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原田光子さんのクララ・シューマン  ~清新な才能にめぐり合う悦び

原田光子さんのクララ・シューマン
 ~清新な才能にめぐり合う悦び

 日常、わたしは最低3冊の本をほぼ同時進行で読んでいる。うち1冊は必ず文庫か新書に決めている。電車のつり革に片手を預けて読むためである。もう一冊は、当面の仕事に必要なもので、文庫や新書がそれの関連本だったりする。そして、もう一冊は積読になっていたもの、あるいは関心が薄いが書評などで世評の高いもので、これには年二回の芥川賞や直木賞作品あたりも入っている。あるいは、たまさか観た映画に関心して、その原作を読みたくなるという感じだ。
 その最後のわたしにとっては暇読といった領域の読書時間を充実させてくれた本として、原田光子さんの『真実なる女性 クララ・シューマン』があった。長いこと書棚に放置されてあったものだが、クララの半生を描いた劇映画三作を観なおす機会があって、それに触れる文章を書く前に読んだ。その文章は仕事に関係なく備忘録として書いたようなものだから、原田さんの著書も暇読のカテゴリーに入っていた。

 A5判2段組277ページだからなかなかの長編である。読みはじめて数時間、これはちょっと襟を正して読む必要がある、と思った。少し、読み進むうちに実に丹念な仕事であることに気がついた。構成も巨視的にみて挿話の面白さである章を膨らますという俗性もなく、淡々として淀みない。かつ並みのクラシック・ファンを読者想定した、その目線の位置を維持しながら、19世紀後半のピアノ演奏芸術を文字通り牽引した女性ピアニストの生涯を誕生から死まで誠実に追っていこうという動機づけが実にしっかりしているものであることが読み取れた。
原田光子

 クララの生涯は奇跡的な充実に満たされたものである。演奏家として、ロベルト・シューマンの恋人として妻として、彼との結婚生活15年ほどのあいだにもうけた8人の子の母として。シューマンが46歳で早世した後は、精神障害をおった子の生育も含めて、家計を維持するため欧州諸国を巡業してまわるのだ。しかも、彼女は当時、演奏される機会もなかった時代を先取りした作品をひろくしらしめるという興行的には敬遠されるプログラムを組みながら遂行したのだった。そこに亡夫シューマンの遺作を継承するという強靭な意志も働いていた。
 家計が苦しくなることも再三あった。生前のシューマンに弟子入りした無名のブラームスとの友情は有名な話だ。功なり遂げたブラームスが再三、経済的な援助をクララのプライドを傷つけないように申し出るのだが、それも鄭重に拒絶しながら奮闘する老いたクララまで描き出す。そのブラームスとの交流を紐解くなかで、巷間、いまだに語られるブラームスとの恋愛という説も、反証という形で語るのではなく、その友情の実質をクララの生涯を語る叙述に埋め込むとことで、ゆたかで誠実な交友関係を賞賛してゆくのだ。まったく凛とした気配に満ちた著作である。
 
 原田さんのこの評伝は昭和16年の秋に出版されたものである。30歳の出版であった。
 そして、その文章は現在でも行間に涼やかな高原の風が吹きぬけているような若さがある。少しも古びていないことに驚く。
 『クララ』の前年に『愛国の音楽者パデレフスキー』を出し、それが処女作である。デビュー以来、ピアニスト、、ピアノ曲に大きな功績を残した作曲家の評伝を遺した。原田さん自身、ピアノ演奏家を目指して大正時代にドイツに留学した人だ。その留学生活でドイツ語を習得、帰国後、自由学園で英語も学んでいる。そんな原田は20代の後半で音楽批評家として活動をはじめ、啓蒙的な時評に見向きもせずに、最初から明確な意思をもってピアノ芸術に関する著作を上梓した。『クララ』も当時、日本にあって入手でき資料を丹念に読み漁り、自ら訳出しながら書いている。晦渋的な修飾もなく文章はあくまで平易で風通しが良い。すでに80年近く経った著作でありながら、原著の若い人でもそのまま読めるということは大変なことだ。これは、おそらく原田さんより20歳ほど年長の村岡花子さんが名訳した『赤毛のアン』がそのまま読めるような成果に等しい。
 しかし、原田さんの仕事は、戦後、幾たびか再刊されたが現在はみな絶版になっているようだ。彼女が『クララ』の後、書いたショパンやリストなどは、その後、多くの評伝などが出て乗り越えられたと思う。しかし、『クララ』に関しては本書が群を抜いた出来映えだろう。
 原田さんの仕事は3年余りに過ぎなかった。それも昭和10年代の後半、もっとも日本が混迷を深めていた時代の所産だ。食べるものも乏しい時期での心労がたたって終戦の翌年5月に死去した。享年36歳。まさに夭折であった。
 30に満たない原田さんは、老成したクララの後半生にもゆったり寄り添いながら人生の秋を描く。原田さんは結婚されているが、間もなく離婚し、お子さんもなかったようだ。クララを描くペンは若々しいが、しかし、老いを見つめる冷淡な観察眼もしっかりあるし、社会活動におけるクララの不自由な立ち位置もつきあはなしてしっかり書いている。ピアノ演奏の技術をもった原田さんにとって、より深く書きたいと思う場面も、自身の批評として書くのではなく、同時代の批評を引用することで客観性を与えている。

 本書を半分ほど読み進めた頃から、わたしは一日一章しか読み進まないことにした。愛すべき読書はゆったりと終りは遠いほうがいい。そんな思いを抱かせる本というのは実に少ない。そういう稀有な書とであった悦びとして、ここに記す。是非、再刊して欲しい一書である。 (2016年4月記)

*生前の原田さんの面影を伝える文章として故野村光一さんが書かれたものがある。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sound78rpm2/5020551.html
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署名アラカルト №10~11 野坂参三、宮本顕治

 野坂参三(1982~1993)
野坂
日本共産党の顔でありつづけた人だ。だから共産党本部は東京の選挙区を割り当て連続当選を死守してきた。そんな顔であった政治家を、1992年、野坂100歳になってから、政党としてもっとも重い処分、除名に処した。93年、101歳で死去した際も、参議院は在籍25年議員ということで弔詞を捧げようとしたが、それに共産党は反対したのだった。理由は、「ソ連のスパイ」であったからで、野坂自身も「残念ながら事実」と認めた。一説には、米国のスパイでもあったとも言われる。
 写真の署名は1984年、共産党名誉議長であった当時に書き下ろされた著書『北に南に』に記されたものだ。墨書に書きなれた筆で記されたもので、そこにいささかのわだかまりの気配もない。この時、野 坂はソ連が崩壊し、さまざまな公文書が公けにされ、自身の記録まで暴露されることになることなど露ほども思っていなかっただろう。そして、自らの高齢を思えば後はただ戦後政治におおきな痕跡を残した政治家として大往生するときを静穏に待っていればよいという日々であったろう。署名はそんな日の余禄のような些事であったろう。
 政治家は自分の痕跡を遺したいものらしいし、共産党もまた党への財政に寄与してくれるよう、一定部数、しかも無条件で購入しようという党員は少なくないはずで、堅実に部数が捌ける名誉議長の回顧録をもとめたりしただろう。101歳のコミニュストなんて、どうもピンと来ない。長命もけっして良いことばかりではない。けっきょく晩節を汚したことになってしまった。そして、恥じ入ったかどうかはしらないが多くのナゾを抱えたまま去った。
 
 スターリン時代のモスクワにあって、日本人コミュ ニストを売った。裏切った。それも自ら認めた。生き延びるために友を裏切った。そんなことも明らかになった。そうした自らだけが知ると思っていた歴史的事実を胸にだきつづけ、それも自ら、「かつて、そんなこともあったかもしれない」という靄がかかりはじめたころに書かれた署名だろう。そういう人間の闇の不可思議さを署名から汲みとめられないだろうか。署名の筆跡はいがいと若々しい気配がする。いわゆる老成といった枯淡の境地にはいたっていないところが生涯コミニュストであろうとした野坂の真骨頂かもしれない。

 宮本顕治(1908~2007)
 宮本
 野坂とともに昭和を駆け抜け、共産党のもうひとつの顔であった宮本顕治。その70代に著した著作におけるサインペンの署名もまた若い。
 文芸評論家として小林秀雄と同時代に文 壇に登場した宮本の出自が象徴されているような、原稿のマス目に似合いそうな字体である。これもキビキビと若い。宮本は野坂のように晩節を汚すことなく不破哲三時代の地ならしをしたといえる。 その不破の署名もまた政治家らしくない気配のするもので、ある意味ぞんざいなものだった。
 自民党の諸先生方は総じて達筆立派である。その立派さと業績が比例するわけではないが、墨痕鮮やかな署名が多い気がする。民主党の管直人という政治家の署名も首相になる前から、署名だけはそれは立派なものだった。それは権柄ずくという感じであんまり良い感じのするものではなかった。

日本の旧作映画 その1 失われし仕事を“畏敬”することの必要・・・映画『喜びも悲しみも幾年月』を観て

 喜びも
仕事、というより「職種」。それが必要とされる時代には掛け替えのない、なくてはならない仕事であったはずが、それを科学の発展などにより存在価値をうしなう。無惨に失われ消えてゆき、人の記憶からも抹消されていくものがある。と同時に、科学の発展があたらしい仕事を作り出す。人間社会はそれの繰り返しだった。
 近代小説を読んでいて、どうにも見当のつかない「職種」というものにぶつかることがある。注釈がついているような本ならいいが、それがないと皆目想像もつかないというものがある。作者がそれを書いていた時代は、それは当たり前のようにあったから日常光景として描きだされるだけで、解説めいた文章もない。たぶん、旧時代の小説の多くは、そうやって読者を失い。書棚から漸減してゆく。
 昔、志賀直哉の短編であったか、「羅宇屋」というのが出てきた、らうや、と読む。これが分からなかった。あるとき、それがキセル、タバコを吸うときのパイプ、江戸時代の愛煙家が考案、発展した道具だが、これの掃除や修理などを商いとした流しの職人のことを、らうや、といったのだ。それを知ったのは随分、後のことだった。もう志賀直哉の小説を積極的に読む人はほぼ消滅しているだろう。最後の羅宇屋は浅草に数年前までいたらしい。その職人さんが引退して、自然消滅した職種が「羅宇屋」であった。

 先日、京橋のフィルムセンターでデジタル処理されて封切り当時の鮮明さを取り戻した木下恵介監督の代表作『喜びも悲しみも幾年月』(1957)を観た。
 灯台守の一家族を通して昭和という時代を、日本の辺境からみつめた映画であった。30年以上も前に観たことがあった。あの有名な「灯台守の歌」の記憶を除けば、粗筋ぐらいしか記憶になかった映画を再見したのだった。

 映画制作時に日本各所に750所ほどの灯台があって、そこにはかならず「灯台守」たちが家族とともに住んでいた。絶海の孤島というようなところ、陸の孤島のような岬の突端に。大変な仕事だった。多くの灯台が日本の端っこにあったわけだから、灯台守の妻となった人、その子どもたちも含め犠牲的な精神がなければ勤まらなかっただろう。太平洋戦争末期はその灯台の光が消えたようだ。米軍機に位置を教えることになったからだ。そして、灯台守たちは敵機来襲の早期発見という軍事的任務も与えられたようだ。そのため迎撃手段をもたなかった灯台守たちは機銃掃射を浴びて殉職するひとも多かったことも映画で語られていた。灯台守の「守」は万葉の時代の「防人」のようなものだった。
 その「灯台守」は2006年12月、長崎県五島市の女島灯台を最後にすべて無人化されて、この「職種」は完全に消滅した。
 映画は灯台守が消えることなど考えられなかった時代のものだ。別に日本に限ったことではないが、かつて船の往来は過酷な状況を使命感と、あるいは報酬によって克服した「灯台守」、とその家族の犠牲の上に成り立っていたことを知る。そのうち、灯台守、という言葉すら歴史の彼方に消えるときがやってくるのだろう。

 映画という表現手段はほんとうに貴重なものだ。ドキュメントではなかなかカメラの前で主人公たちは内実を語れないが、優れた俳優と監督は、それを象徴的に演じることができる。要約してくれる。『『喜びも悲しみも幾年月』は木下監督のリベラリズムによって灯台守からみた「昭和」が描き出された。そう、戦前、戦中、そして戦後の復興という時代を、辺境ではたらく灯台守夫婦の年代記としてみせてくれた。そうした仕事があり、そうした仕事の過酷さを誠実にこなしていた人たちの汗と涙のうえに今日の日本の繁栄がある、と意識するのは日本人として大切なことだと思う。映画批評的には、多くの粗を探せるが、それはもういうまい。こうした映画をわれわれは遺産とできたことに感謝することのほうが誠実な行為と思うからだ。

ローリング・ストーンズ、ハバナ公演 キューバ、政治・経済だけでなく「文化」そのもの変革期

キューバ、政治・経済だけでなく「文化」そのもの変革期
 ~3月下旬、ハバナのビックイベント。チェ・ゲバラの孫も参加
オラ・ハバナ

 ビートルズとともに世界のポップス界に多大な影響を与えた英国のローリング・ストーンズ(以下、ストーンズ)が3月25日、ハバナで初のコンサートを開くというニュースはラテン圏だけでなく、世界中のメディアに取り上げられた。ビートルズ解散後、最大のビックアーティストのハバナ入りはただ音楽史において意味をもつだけではなく、キューバの文化史、そして政治史の文脈で検証するならカリブ海域で名実ともに「冷戦」が終結した象徴性をもつという意味で注目された。

 ビートルズやストーンズの全盛期、世界は冷戦の真っ只中にあった。中国では文化大革命の時代で、「ビートルズを知らない紅衛兵」という言葉も生まれた。キューバもまた英語圏のロックを商業主義的な退廃音楽と忌避していた時期が確かにあった。しかし、目と鼻の先にある米国フロリダ半島から聴こえてくる音楽を塞ぐすべはなかったし、革命以前のハバナはラテン諸国にあって、もっとも英語文化を受容してきた首都であった。
 キューバ革命の英雄チェ・ゲバラは、アフリカ諸国での内戦を指導、歴戦した後、ハバナに戻る前にチェコのプラハで長い休息を取っているが、そこでビートルズを親しく聴いていた事実がある。当然、そこではビートルズ共に聴こえてきたであろうストーンズも聴いていたはずだ。当時のチェコはいわゆる“プラハの春”の訪れを準備していた時期で東欧諸国にあってユーゴスラビアとともに西側文化をリアルタイムで享受していた時代だった。そのゲバラが去った後、ソ連の戦車によって1968年、“プラハの春”は圧殺された。
 1990年代に入るとキューバ国内にあっては、クラシック系の演奏家たちが独自の解釈してビートルズ音楽を取り上げアルバムも作成してきたし、ハバナにはジョン・レノンの銅像まで建てられた。この銅像の除幕式にはフィデル・カストロ前議長も参列している。しかし、独自のラテン音楽世界に充足するキューバではじっさいのところ英語圏ポップスと接しなくてもさしたる不満もなかっただろう。ただ表現の自由という問題からみれば音楽活動の相互交流は保証されるべきだ。
 今年2月、南米チリからアメリカ・ツアーを開始して大きな話題となったストーンズだったが、当初、ハバナ公演の予定は明らかにされていなかった。おそらく水面下で交渉があったのだろう。不首尾に終われば、そこに何事もなかったかのように無視される世界があったということだ。
 現在のキューバ市民の所得からすればストーンズ公演に聴衆があつまるとは思えない。政府が資金を提供するか、あるいはストーンズが採算を無視して破格のギャランティーで歴史的象徴性を選択したかのどちらかだろう。おそらく後者だろう。現に公演は無料でキューバだけでなく、周辺諸国からの聴衆を含め約50万が参加した空前の規模になった。ストーンズたちも、そうした規模になることを予想したのだろう総量500万トンの資材を持ち込んで臨んだ。

 先月、カストロ政権はローマ法王とロシア正教会大主教との歴史的和解の場をハバナに提供し、世界の宗教界を驚かせたばかりだ。西欧と東欧のキリスト世界の和解と融和が演出されたのだ。また、今回のストーンズ公演に先駆けて21、22日に米大リーグ、タンバベイ・レイズとキューバ選抜チームとの親善試合が行なわれる。フロリダ州タンバ市に本拠をおくチームだ。タンバ市は、州都マイアミについでキューバ系市民が多く住む町だ。その試合はただ親善試合であるというだけではなく、フロリダ州に多くする反カストロ派のキューバ系米国人との融和も意図されているということだ。その試合はハバナを初訪問するオバマ大統領も観戦する予定だが、その一連の記念イベントの仕上げのようにストーンズ公演が組まれた。

 コンサート余談となるが、ゲバラの孫、現在米国に住むマルティン・ゲバラが急遽帰国、コンサートに参加している。少年時代、ロックに夢中になり、「偏向思想」に染まっていると非難されていた彼は米国に去った。ゲバラの冒険的な知的好奇心は子世代ではなく孫世代に受けつかがれたのかも知れない。
 ストーンズは「オーラ・ハバナ」と題した公演のためわざわざロゴを作成した。
レングア
 以前から使われていたミック・ジャガーの唇と舌のデフォルメにキューバの国旗をあしらったものだが、彼らの相変わらずの前傾ぶりに感心する。すでにミックは72歳、キース・リチャードも同齢、ドラムのちゃーりー・ワッツに至っては74である。ハバナのライブ録画を見る限り、まだまだ枯れていない。ロックの「世界遺産」として顕彰したい、3人だ。ロン・ウッドはオリジナルメンバーでないので筆者の評価は低いのだが、その彼にしても68歳。ハバナ公演の模様はDVD化される予定。そのなかでハバナ公演にまつわる多くの挿話が語れるはずだ。

ニカラグアのサルスエロ、ルイス・エンリケが心情吐露

ニカラグアのサルスエロ、ルイス・エンリケが心情吐露
ルイス・エンリケ

 日本にも熱心なファンを獲得しているサルサ歌手ルイス・エンリケ。代表的なヒット曲は「Yo no sé mañana」。軟らかい自身の声質を知りつくし、自作するルイスをビジネス的に“サルサの王子”と言っている。
 現在、54歳。もう“王子”でもあるまい。体型も立派に中年男にふさわしく緩みはじめた。そんなルイスが4月、インターネットの国際的な配信網RTのスペイン語版で長時間のインタビューを受け、いままで見せなかった素顔をさらして話題となった。
 ニカラグア人である。ながいあいだプエルトリコを拠点にしてキャリアを積んできたルイスをニカラグア人と認識するファンは少ないだろう。
いや、ニカラグア出身とのクレジットはあった。しかし、その意味を探ったサルサ・ファンは少ない。
 本名ルイ ス・エンリケ・メヒア。その名を聞き、ニカラグア出身と聞けばラテン音楽の熱心なファンなら誰でも1970年代後半から90年代、ラテン音楽の“良心”として畏敬されたルイス・エンリケ・メヒア・ゴドイ、カルロス・メヒア兄弟を思い出すだろう。ラテン諸国が冷戦下、抑圧的な軍事独裁政権に覆われていた時代、社会正義の実現を目指し質の高い娯楽性も失わずに活動をつづけたニカラグアの象徴的な存在であった。サンディスタ革命闘争期には“ギターをもったゲリラ”といわれた。ルイスは、その兄弟のひとりフランシスコを父としてニカラグアに生まれた。
 「私が歌手として活動を本格化しはじめたのは80年代だが、当時のニ カラグアはメヒア・ゴドイたちの世界で、音楽界はまるで彼らの機関のようなものだった。私が目指す音楽の時代ではなかった。そこで私はプエルトリコでサルサ歌手として成功を目指した。メヒア・ゴドイたちを見返してやりたいとも思っていた」
 ニカラグア革命の英雄でもあった叔父たちからは、商業主義にそまった甥とでも軽んじられていたのかも知れない。
 1988年、ルイスはプエルトリコ入りする。1987年に発表したデビュー・アルバム『Amor de Medinoche』が注目された。全9曲中、7曲を自作で埋め作詞・作曲家としても認められた。しかし、まだささやかな成功でしかない。若いルイスはまんまんたる野心を抱いて88年、プエルトリコ入りする。
「サルサだけではやっていけなかったよ。時にはポップス歌手、さまざまな音楽をトランポリンしていた」
 実際、グロリア・エステファンの「ミ・ティエラ」、リッキー・マルティンのアルバムに参加している。しかし、そうした苦労の甲斐があって実力が認められ、以後、毎年のようにアルバムを発表し今日に至っている。ルイス、かつて“ギターをもったゲリラ”と賞賛されていたメヒア・ゴドイ兄弟を、愛の歌で超えたのかもしれない。歌のゲリラたちの声はもうニカラグア以外では聴けなくなった。時代はめぐりエンリケのサルサが首都マナグアの夜を彩る。
 サルサが傍流の国から出て成功したアーティストとしてパナマのルベン・ブラデス、コロンビアのグルーポ・ニチェ、ベネズエラのオスカル・デ・レオンらがいるが、いずれも苦労人ばかりだ。  


花もつ女たち №70 リリウオカラニ女王(ハワイ王国~米国*

花もつ女たち

 リリウオカラニ (ハワイ王国・米国*王女 1838~1917)
リリウカタニ

 赤道をはさんで多くの島が散在するポリネシア。その海域は、しかし先住民の言語ではなく、ギリシャ語で「多くの島々」を意味するポリネシアと命名されてしまった。西欧起源の言語が公用語となってしまったが、豊かな伝統文化、独自の宗教体系に支えられ現在も多くの言語がいまも生きている。
 ラグビーの強豪ニュージーランドのチームは、戦前の儀式として、勇猛さをシンボライズする儀式ハカを行なう。同国先住民マオリ族の伝統儀式のからきているものだ。そのマオリ族の文化も南ポリネシアを象徴するものだ。タヒチもまた独特の戦士たちの舞いがある。そして、ポリネシアの北部に位置するハワイにはおなじみの民族舞踊と音楽があり、総称してハワイアンとなる。
 東日本大震災で被災し一時、活動の場 を失った福島県いわきのハワイアンズのフラガールは積極的に広大なポリネシア圏の舞踊を研究し消化して日々、ステージで披露している。いちいち解説して踊られるわけではないので観客には理解されていないと思うが、彼女たちの舞いハワイアンではなくポリネシアンなのだ。けれど女性を主体としてはじまったショウであったためハワイアンに傾斜していた。
 マオリやタヒチアン・ダンスが戦闘への闘志を掻き立て、自ら鼓舞するあための儀式であるのに対し、ハワイの舞いは民族神への敬愛、畏敬、あるいは感謝を捧げる儀式としての神技でもあるのだ。それは音楽の洗練さ、華麗で神秘性もそなえた旋律を伴奏とする踊り子たちの舞い姿からも理解できると思う。そして、手の動き、精緻な指の動 きの言語性でも象徴される。指と手が言語化された動きとなるとき優艶な美となった。それはタイの宮廷舞踊にもみられる乙女たちの舞い姿にも似ている。

 ハワイアンの名曲に「アロハオエ」、「カマラヒラ」がある。数多くあるハワイアンのなかでももっとも優美な旋律をもつ作品で世界的に知られる名歌。その「アロハオエ」を作り、「カイマナヒら」の歌詞を書いたのがハワイ王国の歴史のなかで女性として最初の国王になり、そして王国最後の王となったリリウオカラニである。前おきが長くなった。王女に拝謁するためにはしもじもの人間は王宮の回廊を経巡られなければあいけない。

 リリウオカラニが生きた時代、ポリネシア圏では欧米列強が最後の植民地争奪戦が行なっていた。その波濤をまもとに浴びながら米国併呑に必死に抵抗を試みた王女であった。
 1894年、ハワイの王制は米国の支援を受けて倒れるが、98年までハワイ共和国として独立は維持されていた。しかし、ハワイを制するものが太平洋の覇権を握ることができると考えた米国に準州として事実上併合した。今日のカリブ海のプエルトリコと同じ位置だ。現在もハワイとプエルトリコには“独立”を志向する民族派が存在する。

 ハワイ王国の成立は1795年、カメハメハ1世が即位宣言したことにはじまり1810年にハワイ諸島全島を統一し、ポリネシアにおける先住民を主権とする最初の近代国家となった。立憲君主制をしいたハワイの憲法では、リンカーンの奴隷解放宣言よりはやく奴隷禁止令を公布した。
 しかし、ハワイ王朝はリリウオカラニの退位まで約100年で終焉した短命の王朝であった。自壊したのではない、米国の武力による脅迫によるもので、リリウオカラニは強いられて廃位となった。
 ハワイ人、移住植民していたアジア人たちの参政権を無視した米国系白人たちによる共和国宣言に反対する人たちが抵抗するのは当然だった。その精神的支柱がリリウオカラニであった。近代装備に優れた白人たちの共和派の武装勢力は、民族派の抵抗を鎮圧する。その際、捉えられた約200人のハワイ人の生命と引き換えに、リリウオカラニは自ら退位宣言書 に署名したのだ。
 プエルトリコが米西戦争で米国の“戦利品”となり独立を失ったが、ハワイもまた植民在住していた白人たちの利権とワシントンの思惑が一致して独立は失われた。
 もし、米国がハワイに地政学的な戦略性を見出さなければ、ハワイは観光立国として独立を保っていただろう。たとえ、真珠湾に米国海軍の基地が設けられたとしても、それは沖縄や、かつてのパナマにあった基地、あるいはキューバのグアンタナモにある米軍基地として留まっているに過ぎなかっただろう。

 独立を失って、リリウオカラニの後をつぐ王位継承者として指名されたのが映画にもなった美貌の皇女カイウラニアであった。23歳で夭折したこと、小国の皇女ゆえの悲哀、そうした悲劇性ゆえ、その生涯は映画化もされている。そのカイウラニアが5歳のとき訪日、明治天皇に謁見している。彼女は当時の国王カメハメハ7世の姪であった。国王は明治天皇への謁見の場で、カイウラニアを、当時13歳であった山科宮定麿王との結婚を望んだ、という史実がある。国王は、当時、米国の動きを牽制する意味でも日本との関係を強化しようと模索していた。明治政府は米国との関係を思慮し、それを断ったわけだが、その後もハワイ王国とは緊密な関係を維持した。1892年、アメリカ海兵隊による武力「革命」によって王制を打倒しようという試みに対し、「邦人保護」の目的で軍艦を派遣し、 米国の武力外交を批判している。もし、明治天皇がカイウラニアを迎えていたら太平洋の歴史はどのように変化しただろう。歴史に「もし」を持ち込むことはタブーだが、そう思わずにはいられない史話である。
 
 今日、映画化され評伝が刊行されたこともあって“悲劇のヒロイン”カイウラニはハワイ王朝、落日の夕陽のように象徴されているが、その陽の傾きに必死に抗して力尽きたのがリリウオカラニであった。平穏な時代に玉座にあれば、「アロハオエ」「カイマナヒラ」を超える名曲を生み出していたかも知れない。しかし、時代はそれを赦さなかった。

トロイメライへのスタンス*3つのクララ・シューマン映画

 過日、クララ・シューマンを『花もつ女たち』で取り上げた際、クララの評伝(とは名ばかりだが)映画を再見した。いずれも、「事実に基づくフィクション」と見るべきだが、映画が作られた当時の時代思潮がわかるという点で、やたらと音楽好きな人たちからは不評ではあっても、観衆としての真実はあるのだ。厳密な評伝など、映画という短尺のなかで語られるわけはない。それは映画における評伝へのアプローチの限界である。象徴的な批評しかできない。だから、映画の誠実さを比較する方法としてシューマンの珠玉の一編「トロイメライ」へのアプローチでみようと思う。

 これまで、クララ・シューマンを描いた映画が3本ある。いうまでもなくロバート・シューマンの妻にして同時代における前衛ともいうべき立場にあったピアニスト〉というのが今日的な評価だろう。ほとんど演奏する機会は失なわれているがピアノ曲も作曲している。
 演奏家や指揮者の生涯というのは死去すると急速に歴史の帳りのなかに押しやられ、再び光を浴びるのは大作曲家の生涯によりそって描かれる助演者の位置でしかない。現在なお語られることが多いフルトヴェングラーは例外だが、彼が語れるのはベルリン・フィルの指揮者としてナチズムとどう対峙したのかという政治と音楽(芸術)との関わりが特異であったからという事情が作用している。復刻CD化されているフルトヴェングラー指揮による作品は多くあるけれど、それもある種の郷愁、批評的な聴かれ方であって、世代交代をつづける音楽ファンによって忘却されるのかも知れない。発明されたばかりのLP録音のなかの音は今日のクリアなデジタル録音でそだった世代はそうそう愛好するとは思えないからだ。聴衆の好みはいさかかも停滞せず流れる。
 メンデルスゾーン、マーラー、あるい は大戦後のバースタインなどもまず指揮者として名を上げ、その功績によって生活が潤うのだが、今日では、指揮者活動などについて語るのは評伝作家ぐらいなもので一般の聴衆には作曲家としての興味しかないだろう。バースタインの活動の記憶がまだ鮮明だから指揮者としてのイメージがつよいが早晩、「ウエストサイド物語」の作曲者として評価が落ち着いてゆくはずだ。演奏家となるとさらに早く忘却される。演奏活動を停止した途端、世間は次々と現われる新進気鋭の才能に目を奪われてゆく。死後、まだ批評家のあいだで記憶を喚起させられる演奏家といえばグレン・グールドを除けば、そう多くあるまい。という意味では、クララ・シューマンの演奏も歴史に霧のなかでおぼろげな記憶しか与えられない位置 であるはずだった、すくなくとも一般的な音楽愛好家にとっては・・・。しかし、彼女はむろん、大変なピアニストではあったが、それも夭折したシューマンの妻であり、彼との恋愛、結婚、悲劇的な別れという文学的ドラマの渦中にあったことによって特別な位置があたえられたのだ。

 19世紀に生きたピアニストの生涯が映画に繰り返し描かれるのはクララを除いては存在しない。しかし、クララの”力”でそれが実現しているわけではない。そこにはやはりシューマンの存在がある。生前は作曲作品の豊穣に比べれば、時代に先行しすぎたため概して不遇であり、クララの名声の風下にたっていたシューマンだったといえるだろう。が、その先駆性のあった作品が、やがて時代を超えて評価されるようになったことで、そのシューマンの評伝を彩るかけがえのない存在としてのク ララが注目されたのだ。そして、映画として描かれるときシューマンを描くより、美少女の天才ピアニストであったクララを描き、恋愛映画としたほうが大衆的支持が高いのに決まっている。映画のヒットはやがてクララの名声がひとり歩きをはじめる土壌をつくる。
愛の調べ

 映画史上、はじめてクララを演じたのはキャサリン・ヘップバーンであった。その映画を『愛の調べ』という。1947年の作品で、当時まだ史実性はさして問題にされていなかった時代だ。つづいてクララを描いたのが、当時人気の頂点にあったナスターシャ・キンスキー主演、1981年、ドイツで制作された『哀愁のトロイメライ』だった。その2作でシューマンを演じた男優のことは映画史の索引に埋もれてしまった。最近作は2008年、ドイツのヘ ルマン・サンダース=ブラームス監督が撮った『クララ・シューマン』である。クララ役には知名度より演技力を重視してドイツのマルティナ・ケデックが演じた。この3作目で、クララの映画は女優より、監督の名が克った芸術作品としてはじめて提出された。前2作における監督の位置は低い。
 
 『愛の調べ』ではいい加減にせよ、というぐらい「トロイメライ」が流れる。それでウソっぽい。すでに演技派の大女優であったキャサリン・ヘップバーンが主演したということで、クララは大観衆の前でリストのピアノ協奏曲を演奏するシーンからはじまる。実際の演奏は名手ルービンシュタインだが、映画はヘップバーンの運指を大写しする。両手だけの吹き替えなしだ。そうとう練習したものと思われるが、これはなかなか潔い女優魂といえるかも知れないが、臆面もなく、ともいえそうだ。そうまだ映画に真実を切実にもとめていない40年代の作品だ。リストの難曲を弾き終えた後、当初の予定であったリストの小曲「カンパネラ」ではなく、シューマンの「トロイメライ」を弾く。ここで最初の「トロイメライ」が登場し、シューマンが精神病院で最後に弾くピアノが「トロイメライ」となる。そのあいだにも幾度も弾かれる。「トロイメライ」がかくも世界で愛聴されるようになったのは、このハリウッド版クララ映画に発しているのではないかと思う。
 キンスキー
キンスキー主演映画は、日本では『哀愁のトロイメライ』となっているが、「トロイメライ」は一回しか登場しない。ブラームス監督作品だと、シューマンが手慰みに弾いているのを聴いたひとりの男がふと、正確な台詞は忘れたが、「うん女こどもむけにはうけるだろう」とつぶやくというシーンに繋がるところで流れるに過ぎない。
 実際、シューマンがクララの類い稀な技量を知悉したうえで贈呈した作品は、「コンチェルト・アレグロ」作品134あたりであろう。
 ヘップバーンのクララは最晩年、シューマン亡き後、自分の力で亡父の形見であった子どもたちを育て上げ、亡父の作品を世に知らしめるために粉骨砕身、努力してきて満足している。きょうがその最後の演奏会というシーンで終わる。
 キンスキー主演映画は、クララの父に結婚を反対され、裁判も起こされた二人がなんとか結婚に漕ぎ付けたという二人を描いて終わる。そのふたりの表情がすこしも晴れやかではないというのが最大の批評行為として受け取れる映画だ。子沢山になった家庭、その家庭を維持するために意に沿わない仕事も引き受けざるえない日々、創作の葛藤のなかで心が病み、やがて夭折するシューマン、クララ一人に圧し掛かる家計・・・といった後半生を予感させるシーンで終わる。その意味では、もっとも美しかったキンスキーが演じたクララ映画はわたしにはもっとも暗いイメージがある。
映画 クララ 2
 ブラームス監督のクララは気丈である。逆境に抗して生きた女、というメッセージが伝わってくる。そんな映画に“哀愁のトロイメライ”など不要とばかりの扱いを意図的に施されている。第一、シューマンが弾き、たまさかそこにいた男が、そんなつぶやきを漏らしたということは監督の想像にすぎない。この映画、最初からシューマンとの結婚生活に重点を当てて描いている。けれど、この映画に対する印象はもっとも薄い。共感するところが少なかった、ということだろう。

日本=スイス 国交記念、150周年・400周年  2014

日本=スイス 国交記念、150周年・400周年*2014

 今年1月日付の掲載だから昨年12月に下記のようなコラムを求めに応じて書いた。スイスとの国交樹立150周年ということで。

 150年前といえば1864年、まだ江戸幕末、新撰組が京都で勤皇の志士を暗殺したりしている物騒な世情だが、米国、英国、オランダ、ロシア、そしてフランスとは修好通商条約を6年前に調印している。スイスは当時、連邦国家として新興の意気に燃えていたらしく代表団を日本に送り出して修好通商条約を結んだ。意外と知られていない事実だ。
 スイスの前に日本と国交をもった国はいずれも軍艦に乗って日本の重い門扉を叩いたが、スイスだけは平和裏に上陸したわけである。内陸国スイスには外洋船舶など存在しないのだから・・。そして、スイスは第二次大戦中も日本との国交を絶やさなかった。
 そんなこともあってスイスに対する日本人の印象はすこぶる良いわけで、拙稿が掲載された紙面には平和スイス、観光スイス、精密機械のスイスと賞賛満載の内容だった。しかし、メキシコや中米、ラテンアメリカ諸国からみるスイスはけっして手放しで賞賛できるような国とは思えなかった。そこで、筆者は、「スイスの光、そして濃い影」と出して小さな原稿を書き、編集者の賛意を得た。下記したのは、そのコラムに大幅に手を加えたものだ。まず、読んでもらいたい。
 
 ビクトリノックス…スイス代表する企業。アーミーナイフの世界的なメーカーだ。多機能折畳み式ナイフ「ソルジャー」はたぶん世界中のバックパッカーが憧れるアイテムだろう。もっとも中国あたりのコピー製品が世界中に溢れてもいる。
 スイスの政治と経済を考えるとき筆者はいつも「ソルジャー」を思い出す。携行食糧を調理し、簡単な機械修理もできるナイフだが手の平のなかにすっぽり収まる「ソルジャー」にはナイフだけでなく幾つも金属道具が折り畳まれている。が、その気になれば人を殺傷することも可能だ。
 精密・正確な技術がなければ製作できないものだ。この技術は、スイス産業を象徴的な存在である時計を思い出させる。
 しかし、ナイフも時計もスイスの象徴的な技術であっても、スイスの「銀行」が稼ぎ出すアコギな儲けには遠く及ばない。スイス最大の産業は「銀行」である。正確にいえば個人情報を完璧に秘密保持する企業、国に守られた金融産業だ。
 居住可能地がきわめて少ない小さな山国だが、国民一人当たりのGDPは世界トップクラス。その経済力を支える資源は“他人の金”。しかも、あまりに綺麗とはいえない怪しげな金。よく金に履歴はもたないといわれるが、スイスに集まる金ほど、その比喩にふさしいものはない。
 スイスの「銀行」も、政治家も、そして市民もみな汚れた金であることを知りつつ、見てみないふりをして運用している。スイス国内でそんな金がいつまでも汚れたままでいたのでは、スイスの自然も汚される、と思ったか、汚れを落とす技術を開発する。マネーロンダリングだ。その洗浄技術は日進月歩。スイスの銀行はいつでも高性能の洗濯機を回転させるマネーロンダリングの先進国。世界最大の麻薬密売組織の拠点だった南米コロンビアのカリとメデジン麻薬密売組織の利潤の多くはスイスで洗浄されていた。伝説的な故パブロ・エスコバルはスイス 「銀行」の上得意であった。

 また途上国の独裁者が国民から搾取した金をせっせとスイスに逃避させている。フィリピンのかつての独裁者マルコス大統領の官邸にはスイスの銀行職員が常住し、国民の血税をせっせとスイスに流していた。そんな話はアジアにラテンアメリカに、そしてアフリカ諸国に嫌になるほどたくさんある。
 預金者は個人名を登録せず、銀行はあらゆる便宜を秘密裡に処理する。銀行の秘密保持はスイスの最高法である。
 最近は、生産拠点で高い税金を納めることを避ける多国籍企業や資産家たちがスイスの銀行に資産を逃避させる。タックス・ヘイブンの本拠地である。日本のハリー・ポッターの訳者がスイスの銀行をつかって税金逃れをしようとして発覚したのは記憶に新しい。

 観光ポスターに象徴されるアルプス、自然と町並みの美しさ。しかし、その景観を保っているのは貧しい国の民衆の生き血を吸った、吸いつづけた金だ。あるいはアマゾンの熱帯雨林を毀損し、カリブ沿岸 でマングローブ刈り取り、いくつもの自然の宝庫たる熱帯の峡谷をダムに沈めた開発独裁のおこぼれで、スイスの美しい景観は守られているといっても過言ではない。
 スイスには世界貿易機関、赤十字、国連の様ざまな機関が多数が設けられているが、そうした国際組織を招致しているのも曰く言い難い罪滅ぼしと思えてくる。大戦前には国際連盟本部がジュネーブにあった。これが全く機能しなくなったとき、ドイツ国内のユダヤ人の資産を預かり、戦中に多くのユダヤ人が行方不明となって、その資産はそのままスイスに滞留した。膨大な「資産」が国際機関招致の基金になったのではないかと後ろ指を指されても返す言葉もなかろう。凍結(?)されていたユダヤ人資産が人権機関などに「返還」されたのは戦後も半世紀以上も経ってからだ、それも米国の圧力であった。むろん、そのユダヤ資産を運用して巨万の利益を得ていたことは歴史的事実である。
 欧州のほぼ中央に位置し、EUの加盟条件をほぼ満すが、未加盟だ。欧州共通の税制、国際的な銀行監視、麻薬取引や投機のコントロールを強いるEUをスイスの銀行は嫌悪する。スイスでは国会議員の兼職が認められている。銀行の役職に就く議員が多い。自分の首を絞めるようなEU加盟などとんでもない話になる。

 ・・・・・・というものだ。
 さて、今年はスペイン・メキシコとの国交、というより“出会い”ということなるだろうか、それは400年前に遡るのだ。歳月の長さでいえばスイスの比ではない。日本がはじめて西欧文明と接触したのがスペインであったのだ。メキシコ、つまり当時のヌエバ・エスパーニャ副王領となるが、その副王領の太平洋沿岸都市アカプルコを出航した船にのってスペイン文化が日本に入ってきたのだ。
 関係各位はいろいろ記念イベントを計画し、最近、メキシコ音楽の夕べといったコンサートを東京オペラ・シティ劇場で聴いた。しかし、何故か目立たない。探さないと記念イベントの告知にも埋もれたままといった感じだ。早5月、もう少しスペインからの働きかけがあっても良いかなと思い、加筆した。 (2014/3記)  

バレエの本 A マイヤ・プリセツカヤ*B マーゴ・フォンテーン

バレエの本

A マイヤ・プリセツカヤ自伝『闘う白鳥』
 
 ただバレリーナの自伝というだけでなく20世紀後半、冷戦という政治史のなかで芸術はどのように生き抜いたか、という現場で第一線で活動してきたひとの貴重な証言集である。さまざまな読み方が可能だが、本書はソルジェニーツィンの厖大な労作と比べてもいささかも見劣りしない。ノーベル賞作家の「収容所列島」が労作というなら、マイヤの自伝はクレムリンの膝元から定点観測された熱情あふれる力作だ。そして、ともに生命を賭して活動してきたひとの言葉には熱がある。
 
 ロシア革命、そしてソ連邦の樹立によって世界は比喩的にいうのだが大きく二分された。そして、冷戦という“戦時下”で無数の人々の命は無残に失われ、若者の夢は砕かれ、才能は冷凍されたまま砕かれた。
 マイヤの父も密告という名の根拠のない告発を受けて流刑・処刑された政治犯であった。マイヤ自身、政治犯の娘として僻遠の地に家族ごと流刑されている。マイヤがはじめて踊ったのも、そんな僻遠の地であった。

 日本語版にしてA5判2段組約450ページに凝縮された自身の生きざまはロシア人的感性の迸りのように密度濃いもので、そこのは多くの歴史上の人物も証言者として登場する。むろん、バレエのことボリショイのこと、バレリーナの本としての内容は玄人筋の要請に応えつつ、しかし、私(マイヤ)が見て、体験してきたことは20世紀の真実として後世に伝えていく義務があるという切実な思いが先行している。
白鳥

 スターリン時代のこと、そのスターリンとの対話、スターリンをとりまく野卑な文化官僚との闘い。ボリショイ劇場のプリンシパルとして、その「瀕死の白鳥」が世界中に喧伝され、海外から幾多の招聘を受けながら、クレムリンはマイヤにビザを出すことはなかった。厳密にいえば東欧諸国への公演はあった。しかし、パリでロンドンで、ニューヨークで踊ることはできなかった。クレムリンはボリショイのスターが亡命することを恐れたからだ。
 海外からの要請、ボリショイでの黙殺、治安当局の監視、スターでありながら給与はいつまで据え置かれる政治犯の娘。優れたバレリーナが舞台を奪われ、あるいは何時の間か姿を消すことを見てきたマイヤ。そうしたことも生活感覚のなかから解かれている。
 やがて、亡命の恐れがないとされて海外公演が許される。それは彼女が作曲家と結婚したことによって、夫が「人質」となることを
受け入れたからでもある。
 海外での賞賛の日々、栄光のキャリアが積み上げられる。しかし、海外公演のギャラはことごとく当局に搾り取られる。ボリショイのプリンシパルとのプライドを守るための衣裳、歓迎の祝宴でゲストに招かれるマイヤだが、そのイブニング・ドレスはなけなしの金をはたいてつくった自前。そういう“些事”も細かく報告され、ソ連時代のモスクワの市民生活の貴重な証言ともなっている。
 そんな時代の挿話のひとつにピエール・カルダンが登場する。彼は無償でマイヤのドレスをつくり、新作バレエの衣裳もマイヤの要請を受けて無償でデザインしていたことなども本書で知る。しかも、ボリショイはポスターやプログラムに衣裳・デザインの担当者としてカルダンの名を出すのを禁止する。パリのカルダンはマイヤのステージが第一義として自分は影の存在でよいと退く。カルダンは不当な当局の措置を批判もしない。沈黙を守る。自分が 批判することによってマイヤが政治的に脅かされることを知っているからだ。
 そうした挿話にみちている。
 『ロメオとジュリエット』『シンデレラ』『石の花』などのバレエ音楽をかいたプロコフィエフとの親交から、この大作曲家から成り上がりの文化官僚に幾たびも侮辱される場面に遭遇している。芸術の価値を知らない役人たちはプロコフィエフすらシベリア送りにすることは容易であった。現に舞台芸術の分野からメイエルホリドというロシア演劇の至宝が粛清されていた。

 ソ連から亡命したヌレイフ、バリシニコフのことにも触れいる。マイヤしか語れない彼らとのパリやニューヨークでの邂逅。その場面は悲痛なドラマだ。ヌレイフの亡命によって家族のひとりは確か流刑されている。しかし、その不当をヌレイフはパリでさえ公言することができなかった。安全な地で活動する自分の発言がソ連に残っている(=囚われている親族)の生命を脅かすからだ。マイヤとの対面、しかし、なにも話すことはできない。話せば、マイヤが帰国して当局に問い詰めらる。正義感の強いマイヤはウソをつけないだろう。なら、沈黙を守らなければいけない。バリシニコフも亡命後、数年、まったくソ連に関することに口を閉ざした。

 ロシア革命。解放された民衆より、貧窮のなかで口を閉ざした民衆のほうがはるかに多かった。自由は封殺され、芸術は主義への僕(しもべ)となった。優れた芸術家の多くは亡命した。たとえソ連に残された妻、両親、子、孫、兄弟姉妹たちがシベリアに流刑されてしまうことあっても亡命を選んだひとたち。革命前にロシアの外にあった芸術家の多くは帰国しなかった。その象徴的な例がディアギレフ創設の「バレエ・リュス」のメンバーたちだろう。彼が世界中に散った。そして、各地でロシア・バレエの伝統を根付かせた。ロシア革命最大の成果のひとつは紛れもなくロシア・バレエの種が亡命者たちによって世界中に蒔かれたことだろう。日本もまたそうだった。日本人が書いた満州時代の思い出、回想録といった本が戦後、無数に出版されたが、そのなかで時折り、ロシアから亡命した音楽家たち、バレエ教師のことが書かれていたりする。日本における「バレエの母」といわれるエリアナ・パヴロワも鎌倉にバレエ教室を創設した人だが、出自はサンクトペテルブルグの貴族の出である。後年、日本名「霧島エリ子」をなのったパブロワは南京で戦病死し、靖国神社に祀られている。
 
 マイヤの自伝は、1993年、ソ連崩壊後の混乱のモスクワ、外出禁止令が出ているボリショイ劇場のなかの記述で終わる。そこにマイヤは淡々と書き付ける。「五十年間の習慣どおりの手順で準備にとりかかる。化粧を済ませ、ヘアスタイルを整え、タイツとレオタード、靴、レッグウォーマーを着ける。次はウォーミングアップ。」
 ▽山下健二・訳。1996年・文藝春秋刊。

B マーゴ・フォンテーン自伝『愛と追憶の舞』
 マイヤとほぼ同時代に活躍したマーゴ・フォンテーン(1919~1991)の自伝だが、ふたつを併読すると非常な違和感を覚えてします。マイヤ(1925~2015)の自伝を並べると、マイヤの自伝は闘争の記であるとすれば、マーゴのは傍題そのものの「愛と追想」記である。鉄のカーテンの向こう側とこちら側の差というものが鮮やかに対比される。しかし、同時代であり、バレエの神のイタズラで時空を超えて繋がっている。
マーゴ
*写真はヌレエフと。

 マーゴがはじめてバレエと出会うのは戦中の上海、亡命ロシア人の舞踏家から手ほどきを受けたのが最初だ。そしてマーゴの引退が囁かれた1960年代、ロシアからヌレエフが亡命してくると、彼はマーゴをパートナーとして『ジゼル』を踊り、『眠れる森の美女』『ロメオとジュリエット』など10年ものあいだ競演することになる。マーゴからみるヌレエフは芸術家として妥協の許さない男だった。マイヤは海外公演でヌレエフと秘密裡に合うと、彼からソ連内の家族に連絡できないので、彼女が通信や、私設宅急便係りを勤めている。むろん、当局から禁止されていることだ。
 そのそばにマーゴもいるが、そういうことには気づいていないようだ。マーゴにとってみればヌレエフは、「いちじるしい幼児性的特徴は素直に『ごめんなさい』と謝れないこと、『おかげさまで、ありがとうございました』などと、当然の社交辞令が身についていないことだった」となる。しかし、政治亡命者であり、KGBから「足の骨を折り踊れなくさせてやる」と脅迫もあったといわれるヌレエフである、亡命の日々のなかで踊るために費やす以外にも極度の緊張を強いられていた時期におけるマーゴの観察は、彼女があまりにも「冷戦」の内実に無知だとしか思えない。上海時代にであったロシア人舞踏家、そして長じてロシア・バレエを修得するために訪れるパリで出会う幾多の亡命舞踏家たちの存在。バレエに関わるエピソードを語りながら、マーゴはいっこうに彼、彼女らの運命、亡命者としての悲哀といったことに思い至らす気配が希薄なのだ。
 自伝を文学観賞的視点、そして舞踏史という観点からみればマイヤの自伝のほうがはるかに優れている。しかし、舞踏芸術家の二人の力量はともに優れた開花の華やぎに彩られている。判定するものではない。それは観賞するがわの嗜好の問題である。舞踏家マーゴ、マイヤともに芳香たゆまぬ名花であった。
 マーゴの言葉、「そして、私は? 私自身、人生に何か目的をもたなくては、生きてゆけない。その目的のためになら、贅沢の一つや二つは、喜んで犠牲にすることはできる。幸い、とても順応性に富んでいるし、人の世が理屈どおりに仕組まれていないことも、これまでの人生で学んできた。」
 ▽湯河京子・訳。1983年・文化出版局刊。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

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