各地でみかける無彩色で堅牢な建物が幾つも建っているが、その建材にモスクやマドラサの廃材が使われたわけだ。こうした宗教破壊はロシア革命後、全土に及んだ。そして、イスラム教国では宗教施設が、宗教を否定する役所の建材に転用された。こうしたことが集約的に起きたのがコロンブスのいわゆる〈新大陸発見〉以後のアメリカ大陸、特にマヤ文明、アステカ帝国があったメキシコから中米諸国であった。ピラミッド型の広壮な神殿は次々と破壊され、その神殿跡地に山積した石材を組み直してカトリック教会の大伽藍を作ったのだ。
 現在、新大陸一の規模を誇るメキシコ市のカテドラルはアステカ帝国の中心地に、神殿を破壊して建てられたものだ。その地下には、幾層ものアステカ期の遺構がいまも眠っている。そう、スターリンが中央アジア諸国で行なった宗教施設の破壊は、スペイン征服軍のエルナン・コルテスやペドロ・デ・アルバラードなどがやった蛮行と基本的に変わらない。
 スターリンの犯罪は宗教者への弾圧で加速した。カラカルパクスタン政府の資料によれば、宗教施設の破壊の完了とともにはじまり三七年から翌三八年に掛けて約四万一千人が逮捕され、七千人が処刑された。おそらくカラカルパクスタン人の抵抗はつづいたのだろう。三九年からスターリンが亡くなる五三年までに約10万が逮捕され、一万三千人が処刑されたという。逮捕者のなかにはシベリアなどのラーゲリに送られ、獄死したものも多かったはずだ。そうした犠牲者の存在は、現在でも総人口百五十万の小国にあっては知識人と宗教者の大半が消された、ということだ。当時のイスラム社会にあって知識人とはイスラム神学者、高位聖職者であることも意味した。
 こうして抵抗勢力を徹底的に殺いだ後、スターリンはカラカルパクスタンを「封鎖国」として外国人の入国を制限し、ヌクス郊外に地元民をまったく雇い入れない秘密軍事工場を建設し、さらに、アラル島の孤島ボズロジェーニエに生物兵器を研究・開発する赤軍直轄の研究所を設立し、炭疽菌やペスト菌などによる動物実験を繰り返していたという。同島にはソ連軍侵入以前には漁民が暮らしていた。その住民が何処へ強制移住させられたか不明だが、無人となった島に赤軍が生物兵器の実験場としたのは、カラカルパクスタンにソ連の強制執行の「調査団」が入る前年の三六年であった。
ソ連邦崩壊後、九一年に赤軍撤退にあたって施設は無菌状態に戻され、完全封鎖して引き上げたといわれた。しかし、約一〇年後の二〇〇〇年に米国の疫学調査団が入島、殺菌され地下数メートルに遺棄されていた炭疽菌の胞子数一〇トン(!)のうち一部が生きていることが確認されたという。同調査団は無論、緊急処置を施し、細菌の流出を止める処理し、本格的な除去をできるだけ早い時期に実施するということになっているが、現在のところ、その作業はまだ済んでいない。
 同研究所の細菌の一部がなんらかの理由で漏洩し、カザフスタン沿岸周辺で八八年にはペストが流行し、八八年には家畜五〇万頭が原因不明の病気で死んで、周辺住民に避難命令が出たことがあった。
 かつての漁港ムイナク周辺の乳幼児の死亡率がウズベキスタン平均を上回り、アラル海の後退による何らかの原因と予測される。


 アラル海から揚がった水産物はムイナクだけでなく水量の豊かだったアムダリア川を遡上して首都ヌクス郊外に岸辺に作られた加工工場に運ばれた。その工場も現在は閉鎖され、従業員の宿舎は空き家となった。工場で働く従業員のほとんどがロシア人であった。ソ連崩壊後、ロシア人は引き上げ、空き家となった宿舎に地元民が入居した。その村に住む老人の案内で、「アムダリア川が消滅している場所はすぐそこだよ」ということで案内してもらった。
 そこにも漁船、小型輸送船や係留されたまま朽ち果てているのだった。その一艘の船体には「レフ・トルストイ号」とあった。
 「すぐそこまで水量はあったんだ」と老人が示す辺りから、数十メートル先まで下降したところに細い流れがあった。無論、大河の面影はまったくない。
 村の近くの路上で魚をビニールシートの上にならべて売る人たちがいた。アムダリア川から獲ってきたものだが、こんな魚も数年後には揚がらなくだろう。
 ウズベキスタン政府は非公式だが、アラル海の再生をあきらめたという。
 アムダリア川とシルダリア川の水量をかつてのように戻し、アラル海に注ぐ量を増やすためには膨大な綿花畑を潰さないといけない。そこで生計を立てる農民の再就職先を確保しなければできない相談だ。それに綿花の輸出に頼る経済構造を急激に替えるわけにもいかないし、同国東部のファルガナ盆地では地域格差を放置するカリモフ政権に対する根強い反対勢力が存在し、二〇〇五年には中央アジア諸国が独立して以来、最大規模といわれる暴動、それを鎮圧するための過酷な弾圧が行なわれ女性や子どもを含む五〇人以上が殺されている。これ以上、貧しい農民の生活を困難にする施策は絶対にとれないのが同国政府の現況だ 。
 ただ、同じような独裁的な国家であるカザフスタンだが、独自に同国領で分離して残された小アラル海では漁獲が認められること、保全が可能ということで水量維持するためのダム建設、及び南の大アラル海につながる水路を封鎖する工事が進められている。この一連の工事のためにカザフスタン政府は世界銀行から多額の資金を借り受けている。この返済に見合うだけの価値が小アラル海の一連の再生事業に見合うものかどうか、それは先の問題である。
 ダムは永遠に使用できるものではありえないし、世界的な傾向としてダムそのものの見直しが始まっている。それに、これまで世界銀行が融資する、いわゆる「開発援助」事業の多くが広大な環境破壊に繋がっていることは周知の事実で、たとえば“ 地球の肺”と呼ばれるブラジル・アマゾン地帯の荒廃に拍車をかけたロンドニアの植民事業に世銀が積極的に融資した。一九九七年、インドネシアの熱帯雨林二六万ヘクタールが消失し、隣国のマレーシア全土まで煙幕で覆った“人災”も世銀が融資した開発事業計画に遠因がある。世銀の絡んだ“人災”は一九六〇年代に開発途上国を対照に開発融資を行なうようになってから、地球の各所で引き起こされるようになった。


 ムクスの博物館で三〇年ほど前にモスクワで発行された豪華な写真集〈今日のウズベキスタン〉を売れ残っていた。退色した表紙をめくると綿花の収穫が飛躍的に伸びた、と自画自賛する本であることが分かる。農民の顔は晴れやかであり、役人も自信に満ち、灌漑用水に勢い良く水が流れている。言うことなし。計画経済の勝利、社会主義バンザイである。この制作された映画などでも広大な綿花畑を映し出すものがあったし、海外にでなかった歌、教宣的小劇(街頭劇)、プロバカンダとしての詩や小説にも繰り返し描かれただろう。それがソ連という国であり、スターリンの時代にそうしたことが国の文化政策として決定した。しかし、その社会主義バンザイはアラル海の荒廃を告げる晩鐘のなにものでもなかった。 2007/6

映画評『迷子の警察音楽隊』 イスラエルとエジプトが隣国であり、隣人であるという動かしがたい事実

映画評『迷子の警察音楽隊』
     エラン・コリリン監督
迷子の

 「パレスチナ人民」と精神的な連帯を表明している評者にとって、イスラエル映画を前にすると自然と身構えてしまう。イスラエル国内にも父祖の地を取り上げられたパレスチナ民衆に寄り添い、さまざまな活動しているユダヤ人が多いこともしっているし、映画人もいる。パレスチナの民衆とともに、地を這う視点から映画をとっているイスラエル・ユダヤ人の映画監督にインタビューしたこともある。けれど、やはりイスラエル映画のなかに政治的要素が入りこめば検証的視線でみてしまう。それは今後も変わらないだろうし、パレスチナに対する抑圧的な政策がつづく限り、それは不変。だから、イスラエル映画の本作を観る前に、評者の見方はアラブ・イスラム圏の映画を観るときより、かなりハードルが高いはずだ。が、感心した。それは正直に書いておこうと思う。

 人を信じても良いなぁ、とほのぼのと思える佳作だ。
 たとえば、恋人たちの日常に、あるいは夫婦のあいだに小さな亀裂が入ったとき、言葉がうまく繋がらなくなったとき、しばらく映画館の暗がりに座って沈黙し、スクリーンからこぼれてくる「希望」に耳傾けていれば良い。誰だって過ぎこしてきた日々への悔恨はあり傷があるだろう。それに折り合いをつけて過ごしてきたのだし、これからもそうだろう。相手を批判してばかりはいられない。批判する自分もまた傷つく。恋に恋するための映画ばかりがデート向きとは限らない。
 ストーリーはまったく単純。どこかに置き忘れてしまいそうな挿話である。でも、かけがえのない真実。そんな話を34歳のエラン・コリリンが巧みなシナリオに仕上げ、自ら監督第1作として撮り上げた。逸材の発見だ。
 
 1990年代の某年某月没日……エジプトは古(いにしえ)の都アレキサンドリのしがない警察音楽隊の男たち、一行8人。イスラエルのある町に開設されたアラブ文化センターの開所式のセレモニーで演奏をするため招待され、国境の税関を通過した。物語はそこからはじまる。このあたりはエジプトとイスラエルが蜜月状態にあった時代を象徴している。現在は、そんな蜜月も崩壊してしまった。
 音楽隊がセンターからの迎えを待つ、ただひたすら待つ。が誰も来ない。そこで隊長のトゥフィーク(サッソン・ガーベイ)は、「われわれはずっとこうした困難に対して自力で打開してきた」という言葉に、同音楽隊のエジプトでの位置がほのかにわかる。開設された文化センターの規模までなんとなく分かってしまう。そのあたり良く計算されたシナリオだ。
 トゥフィークの滋味のある演技は卓抜。資料を読むとイスラエルにおけるアラブ系男優として名声を獲得している人だという。スターロンの『ランボー3/怒りのアフガン』にも出演しているそうだ。考えてみれば、あの映画はソ連のアフガニスタン侵攻に対して、米国が代理戦のパートナーにタリバンを選び物心両面で支援したことを諸手をあげて認めたハリウッド映画として、まことに貴重な証言であった。それが、やがて「9・11」に反転する。歴史は皮肉だ。
 閑話休題。トゥフィークの苦労はしかし、報われず、まったく違った町にバスで運ばれ、「迷子」になってしまう。その町でしかたなくイスラエル人たちの世話になる。その一夜のなにげない、どこにでもありそうな交流が淡彩で描かれているだけだ。
 トゥフィークは、その町で、離婚してひとり小さな食堂を営む中年女性ディナ(ロニ・エルカベッソ)と近くのしがないレストランで夕食することになる。何気ない会話につむぎだされる、ふたりの過去。しかし、それだけ……ハリウッドやフランス映画のように情熱にまかせて一夜かぎりのベッドをともにするとはならない。静かな、そして平凡な夜が待っているだけ。他の隊員たちもそれぞれ身に応じたすごし方で「迷子」の夜に染まる。
 誰にでも起こりうる日常のなかの陥穽。予期できない人と人の出会いの不思議は、それは天のひそかな配剤かも知れない。しかし、運命的な出会いも、その後に織りなす日々は自己責任である。
 誰だってそうそう誉められた日々を過ごしてきたわけではない。でも、良いではないか。それぞれ、その時、自分は精いっぱいの選択をしてきたのだ、それを悔いてもはじまらない。現にこうして元気な自分がいる。人生万歳! と心のなかで小さな声で叫ぶことができような映画。タイトルを失念しても、心の隅に生きていてくれそうな映画だと思う。   2007年10月記

映画『レス・ポールの伝説』  ~電気の20世紀の音色    ジョン・ポールソン監督

映画『レス・ポールの伝説』
     ジョン・ポールソン監督
レス

 20世紀の大衆音楽は間違いなくギターが主導した。厳密にいえば電気仕掛けのエレキ・ギターが登場したことによって表現領域は宇宙大に拡大した。いまでもアコーステック・ギターが雄弁なクラシック音楽、フラメンコ、ボサノバ、一群のカリブ音楽……けれど、ステージの弦の妙音が聴衆に感動を与えられるのもマイクという電気増幅器のおかげだし、CDの制作から再生も電気を通して”芸”となる。
 昔、ボブ・デュランがフォーク・ギターからエレキに持ち替えた時、多くのファンの怒号を浴びた。一時的にファンを失ったといわれるが、それも昔話になってしまった。エレキ・ギターはすでに日常的な光景である。
 本作は、そのエレキ・ギターを創案・発明したギターリスト、レス・ポールの評伝的記録映画。
 筆者がS盤アワーなどを聴きはじめた中学生時代、レス・ポールの名をはじめて知った。エレキを発明したアーティストとは知らず、なんとも穏やかな少々古めかしい音色だな、と思った。すでにベンチャーズが活躍しはじめていたし、レス・ポールの流れを汲むアル・カイオアの音の方に新しさを感じていた。そして、いつしかレス・ポールの名は忘れた。けれど、CD時代になって復刻される往年のヒット曲集にレス・ポール作品が散見され、聴くともなく聞いていたというのが、この映画の出会いまでの状況ということになる。
 レス・ポールがエレキ・ギターを発明し、それを弾きながら妻メリー・フォードとのデュオで次々とヒット曲を飛ばす。それ以前、彼が名うてのアコーステックの名手であったことを映画で知った。いや、名手であったからこそ表現の拡大を目指し、手先の器用さも手伝って“世紀”の発明が生まれたのだ。映画では、先行者として幾多の創意工夫があったことも語られるが、刻苦勉励といった暗さはない。向日性の発明譚であって、すぐ“道”的に語りがちな日本的湿度とは無縁である。
 映画はエレキ以前のレス・ポールもきちんと描いている。
 20世紀は映像の世紀でもあり、映画を世界的な産業にした米国に多くの記録映像が残っているのは必然である。
 若き日のレス・ポールが目指したギターリストはジャンゴ・ラインハルト。ジャンゴの正確無比な演奏技術とロマンチシズムは一世を風靡した。ラインハルトの功績は、先年、ウディ・アレン監督、ショー・ペン主演の映画『ギター弾きの恋』でも〈当代随一のギターリスト〉と称揚されていた。本作では、そのラインハルトの演奏光景まで収録されているのは貴重。そのジャンゴやレス・ポールのアコーステックなサウンドを聴きながら、ロス・インディオス・タバハラスの音色を思い出した。
 日本で民放テレビが開局して間もない時期の人気音楽番組に『シャボン玉ホリディー』があった。そのエンディングは「スターダスト」。タバハラスのヒット曲として当時知られていた名曲。しかし、そのギター曲は、メキシコ・トリオ音楽の活況期にも関わらず、おなじメキシコのギターでもずいぶん違うという印象をもったものだ。それは今まで何となく隠れていた〈疑問〉だった。この映画をみて、タバハラスのギターはジャンゴ・ラインハルトの系譜に属する音色であったと合点がいった。そんなことを私的に感慨深く読み取りながら観たのだったが、映画の主眼は、ローリング・ストーンズのキース・リチャードがいみじくも言った「レス・ポールは俺たちに最高のオモチャをくれた」という評 言をインスパイヤーするものだ。
 エレキを弾きはじめたレス・ポールだが、その基本的な曲想は自身のアコースティック時代の延長である。しかし、それを聴いていた若いギター小僧たちは思い思いのアイディアを注ぎ込んでいった。その流れはいまだに世界各地でつづいている。その源流に立つレス・ポールは現在93歳だが、いまも毎週月曜、N・Yのイリジウム・ジャズ・クラブでライブを行なっているというから驚きだ。  
 *2008年8月記。

絶版文庫 Ⅰ*ジョージ・オーディッシュ著『チョウの季節』教養文庫

絶版文庫 
 ジョージ・オーディッシュ著『チョウの季節』(中村凪子・訳)教養文庫

 2002年6月に版元の社会思想社が廃業したため1951年から創刊されていた「教養文庫」はすべて新刊書店から消えた。
 岩波、新潮、角川といった老舗の文庫にはない個性的なラインアップで多くのファンがいたが、大衆的とはいえず、基礎的「教養」力のある層に支持されていたといえるだろう。雑学的科学読み物の種類も多く、今回、紹介する本もそうした一巻である。本書は、文庫化される前にハードカバーで邦訳(文化放送出版局)されたのが最初だ。初訳本は現在、入手することは至難だ。もともと出版が本業ではないところから出たもので、内容の濃さから教養文庫に救い出されたといえる。
 筆者が、本書を手にしたのはだいぶ前で、たぶん、グァテマラに滞在中、チョウの採集に励んでいた時期に一度、読んでいる。今回、再読したのは、先月、メキシコの森林に群棲するオオカバマダラ蝶を書いた際に参考としたからだ。現在、この文庫本も入手困難なので少し内容紹介したいと思った。
 オオカバマダラを別名「帝王蝶」という。名の由来はしらない。メキシコとは生活形態が異なるもののオオカバマダラの仲間が台湾の山にも群生していて、そこは蝶マニアにとっては一種の聖地でもある。「帝王蝶」はおそらく台湾から興った名だと思う。本書の著者は、米国人なので「帝王蝶」という名の由来には触れていない。

 越冬のために最長5600キロも旅するオオカバマダラのその旅の様子だけでなく、メス蝶が卵を産み付けるために適当な葉を探す段階、いや、交尾前のオスとメスの出合い前のひと時から、死に至までを批評的にいえば克明に描き出したものだ。しかし、その克明さは文学的修辞、比喩に富むリリカルなものだ。といって、科学的観察したことを逸脱する飛躍はない。科学と文学の境界線上をそれこそ自在に飛翔しながら、読者をオオカバマダラの旅に同行させてくれる。それは見事としかいいようのないもので、読者の視界は蝶の羽のうえのものとなる。
 そして、小さな蝶の生活もまた、われわれと同じように生きるために本能的に意識を重層化させるように、蝶もまた繰り返し生存本能と種族維持のための闘争の日々を送るのだ。著者はわれわれの手足の機能を語るように、小さな身体の部位を注意深く観察し、それがどのように機能してゆくのかを生のハーモニーとして描きだす。
 いわゆる昆虫記は無数にある。しかし、蝶を描いて、これだけリリカルな一書となった例は稀有なことではないだろうか。蝶に象徴させて、著書はすべての昆虫たちの生への闘いの困難さを代弁する。オオカバマダラを描いて、昆虫の生々流転そのものを象徴させているところに本書の価値がある。
 そろそろ春、暖かな日に誘われてさまざまな昆虫が地上に這いだし、舞いはじめる。その何気ない光景になんと多くの彼、彼女らの生への営みのドラマがあっただろうか、と思いいたすことを強いる本である。
 

著名な先住民人権活動家、暗殺される 中米ホンジュラス

米大陸、先住民の人権状況は改善されず
 著名な先住民人権活動家、暗殺される 中米ホンジュラス
ホンジュラス

 世界中の環境保護活動に目配りをして選考されていると尊重される環境問題におけるノーベル賞「ゴールドマン環境賞」を受賞している世界的に著名な先住民活動家ベルタ・カセレスさん(43歳)が3月3日未明、中米ホンジュラスの自宅で殺害された。
この悲報は同国だけでなく、世界中で先住民の数少ない居住区が開発の名の下で破壊されつつある現状を憂え人々のあいだに波紋を呼んでいる。
 
 1992年、コロンブスの「新世界」到達500年を機に南北アメリカ諸国の先住民は声を上げた。
 「この500年は先住民によって圧政と屈辱、非人権の歳月だった」と。そして、ただ声を上げるだけではなく運動を組織化し国連の場にも多くの問題を持ち込んだ。いずれもコロンブスからの5世紀に及ぶ問題の集積であった。
 その一つの成果として、国連は「先住民年」を制定し、運動は日本のアイヌ民族も参加する国際的な運動となった。その運動の象徴的存在が、中米グァテマラのマヤ系キチェ族出身の女性活動家リゴベルタ・メンチュウさんだった。アメリカ地域最初の先住民出身者がはじめてノーベル賞を受賞した意味は大きかった。
 また、南北アメリカの広範囲地域で先住民に対する征服戦争を仕掛けた西欧諸国の軍隊に従軍司祭として参加することになったカトリック司祭の罪もバチカンは認め、ローマ法王自ら謝罪したのも1992年のことだった。
 しかし、実際のところ南北アメリカ諸国に暮らす先住民は北はイヌイット族(エスキモー)から南はチリのマプチェ族までいまも“開発“という名の土地収奪に脅かされている。
 
 暗殺されたベルタ・カセレスさんは、1993年、国連の「先住民年」に後押しされるように「ホンジュラス人民組織委員会」(COPINH)創設し、同国の先住民人権の向上に文字通り身体を張ってきた活動家であった。首都テグシガルパの事務所(当時)、短い時間だったが話す機会があった。
 近年の活動は先住民居住区を水没させるダム建設阻止に身体を張ってきた。
 グアルカルケ川上流で進むアグア・サルカ水力発電ダムの建設反対運動で、COPINHの活動家たちがダム推進派からの直接的な暴力を受けていると軍、警察機関を批判していた。同国では、他の流域に住むダム建設阻止活動に従事していた先住民活動家トマス・ガルシアさんが2013年に暗殺される事件も発生していた。カセレスさんは同国を先住民の多数派レンカ族出身で、父祖の代から住む「神聖」土地、民族の歴史、伝統文化そのものが破壊されることに反対していたのだ。同国では2010年から15年のあいだに人権活動家などが109人も暗殺されている。活動をする、ということは同国では命を張ることを意味した。だから、国際社会の賞を授与し、同国の推進派を牽制する必要もあった。
 カセレスさんは、開発工事は軍隊や警察の「暴力」に守られると政府を批判していた。それはホンジュラスばかりでなく中南米諸国の開発事業にともなう共通のことだ。そして、その軍隊の大半は米国の影響下にあるとカセレスさんは2013年に批判し、地域の耳目をひいた。また就任間も ないフランススコ・ローマ法王にもヴァチカンで謁見、ホンジュラスで起きている問題は、南北アメリカ地域におかれている先住民の状況だ、と訴え、法王も理解を示していただけにカセレスさん暗殺は多方面で大きな波紋をよんでいる。
 同じマヤ系先住民が国民の半数を超え、同じような開発問題を抱える隣国グァテマラにもカセレス暗殺事件は波及し、先住民組織は事件の究明と先住民の伝統を守れと活動をはじめいる。また、南北アメリカ諸国の最大の諮問機関である米州機構などもホンジュラス政府に公正な処置を求めている。
 同国の通貨単位をレンピーラという。16世紀前半、スペイン征服軍と勇敢に戦った伝説的な先住民指導者を称えている。また、同国最大の観光資源は古代マヤ文明の巨大な都市遺跡コパンであるが、その観光業から遠ざけられているのも現代の先住民だ。レンピーラ紙幣にもコパン遺跡は誇示されている。同国、いやラテンアメリカ諸国では、歴史の長さを象徴したいため実証もむずかしい先住民英雄の事蹟が尊重されているが、しかし、それは紙幣や硬貨、あるいは切手といった表象のみで、現実の先住民たちが尊重されることはない、と言い切ってよいだろう。
 写真は、ゴールドマン賞受賞式でのカセレスさんだが、伝統的な先住民衣裳ではない。ホンジュラスではグァテマラやメキシコのように伝承されなかった。500年の歳月の間に伝統的な習俗が破壊されてしまったからだ。リゴベルタ・メンチュウさんがキチェ族の民族衣装で活動し、ノーベル賞授賞式に臨んだこととあまりにも対象的だ。

3・11への断章 ~自らの記憶として

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 あの日、あの時、筆者は都内大田区の11階のマンションの一室にいた。尋常でない揺れは2度目の方が感覚として大きかったように思う。タンスや食器棚のバタン! といっせいに開き、手の施しようもなくガラスコップなどが叩き出され砕けた。慌てて、物干し場を兼ねたテラスに続くガラス戸を全開にした。そこからどうするのだという当てもないまま外への逃げ場を確保しようとした。万が一の場合、雨どいをつかっても地上に降りてやろうという覚悟だ。マンションのどこかで火でもつけば、そんなこともあるだろうという思いがあったかどうか・・・。つづいて玄関のドアを半開きにして、そこに立った。そうして揺れをやり過ごした。揺れが収まってもしばらくそこを動けなかった。エレベーターは止まった。外付けの非常階段へのドアが開くことを確認した。その階段を使って屋外に出ようと思わなかった。階段を降りているときに、また大きな揺れがきた時、どうなるのか、という心配があったからだ。玄関のドアが閉じないようにものをおいてテ レビをつけた。自衛隊のヘリコプターが上空から撮った津波が襲うリアルタイムの映像をみたのは何時だったか・・・。
 それからの時間、それからの日々・・・日本人、強いて言えば東日本人、つまりあの大きな揺れを体験した人、被災、非被災を問わず、恐怖を共有したのだ。後日、筆者の79歳(当時)母は「空襲のときより怖かった」と言った。アノ東京大空襲を荒川区で受けた母がそういうのだ。B29爆撃機から放り出された焼夷弾のため火の海を逃げ惑った体験より怖かった、という母の心性はにわかに理解できないが、遠い日の体験より、肉体に実感として残る「恐怖」に重きをおいたのだろう。
 3・11以降の日々、TVからCMが一切消えていた日々とも言って良いかと思うが、その日々は、日本人をある意味、一体化しただろうし、筆者自身は「日本」を愛すべき国だと再確認したのだった。その時期、日本では一般犯罪は激減していたと思う。戦時下、犯罪減ったように。

 13年、海外で暮らした筆者にとって、その歳月は日々、「日本」、あるいは「日本人」を自覚する日々であったと思う。外から、日本語社会から遠ざけられ環境下、日本の当たり前の味に枯渇する日々のなかで、あらためて日本という国は良い国であり、良い民族だと思った。
 語弊があるかも知れないが、3・11を、海外生活を終え帰国してから体験できたことに感謝したいと思っている。
 津波の被害を受け、急死に一生をえた人々の姿は素晴らしいものだった。節度と忍耐、人を思いやる美徳、自らの生命を顧みず行動した人びとのヒロイズムの気取りもなく、とっさの行動として危険のなかに飛び込んでいった人びと。なんて、被災者は美しかっただろうか。
 
 2011年8月、米国南部メキシコ湾沿いの都市がハリケーンの襲われ居住区が大きな被害にあった。行方不明をふくめ2500人以上の犠牲者が出た。米国政府、州政府、当該自治体も未曾有の水害のなかで採れるべき方法で対応したと思う。衣食住をいっぺんに失った被災者は救助を待っていた。それは日本の被災者と同じ状況である。
 しかし、米国の被災者はやっと届いた援助物資をわれ先に暴力を行使して奪い合った。それは醜い光景だった。そういう光景は、内乱のつづくアフリカや中東諸国などで目にするものだった。米国のような豊かな国で現出すべき光景ではなかった。被災地がアフロ系住民の多く住む貧困地帯であったということもあるが、彼らは餓鬼の様相を示した。ハリケーンの季節だから、被災者を凍えさせることもない。ものの腐敗はより早く進むだろうが、それでも3月の東北の地よりはるかに生き延びるのは容易なはずだ。しかし、被災者に節度も忍耐もなかった。米国社会の矛盾、この国には民族的一体感がやはり欠如しているとしか思えない光景だった。それは他宗教、他民族に対する偏見を煽り、人種的差別発現を繰り返す大統領候補が多くの支持を得ている風土を支えているところにつながってゆくように思う。

 東北の被災地では一件の暴動も発生しなかった。暴動どころか、援助物資を待つ人々は互いをいたわり合って列をいささかも乱さなかった。寒風のなか、ときに雪混じりの風が吹くなかで耐えた。東北人の我慢強さかも知れない。それは美しい光景であった。日本人として誇りとすべき雅な光景ですらあった。
 諸外国のメディアは、そうした東北の被災者たちの態度を賞賛した。それは物思う種としての人類の叡智そのものを象徴する行為であったからだ。こうした被災者こそノーベル平和賞にふさわしい。スペインの高名な人道賞が震災直後、東電の福島原発事件で勇敢な作業にあたった消防士たちを顕彰し称えたが、日本ではいまだそういうことが行なわれていない。日本政府政府は目先の「観光立国」の施策から、ユネスコの「世界遺産」の登録には熱心だが、5年経った今、いまも仮説住宅に取り残されている被災者たちのためにも、ノーベル平和賞候補として推薦すべきだ。少なくともそういう発想があっても良いではないか。

 その夜から直接的な被害を受けなかった東日本に住む人々は間歇的に襲ってくるかのような地震にうながされるように買いだめに走った。食糧など日用雑貨を確保しておこうというのはそれぞれが身を守るための行動ともいえるが、しかし、その時、市民の多くはそれなりの節度をもって買いだめしたと思う。
 筆者の居住地である埼玉県蕨市、自宅周辺にはあるいていける場所に6軒ほどのコンビニ、そして大型のスーパーマーケットが散在する。品数も豊富で、常時、棚は充実していた。通常の買い溜め、数日の生活が確保できる程度の買いだめなら商品棚から品物が消えるはずはなのだ。ところが消えた。
 蕨という町は全国でいちばん小さな市である。しかし、たとえばクルド系トルコ人がもっとも多く住む町であるように多くの外国人が住む町である。ここ一年ほどのあいだに知り合った外国人のなかにはルーマニア人親子、シリアからの留学生がいた。娘が通っていた小学校のクラスメートには中国、韓国、イラン、フィリピン国籍の子がいた。ロシアやウクライナから来ていると思われるスラブ系住民も多い。
 このなかで、3・11直後から買い溜めしたのは中国人たちだ。いまでこそ、日本経済に貢献するとかで中国人観光客たちの“爆買い”が話題になっているが、3・11直後も“他人をまったく思いやらない“爆買い”に走ったのだ。それは記憶されなければいけない。
 中国人観光客たちの日本における消費行動の基底には自国の製品に対する根強い不信感がある。それは自国政府を、その政府が発効させている法律を信用していな いということだ。マクドナルドの食材を加工していた中国の工場が腐った鶏肉を出荷したり、溝河から油を救って煮炊きに利用していたりといった風土、企業の倫理観の欠如があることをしっているから、旅行に来て「観光」の合い間に精力的に日本の家電を買い、薬品を“神薬”と崇め、化粧品を買いあさっているのだ。それは中国人のふだんの生活を律する行動規範となっている。
 そんな中国人が日本に住みだし、職を得て、都内より格安な価格で住める蕨市内に住むようになってから3・11に遭遇したとき、彼らは中国人として当然な行動に出た。それが買い溜めだ。3・11直後の彼らの行動を別に観察していたわけではない。こちらもそんな余裕のある日々を過ごしていたわけではない。しかし、震災直後から無数に起こる揺れ、そのなかにはかなり大きなものがあったことは読者諸氏も体験しておられるだろうが、そんな地震が起きた直後にたまさかコンビニなどで見かけた光景のなかで、「今更、なんでそんなに買いだめする」と思われる消費行動をしていたのが中国人ばかりだった。彼らが3・11直後、どのような消費行動に走ったかは容易に想像できるし、親しくなったコンビニのレジ打ちの店員からも聞いている。
 中国人の“爆買い”はいまでこそ、日本経済を押し上げる効果があるとして、どこか大目に見られているところがあるが、しかし、醜い光景であることは間違いない。彼らは日本でばかり“爆買い”しているわけではない。
 先年、パリのシャンゼリゼ大通りに本店を構えるルイヴィトン。春の某日某時間、店内は中国人観光客、否買い物客で賑わっていた。内装の優雅さに似合わない猥雑さがそこにあった。店では金離れの良い中国人客を見込んで中国系の店員に応対させていた。その店員がどこから来て、どこの国籍を持つ人かしらないが、その物腰し、声も控えめ、客の求めがない限り、自分から客に接近することもなく、できるだけ店内の猥雑さを中和させるために静寂の孤塁を守るという態度のエレガントさに感心した。
 そういうエレガントな中国人を少なくとも、わが蕨市ではみたこともない。

 被災地で小さな紡績工場であったか津波の被害を受けた。そこには中国から来た女工さんたちが大勢、働いていた。彼女たちを逃がすために、その経営者は犠牲となった。女工さんたちはみな無事だった。
 中国からも救援活動のために政府派遣のレスキュー隊が駆けつけた。その人員規模は、遠く太平洋を越えてやってきたメキシコのそれより少なかった。派遣したとアリバイ作りのために来たようなものだ。そのことも記憶に留めておきたい。

 ふだん付き合っている革新系無所属の若い市会議員がある会合で、「明日、津波で出たゴミを焼却するために北埼玉の焼却場に持ち込まれる予定で、それに反対する市民組織を応援するために出かける」と朗らかに語リ出した。
 筆者は、「何故、市民組織は反対しているのか」と聞いた。
 彼は、「放射能に汚染されているかも知れないからだ」と言った。
「きみもそう思っているのか?」
「いや、確信はないけれど、要請されたからだ」
「それはどこのゴミなのか?」
「宮城県から運ばれてくるものらしい」
「福島から運ばれてくるものじゃないだ」
「宮城です」
「では、何故、反対する」
「汚染の恐れがあるからだ」
「宮城県から排出されるものは心配ないのでは」
「恐れがあれば反対しないわけにはいかない」
「そんなことを言っていたら被災地の厖大なゴミはいつまでも片付かないじゃないか」
「地元での処理が原則だ、とその市民組織は反対している」
「きみは、そのことに賛同しているのだな」
「・・・・」
「地元での処理が原則というのはわかる。しかし、まだ行方不明者の捜索が行なわれている状況のなかで、ゴミの片付けも急務だろう。復興事業は厖大なゴミをなんとかしなければ始まらないだろう」
「しかし、もし放射能汚染されていたら、汚染の拡散になる」
「じゃ、聞くがその汚染されているかも知れないという厖大なゴミを被災地に放置しておけというのか、その被災地にも生き残った子どもや老人が暮らしているだろうし、そのゴミを整理している市民、ボランティアは汚染被害を受けても良いということか?」
「・・・・・」
「そんなの市民組織でもなんでもないよ、そんな運動を得意気にやって反原発運動を参加しているというのは、自尊心だけ満足させている似非ヒロイズムの集団だ。きみはそれに加担しようというのか?」
 筆者はそのとき、そうとう腹を立てていた。そして、当の市会議員クンは沈黙してしまった。
 
 当時の民主党政権のだらしなさはいまさらいうまでもないが、いわゆる左翼といわれる人たちの運動の偏頗性はまったくうんざりするものだ。彼らの“連帯”というのは、悪しき自己完結型で世界、東アジア、そして日本をトータルにみていない。彼らも被災者たちへの連帯を声にするし、それなりのボランティア活動にも献身しているのだろう。しかし、それが自分たちの居住区に及ぶとき、近視眼的な対応しかしない。
 筆者は地元での反対が起こることも予期しながら、ゴミの焼却という援助をしたいと決断した自治体長の立場に賛同する。たとえ疲弊している自治体の収入確保のためのゴミの受け入れを決断した自治体長の立場に賛同する。わが蕨の共産党系市長は、あおの時期、なにか行動したのだろうか? 駅前商店街がどんどんシャッター街となってゆく現状にまったくの無策であるように、なにもしなかった、市民の目に映るような行動はいっさいなかった。
 くだんの市会議員クンに筆者は言った。
「もし汚染されていたとしても、そのゴミを早期に処理するために宮城県レベルの汚染を分かち合うのが本当の連帯ではないのか? 絆、ということではないのか?」
「・・・」

 被災から2ヶ月ほど経ってから三陸海岸沿いに車を走らせた。一関駅前でレンタカーを借りて走らせた。最初は仙台駅に降りて駅周辺のレンタカー屋に軒並みあたったが一台の余裕もなかった。ある店で一関駅前の支店に一台空きがあると聞き、すぐ予約を取って向かった。
 気仙沼、陸前高田、大船渡というコースだった。限りある日程のなかで地元との人たちと触れ合うなかで多くの「3・11」を聞いた。
 筆者の20代前半、某商事会社の営業マンだった。担当地域が長いこと東北六県であった。三陸地方にも繰り返し訪れて、当時の筆者の稼ぎの何分の一かは東北地方からあがる利益から出ていた。その金で子どもたちも養育できたのだった。
 陸前高田の荒廃には言葉を失った。唖然とか悄然とか・・・そんな形容が喉のなかで砕け散るような光景を前にただ沈黙するしかなかった。ただ、海から吹き寄せる風を背に受けながら、遠くの里山までまっ平らになってしまった市街地、その廃墟。思いでもなにもまったく拒絶する荒景であった。きょうまたTVで陸前高田が映し出された。復興などまったく感じられない。むろん、地元では血のにじむような努力があるはずだが、それがなかなか見えないほど大きな被害にあったということだ。
 この夏、三陸をふたたび訪れてみようと思っている。
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