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ディカプリオのオスカー受賞を記念しての回顧批評 2 『ワールド・オブ・ライズ』

ワールド・オブ・ライス リドリー・スコット監督
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 リドリー・スコット監督に正義・不正義の対立概念は希薄だ。だから「戦争」を批評する視点はすこぶる冷ややかであるし非情でもある。「戦争」の勝者がけっして正義の施行者ではありえないように、敗者もまた正義を叫びながら憤死するのだ。この監督の表現欲求に渦巻くエネルギーは現実世界へのペシミズムだろう。現実への理解を深めようと言う姿勢は、未来を予見しようという前傾姿勢だろう。たとえば初期の傑作『エイリアン』の基層にあるのは、宇宙開発という進歩によって、予見不能な未知との戦いがあらたに展開されるだろう、というデスペレートな思いから発したからこそ、ドラマとして深みをもったのだ。地球の都市そのものの未来像は、厭世的で退廃感もただよう『ブレードランナー』に描いている。それは、たとえばスピル ヴァーグ監督の『E.T.』や『未知との遭遇』のような芳しい出合いなど信じないものだ。

 現実世界との接触を強くもとめた映画に『ブラックホーク・ダウン』(2001)がある。北東アフリカの内戦地ソマリアに米軍は武力介入し、撤退を余儀なくされた事件に取材した作品だ。本作は、そのソマリア内戦にも関わる中東ヨルダンを舞台にした政治的アクション映画。イスラム原理主義者たちの武装組織を撲滅を目指す米国CIAと、ヨルダン国家情報局がそれぞれのやりかたで遂行する修羅場を描いたものだ。
 右に、CIAのハイテク技術と豊富な資金力を背に作戦指導をとるホフマン(ラッセル・クロウ)を置き、左に、ヨルダン情報局の常時ファンション雑誌から抜け出したようなスーツ姿で制服を着用しない将校ハニ・サラーム(マーク・ストロング)の主導する伝統社会に根ざしたローテクな作戦を置く。この配置が錯綜していて面白い。そのふたり の間で現地活動に生命をかけているCIA職員フェリスを演じたのがデオナルド・ディカプリオ。

 一人の米国人を守るためなら、中東の善良なイスラム教徒の一人や二人、“不慮”の死を遂げても仕方がないと考える役人がホフマン。現場から遠ざかってデスクワークの多くなって腹もすかったり膨張してしまったという官僚だ。その嫌味なふてぶしさをラッセル・クロウは好演。そんなホフマンに対立しつつ情報だけはありがたく戴き、ヨルダンの地縁・血縁、習慣・習俗を活用する捜査で実績をあげてきたハニの冷徹が際立つ。フェリスは双方の情報と技術を得つつ、いつも前線で身体をはっているのだ。
 ある意味、フェリスの位置はピエロ的な存在だが、現地にながく留まっていれば、誰だって 正常な感覚を維持するために活動地の文化にそれなりの共感をもち、人間的な親密感をもたないと狂ってしまうだろう。どんな活動にも「遠くの親戚より近くの他人」。転べば手を差し伸べるのは近くの他人である。

 本作では欧州の都市で破壊活動をつづけるイスラム過激派の組織を“悪”とは言い切っていない。その組織の指導者も血も涙もない異常者と描いてはいない。いまもビンラディンの戦いを畏敬する民族が存在し、その影響の下、現在も破壊活動を“聖戦”と信じて若者たちが生命を賭して戦っている。あえて書くが、そんな狂信的なイスラム青年に銃を向けられば、抵抗としてフェリスは引き金を引かざる得ない。そういう泥沼化した紛争の状況を複眼的に捕捉しようとした映画だ。
 
 スコット監督にとって はイスラム原理主義者たちをスクリーンに描くことは、同時代を生きる表現者として避けては通れないものだろう。フェリスの存在は映画に活力を与える貴重な存在であるが、映画の本質を体現しているのはホフマンの方だ。だから、監督はクランクイン前にラッセル・クロウに体重を20キロ増やすよう厳命した。そして、映画の興行面で集客をのぞめるディカプリオに汗を流してもらおうという意図があったと思う。


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映画 アフリカを描く 『ルムンバの叫び』

 映画『ルムンバの叫び ~暗殺前夜』ラウル・ペック監督(2000)
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 レオナルド・ディカプリオ主演の旧作『ブラッド・ダイヤモンド』評でも少し触れたベルギーのダイヤモンド市場とアフリカとの関係性を考えているときに思い出したのが本作だ。2000年、フランス=ベルギー=ドイツ=ハイチ合作映画。ドイツ以外、フランス語を公用語とする国のスタュフ、キャストが並んだ。そして、映画の舞台となったコンゴ民主共和国(後年、ザイールと国名を改めたこともある)の公用語もまたフランス語である。約80年間、ベルギーの苛烈な植民地支配を受けるなかで、遺制として公用語に残った。

 映画は、この国の“建国の父”といってよいパトリス・ルムンバの波乱に満ちた短い生涯を、独立前後の活動に象徴して描いた政治ドラマだ。監督は幼少期をコンゴ過ごしたハイチ人ラウル・ペック。
 約2時間という通常の映画時間のなかにコンゴ独立の叙事詩を語るにはルムンバに焦点があてられる。苦難の独立闘争を経て貧しい国の舵取りを任せられた30代前半のルムンバ。旧宗主国ベルギーの国益を守ろうという旧植民地官僚や軍人たちの壁、 冷戦下、資源の豊富な新興国を影響下におこうとする米国、ソ連などの思惑もからんで暗殺される若き英雄の栄誉と挫折を可能な限り描き出した労作として賞賛したい。
 (これだけの作品を撮りながら、ラウル・ペック監督の新作というのをまったく聞かない。この映画を撮るために、序章のようにルムンバの闘争を描いた記録映画を撮っている。その続篇といってよい作品である。)

 1960年を「アフリカの年」と形容される。アフリカ諸国17カ国が次々と独立の雄たけびを上げた。
 その時代、ルムンバの名は遠く日本にも聞こえ、評伝なども刊行された。その事蹟をよくしらないまでも現代アフリカ史にかならず登場する栄光の名として認識していた。しかし、ルムンバが独立初代の首相として実権をにぎっていたのはわずか2ヶ月に過ぎないのだ。暗殺された時、35歳とい う若さであった。映画はその2ヶ月に焦点を当てている。
  むろん、コンゴはおろかブラック・アフリカ諸国について無知であっても、それなりに理解できるような巧みな作劇があり、監督自身もかかわったシナリオも秀逸である。そして俳優たちも力を出し切っていると思う。
 映画の冒頭、スタッフ・キャストのクレジットの画面を利用して、そこに植民地時代のベルギー圧政を象徴する写真がモンタージュし、観客に予備知識を与える工夫は、歴史映画の常道であろうが、本作ではそれが成功している。
 
 独立前夜、高揚する政治的季節のなかで、独立後の覇権、経済的利害などを確保しようとする旧支配層の思惑などが渦を巻く。 西欧諸国のアフリカ支配はその地の伝統風俗を断絶し て行なうか、種族間の利害を巧みに利用して富の収奪を行なってきた。。その支配システムはそのまま独立後も機能した。いや、ベルギー当局は、銅をはじめとする鉱物資源のい豊かな州のみ分離独立させようとした。じっさいにカタンガ国という国際社会に認知されない“国”が数年存在した。
 分離主義者たちは、統一コンゴこそ貧しい国を強固にする最低の支柱と考えるルムンバを敵視した。独立後もコンゴに居座るベルギー軍はカタンガ国にてこ入れをした。そんななかでルムンバはソ連への傾斜を強めようとする。その動きを封じようと米国のケネディ大統領の政府も動く。そんな政治環境のなかでルムンバは殺される。ただ、殺されたのではない。コンゴ民衆の多くが英雄視するルム ンバの死後の影響力を恐れたベルギー軍は、彼の死体を解体し、燃やしたのだ。しかし、ルムンバは殺され殉教者となって今日でもコンゴ民衆の血となり肉となっているようだ。
 ルムンバ亡き後、コンゴは内戦状況に陥る、これを「コンゴ動乱」という。ルムンバ亡き後にコンゴを襲った現実であった。しかし、映画は動乱を予感させるところで終わる。

 現在もアフリカ各地から悲惨な民族対立、内戦が伝えられる。植民地時代から抱える地域対立が埋蔵資源の利権などと絡みあい、そして宗教的な齟齬が加わるとき惨劇となる。そうした国のことに想いいたすとき、その理解の一助となることが確かな一編として本作を推奨したい。
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 ルムンバを演 じたエリック・エブアニーという俳優について知るところは少ないが、郵便局員からビール会社の宣伝マンに、そして弁説を磨き、知識を蓄え、「独立」闘争のセールスマンとして頭角をあらわし、若き闘士としてコンゴ民衆を牽引する力を経て、独立期の権力を掌中におさめながら志なかばにして斃れた起伏の大きな男の短い生涯を好演していた。

 日本ではベルギーが植民地をもっていたことすらよく知られていない。しかし、そのコンゴに対する80年は他の西欧列強の支配より苛烈なものであったことは歴史が証明するところだ。
 独立の混乱期、植民者のベルギー人がコンゴ国軍によって多数、惨殺されている。ルムンバの意向に背いた軍部の独走であったが、それも動乱の火種だ。そうしたコンゴ人によるベルギー婦女子への弾圧も歴史的事実として語る必要もあるし、映画のなかでも語られている。書 き出しで紹介したダイヤモンド産出国シエラレオネを舞台にした映画『ブラッド・ダイヤモンド』で主役となったディカプリオの役は、コンゴ独立期、ベルギーからの植民者であった両親がコンゴ人に殺され孤児となり、南アフリカに渡った男という役柄であったことを付け加えておくべきだろう。

アルゼンチン映画『エルヴィス、我が心の歌』アルマンド・ボー監督

アルゼンチン映画『エルヴィス、我が心の歌』アルマンド・ボー監督
  *5月28日、東京ユーロスペース公開。
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 日本ではラテンアメリカ音楽はメインストリートにはなりにくい。言語的に遠隔感があって愛好者はたくさん存在していても主流にはなれない。だから正確な情報も共通理解とはなっていない。アルゼンチン音楽の主流はあくまでタンゴであり、メキシコ音楽ならトリオ音楽だと思っている人はいまだに多い。キューバなら映画の『ブエノビスタ・ソシァルクラブ』の影響から出ていない人も多いかもしれない。
 昨年もトリオ・ロス・パンチョスのSP時代の復刻CDの批評など書かされたが、そこでも現在のメキシコでは新しい生命を吹き込むことを久しく忘れた音楽と明記しておいたが、それを目にした人も少ないだろう。タンゴもまたそうである。アルゼンチン音楽の重要な要素であるが、日本で語られるほどリアリティのある現代音楽ではない。アルゼンチンの長い軍政時代、若者の息抜きとなってもっとも充実していたのはロックだ。チャーリー・ガルシア、フット・バエスなどは現在でもロック・エスパニョーラの歴史のなかで大きなスペースをもって語られる存在だ。・・・と書いてくれば、ここで紹介するアルゼンチン映画の『エルヴィス』が誰を象徴しているか了解できるだろう。そう、エルヴィス・プレスリーである。

 彼の歌に惚れ、彼の歌を身振り手振りコピーし、むろん衣裳も、そして声質も合わせて歌いつづけるしがない中年工員のうらぶれた話だ。そして、よくこなれた人生の哀歓ともいえるし、やさぐれた感じもあっても妙に説得力のある映画となっている。監督はとみればメキシコの才人アルハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品にシナリオ・ライターとして、あの緻密なドラマづくりに参加していたアルマンド・ポーがはじめてメガフォンを撮った作品であった。

 主演エルヴィス(=カルロス・グティエレス)を演じるジョン・マキナニーは実際にブエノス・アイレスでエルヴィスの声帯模写でしられた、日本で言えば寄席芸人で、これが初の映画主演となったそうだ。だから、そのステージ上のエルヴィス歌唱は堂にいっているし思わず聴き惚れるほどだ。しかし、それはエルヴィス人気があってはじめて実現している見世物であって、歌手としてのカルロスなどは無視される。
 若いときは、それなりに歌手としての野心、野望といった意欲もあっただろう。しかし、アイディンティティを抑え込んだ物まね芸に没入していくほど、歌手としてのカルロスの存在は消えていってしまう。いつまでも寄席芸から浮かび上がれず、やがて工員として生活の資を稼ぐ、社会保障もままならぬ低賃金労働者。エルヴィスに感化するほど自己を失っていくカルロス。そんな生活のなかで、やがてカルロスもエルヴィスが心臓麻痺のため死去した年齢42歳を迎え、その日が近づいていくことを認識せざるえない。

 カルロスは、その日をひそかに待っていた。準備していたといってもいいし、それが生きがいともなってもいたようだ。
 はじめての長旅に出る。行き先は米国メンフィスのエルヴィスの自宅グレースランド。エルヴィス終焉の地だ。カルロスはそこで自己完結しようとする・・・・。
こういう話はたぶん世界各地に実在していると思う。そして、そんな“事件”は酔狂な不幸として、ちょっと話題となり、やがてニュースの波に埋没してしまう。しかし、そういうことは確かに存在する。そういう人間実存の不可思議さをどこかで肯定しないと、おそらくこの人間世界を理解する糸口にも立てないのだろう。

署名アラカルト №12 久保田一竹

愛好讃美風溺愛型  久保田一竹
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 平成15年4月、85歳で亡くなった戦後昭和・平成を代表する染織家・久保田一竹さんは実にパワフルな行動家であった。染織界に充足することなく領海を超えることを意識化した久保田さんは、必然的に公的な頻出度が高かった。むろん、創作した一連の「一竹辻が花」に対する絶大的な人気がそれを後押ししただろう。
 没後すでに13年経つが、その人気は現在も持続しているように思える。
 室町時代に最盛を迎え、ある時期、忽然と作られなくなって技術も途絶した「辻が花」を戦後昭和の時代に再興しただけでも、それは賞賛されることだが、その技術の再生を久保田さんは伝統の枠内の小事件として留めることなく、その成功を機に「和装」文化の改革という領域まで踏み込みはじめた。それは先駆的な実験性あふれる行為だった。だから、久保田さん自身、積極的に自ら広告塔になって公の場に出て行った。海外への公事も多かった。「辻が花」を展示するイベントは繰り返し行なわれ、その会場にも顔をみせていた。そうした場で描かれた図録への署名が実に多い。筆者の手元に流れ着き、そして送り出した、そうした署名図録はゆうに20冊は超えると思う。
 そして、そのいずれもが中扉見開き余白いっぱいに金また銀メタル色での、竹を簡略に象徴化し、みずからの「一竹」の竹に見立てるという署名(図)であった。黒ではなく金ないし銀色を選ばれたのは、図録という特殊性だと思う。中扉または見返しの色、紙質が通常の単行本より紙厚があり、色も多用であるからだ。
 それはすでに手馴れたもので、いずれも流麗で停滞のない筆の運びである。これを受け取ったファンは実にありがたい思いを抱いただろう。「和装」文化におおきな波動をあたえたいと思っていた久保田さんは、署名ひとつも考慮した。時間は掛けられないが、しかし、「心」は伝えようとした結果、「竹」図をあしらった署名となっていったのだろう。
 染織をなりわりとした人で、これだけ多くの署名本を残し人は久保田さんをいて存在しないし、その目立たずカウントもされない記録は今後も容易なことでは破られることはないだろう。それほど多くの「竹」図署名本は巷間にあふれている。

映画「スネーク・ダンス」とピアニスト菅野潤の極上の音

テロ被害を受けた国から届いた人間社会の「進歩」について考える映像
  ~日本・ベルギー国交150周年記念

 今年、ベルギーと日本は国交樹立150周年を迎えた。両国で様ざまな記念行事が開催されているが、この祝祭に棹差したのが今年3月に首都ブリュセルで起きた連続テロ。死者32人、重軽傷者300人を超える大惨事であったことはまだ記憶に生々しい。
 この事件で動揺した国内の社会不安が沈静化したのだろう。同国のシャルル・ミシェル首相は5月11日から14日まで対日関係の政治・経済、文化交流などを強化しようと初来日した。この日程は昨年に決まっていたようで、無事、日程がこなされたことでベルギー社会の平穏化も推察できる。
 17日にはベルギー大使館の後援でベルギー映画『スネーク・ダンス』(マニュ・リッシュ監督*2012)の上映と、同映画で音楽を担当したピアニスト菅野潤さんの演奏会が同国大使も参加して東京代々木八幡のハクジュ・ホールで開催、筆者も招待を受けて参加した。国交記念イベントの一環だ。
 映画『スネーク・ダンス』は同国の思想家アビ・ヴァールブルクに示唆を受けて制作された、人間と〈核〉を巡る思索的な作品だ。ヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾の原料となったアフリカ・コンゴのウラン鉱跡、米国ネバダ州の核実験場後、そして、3・11後、原発事故によって放射能汚染された福島の地を経巡りながら科学の「進歩」の罪について考えた作品だった。コンゴは、1908年から60年の独立までベルギーの圧政を受けてきた植民地であった。アフリカでももっとも苛烈な支配としてベルギーは国際批判に晒されてきた。ウラン鉱の開発は労働者の放射能汚染といった処置も行なわず、植民地時代だからできた非人道的な事業であった。

 ヴァールブルグは芸術における「進歩」という概念に疑念を表明し、人類の根元の希望とは何かと人間の美術表現の歴史を通して問いつづけた思想家だ。テロに襲われた国から、こうした映画で人間社会の「進歩」に疑念を表する映画が出てきた意味は重い。映画はドイツにヒトラーのナチ党が政権が握った後、欧州を後にしたユダヤ人科学者たちが米国で核爆弾の開発に携わった事実を痛切に語る。映画の音楽は、ヒロシマに投下された核爆弾のウランの量を決定したユダヤ人物理学者オットー・フリゥシュが、実験の日々を送るなかで自らピアノを弾いていた曲だけで構成されているという。映画ではヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は対日戦の文脈では不要であったと断言し、戦後の対ソ連対策として必要であったと主張している。しかし、映画そのものは籠められた思いの強さは了解できても散漫な印象をうける。タイトルの「スネーク・ダンス」は米国のネイティブ・アメリカ、ホビ族の舞踊だが、これをヴァールブルグはで、「生の恐怖」を克服するために没我の領域まで踊りつづける意味を問う著作を書く。映画はこれを象徴化する強さは残念ながらもっていない。
菅野潤

 映画のピアノ演奏は、フランスを中心に活躍する日本人ピアニスト菅野潤さんが担当し、17日の上映後に菅野さんの小コンサートとなった。菅野さんのピアノを聴くのは筆者にとって二度目である。菅野さんの力強く鮮明な音はホールにただよう空気に活性を与える明瞭なものだ。それはバロックからロマン派、現代音楽までに変わらない菅野ピアニズムである。当日は映画の上映後、休息の時間もなく明るさを取り戻したホールのなかに、スカルラッテイのソナタニ短調が映画鑑賞後の余韻を不用意に醒まさないような平穏さで弾き、ベートーヴェンのソナタ「悲愴」へと繋いだ。人間実存そのものの不可思議さを問いかけたベートーヴェンの思索の旅の初期、若い時期の清新なソナタだが、菅野さんは、俗にいう「青春の哀切感」より、戦争期に仕事のもっとも充実期を迎えてしまったユダヤ人物理学者の心、自分が開発にたずさった「新兵器」がもたらす破壊の大きさを推測しうる苦悩から逃れるように弾いたかも知れないピアノを想像しながら弾いているような共感と親密さがあふれた楽想であった。私にはとってはえがたい「悲愴」体験であったことを記しておきたい。 菅野さんはおそらく演奏生活のなかでも現在、もっとも充実期にある演奏家だと思う。菅野さんの特異領域であるドビュッシをまた聴いてみたい。

「パナマ文書」の国の守護神「黒い聖母」の讃歌

パナマの守護神「黒い聖母」の讃歌


 中米地峡南端の小国パナマ。太平洋に面した港湾都市パナマ・シティが首都。海の大動脈パナマ運河の太平洋側の出入り口に位置する同市を夜、海上から眺めると、その華やぎは威容だ。高層ビルが立ち並び、そのビルを縫って高速道路が延びている。そんな街の一角にあるモサック・フォンセカ法律事務所から漏洩した、いわゆる「パナマ文書」がいま世界を震撼させている。
 節税、資産隠しをしていた世界中の政治指導者、富裕層の“不正”が暴かれているからだ。すでにアイスランドの首相が租税回避地をつかって巨額の投資をしたことが暴露され失脚した。
 同法律事務所は世界40カ国以上に500人以上の従業員を抱え、取引き先は世界各地に約30万社を数えるといわれる。パナマシティにはこうした事務所が実態が不鮮明なまま拠点を置いている。

 しかし、パナマ人の多くは農業に従事し、「パナマ文書」に興味を抱くこともなく生活している。租税を回避するほどの所得もない貧しい農漁民の国である。首都の在り様が突出して“異様”なのだ。パナマの農民たちが倦(う)まず大地と語らい、漁民たちがほそぼそと沿海漁業を営みながら、この国の食を支えているのだ。そんなパナマをマスコミは伝えない。

 パナマ民衆の心のよりどころが カリブ沿岸の小さな港町ポルトベヨにあるサン・フィリペ教会に奉られている「黒い聖母」。
スペイン植民地時代の広壮な要塞が湾口を囲むように設けられている町で、ユネスコの世界遺産に指定されている。かつて、南米のインカ帝国から略奪された富が集積され殷賑を極めたことがあったが、いまは外国人観光客が首都から日帰りでくる程度で静かな町である。そのポルトベヨが毎年5月、賑わいをみせる。サン・フィリペ教会を参拝に訪れる善男善女で賑わうからだ。そして、同教会に祭られた「黒い聖母」を中心にパナマ各地では1ヶ月に渡ってさまざまな行事が行なわれる。これを「ラ・エトニア・ネグラの月」という。

 パナマから送られてくるフィエスタの様子を伝える映像で流される音楽はパナマ版バジェナート。毎年、バジェナートの主要楽器で
あるアコーディオンの名手たちが新しい「黒い聖母」讃歌を創作しCD化して販売する。
 コロンビア・コスタ地方生まれの民俗音楽バジェナートは、コロンビアの世界遺産として昨年、ユネスコに登録された。 その時、パ
ナマのバジェナートが黙殺されたかたちとなってパナマの音楽家たちが物言いをつけたことは本誌ですでに取り上げさせていただいた。
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 今回はバジェナートがコロンビアだけでなく、パナマ民衆音楽の中心であることをあらためて確認してもらいたいためにも「黒い聖母」との関わりで取り上げてみた。このパナマの「黒い聖母」の精神的な求心力は、メキシコの守護聖母として有名な「グアダルーペの聖母」に匹敵するものだ。そして、「グアダルーペの聖母」讃歌も数百曲におよび、その代表曲は数十種類のアルバムとなって発売されている。
 ラテンアメリカは日々、どこかで新しい作品が生まれている宗教音楽 の宝庫であることを確認しておきたい。 
 
 「パナマ文書」で記号のように扱われる“パナマ”。そこには多くの民衆が暮らしている。タックスヘイブンとして取り上げられたカリブ海の多くの島国。そこにもまずしい民衆が、自分の国が租税回避地であると、世界中から冷笑されていることをしることもなく生活している。マスコミで日々、賑わしているタックスヘイブン、その地の民衆について触れた報道をみたことがない。そのことを後日、稿をあらためて書きたいとおもっている。

カンボジア映画『シアター・プノンペン』  (7月、岩波ホールで公開)

 カンボジア映画『シアター・プノンペン』 ソト・クォーリーカー監督 (7月、岩波ホールで公開)
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 20世紀を人間の愚行の歴史と語る人は多い。
 愚行とは知性の麻痺、退行現象だろう。独裁的な権力がその退行をシステム化して民衆に強いたらどうなるのか・・・・・・。デスペレートな近未来映画や小説でも、それを描くとき歴史のなかに範を求めてしまうだろう。そこでは、どこかで聞いたような話、見たような話が繰り返されているだけだ。しかし、生身の人間、今その時まで平穏に暮らしていた人びとが、ある日、突然、家族の歴史から遊離され、いきなり自由をうばわれてしまったら、しかも、国単位、民族単位でそういうことが起こったらどうなるのか? そういうことがカンボジアで起きた。
 地獄の現場は国境という壁に守られ、知性の豊かな人から真っ先に殺されていった。その知性を抹殺する先兵は、学業を剥奪された子どもたちであった。
 
 1975年、カンボジアで親中国派の武装勢力クメール・ルージュが首都プノンペンを制圧、ポル・ポト政権が樹立された。その時から〈死〉が支配する国となる。79年、ベトナム軍の侵攻によってポル・ポト独裁が崩壊するまでの約4年間に300万の人が殺された。死と生をわかつ基準は、知的であることが無形の邪悪な資産とみなされ、富裕層とみなされ反人民的として裁断されたのだ。
 あらゆる教育者、ジャーナリスト、画家、作家、音楽家、俳優、舞踏家・・・およそ知的労働に携わってきた人たちを根こそぎ排除するという方針のもとに処刑されたのだ。そして、死体は田や畑の肥やしになるとして放置されたまま腐敗した。
 処刑は人間に留まらなかった。焚書に留まらず、あらゆる楽器が破壊され、映画のフィルムは撮影機材などともに破棄され、貨幣は紙くずとなった。都市は無人化され、廃墟となった。
 本作を観て、はじめてポル・ポト政権以前、カンボジアで300本以上の映画が制作されていたことをしった。そして、現在、残存している作品はわずか30本ほどだという。歴史的事実はあるが、それを資料として使えない映画史をもつことになってしまったのがカンボジアであった。

 『シアター・プノンペン』というタイトルに象徴されているように、ポル・ポト時代の惨劇を「映画」に象徴させ、そして現在、外資を積極的に導入し経済の再興から発展への道を歩みはじめたカンボジア。ネオンサインが輝く現在のプノンペンの夜景が映し出されるが、その繁栄の下で、まだ多くの国民に深い傷を残していることを「映画」を通して物語る。主題は、「和解」だ。
 残酷な内戦を生き抜き、生き残った人びとは、かつて〈敵〉であった者と共存して暮らしていかなかればならない。ポル・ポト時代に内戦下にあった国は多いし、それ以後も各地で血なまぐさい殺し合いがあちこちで起きている。現にシリアで、アフリカ各地で。内戦後の「和解」の問題は、心の戦争でもある。そういうことを本作は実に素朴な手法で提示している。

 ポル・ポト時代の恐怖は、世界的にヒットした映画『キリング・フィールド』(1984・英国)によってイメージ化されたところが大きいと思う。筆者自身、『キリング~』を出張先の甲府市の映画館でみたことを記憶しているぐらいだから、いかに印象の深い映画であったかが分かる。
 その映画でポル・ポトの強制収容所に拘束されるカンボジア人役を、米国に亡命したカンボジア人男性が演じ、オスカーの助演男優賞を獲得している。しかし、ポル・ポト独裁から解放されたカンボジアには映画づくりのための機材はおろか人材も枯渇していた。ノーハウそのものが消えた。
 再興はフランスに亡命していた映画人がドキュメントを撮ることではじまった。その1本が2013年に制作された『消えた画 クメール・ルージュの真実』(リティ・バニュ監督)だった。この映画は日本でも公開されたが、その真摯な視点を解釈できる観客は少数だった。その前に日本未公開の劇映画『Lost Loves』が制作されている。ポル・ポト時代を生き抜いた一家族の物語だ。
 そして本作『シアター・プノンペン』もまたポル・ポト軍に逮捕され、強制収容所を生き延びた母と、ポル・ポトの兵士であった父とのあいだに生をうけたソポン(マー・リネット)を主人公とする家族の物語だ。表題は、その母(ディ・サヴェット)が若い頃に主演した未完のフィルムが奇跡的に残っていた映画館の名である。母の若かりし頃もマー・リネットが演じている。
 荒廃した映画館はバイクの駐車場になっていた。ある夜、その映画館のスクリーンに映画が映しだされるのをソポンは偶然みる。どうして映写機が無傷であったのか、フィルムが残存できたのか、といった疑問もあるが、それは不問としよう。その映写機を操作する中年男はかつて女優の母に恋心を抱いていた俳優のひとりだった。そうした複雑な人間模様が過去と現 代を行きつ戻りつしながら「和解」へと紡がれる。

 劇中映画として、ポル・ポト以前の映画をみせることで、非業の死を遂げたカンボジア映画人へのオマージュとしている。エンドロールでポル・ポト時代に消息を絶った、かつての人気俳優たち、監督たちの顔写真を走馬灯のように写し出してゆく。筆者はその黄ばんだ写真のつらなりをみているときに熱い共感がこみ上げてきた。
 映画の本編それ自体は主題が先行した凡庸な作品である。技術的にも未熟だし、旧作の未完部分を補って完成させようという大学生たちの善意や、その撮影光景もウソっぽい。あら探しをはじめたら切りがない。けれど、あの時代をともかく呑み込み反芻しないことには、この国の表現活動ははじまらないのだ、と映画は訴えていた。
 いま、カンボジア人自身が心のなかの、あるいは国民的記憶としての負の歴史を見つめ、ときに傷を晒しながら表現できる時をともかく迎えているのだという事実を尊重したいと思った。

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №6 「没後30年のジャマイカ」

 カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №6

 ボブ・マーリーの死から三〇年が経った。
 ジャマイカは彼が希求した国になっているだろうか? 答えはNO、暗然たるものだ。
ボブ終り

 ボブ・マーリーがガンを宣告された一九七七年、ジャマイカは経済危機を乗 り越えようと国際通貨基金(IMF)からの融資を受ける。しかし、IMFは融資にあたって必ず付帯条件をつける。それは当該国の喉元を押しつぶすような構造調整プログラムだ。
 通貨の切り下げ、公営事業の売却・民営化、公務員の人員削減、社会・福祉・教育予算の縮小等々。これによって失業者が増え、社会的弱者は困窮の度を加える。IMFは通貨の切り下げによって輸出力が増す、と説く。外貨収入が増える、と諭す。外資が参入しやすい条件が満たされると新たな産業が興され、失業者はそこに吸収さ れると説明したりする。しかし、いずれもIMFの主張は裏切られる。
 輸出より、輸入が促進される仕組みでもある。関税の撤廃によって輸入が加速するからだ。ジャマイカで生産される農産物より、米国産の輸入品の方が安くなる。米国は農業生産者に補助金を出している。市場経済を主張する一方で、国内のアグリビジネスを保護する。農産物に戦略的な価値を見いだすからだ。いまは日本ではTPP(環太平洋経済協定)が問題になっているが、関税が撤廃されれば経営基盤の脆弱な生産者は疲弊するだろう。
 実際に、ジャマイカ国内で生産される牛乳より、米国やカナダから入ってくる粉ミルクのほうが安いということが起きた。タマネギ、じゃがいも多くの生産農家が廃業に追い込まれるか、転作を強いられた。この三〇年、農業は衰退した。食べていけなくなった農民は都市の スラムに最後のよりどころを求めて入っていく。
 ここ一〇年と区切ってジャマイカをみれば、大型ハリケーンによる自然災害、石油の高騰や世界経済の減速などによって社会不安は加速している。

 ラテンアメリカに関心のある読者ならすでに常識と思うが、いま多くの国が米国流の市場経済、グローバリズムによって所得格差が拡大し、困窮世帯が激増した反動もあって、多くの国の政府が左傾化した。
 その急先鋒が反米主義を声高に唱えるウーゴ・チャベス大統領を戴くベネズエラだ。これに米国から経済制裁を受けるキューバが連動し、ボリビア、エクアドル、ニカラグアが加わり米州ボリバル同盟(ALBA)という経済協力機関ができた。反米同盟だ。もともと米国が競争原理に基づく市場経済優先の地域統合 構想「米州自由貿易地域」を米州諸国に押しつけようとしたことへの反発からうまれた。米州域内最大の石油産出国ベネズエラ、資源大国のボリビア、エクアドルも連帯したことによって米国も無視できない政治的同盟となった。

 現在、石油を輸入に頼らざるえない域内の小国へ、ALBAの資源国は友誼的な価格で提供して経済的苦境を助けている。キューバはベネズエラから石油を受け取る替わりに、人的資源の豊富な医師や初等教育の専門家を長期派遣した。現在、カリブの小国ドミニカ連邦、アンティグア・バーブーダ、セントビセント・グレナディーンの三国も加盟し、石油を友誼的価格で輸入している。このカリブの三国はジャマイカとおなじく英国から独立した後、英連邦に留まり、カリブ英語圏諸国を中心とする地域機構カリコム共同体に参加している。小国3カ国が、英国はもとより米国との関係に亀裂を生むことを覚悟しつつALBAに加わった。もし、ボブ・マーリーが生きていたら、ジャマイカも参加せよと訴えたに違いない。ハバナでのボブ・マーリー顕彰もジャマイカに対し、ALBAへの加盟を促すメッセージであったかも知れない。 (2013年記)
 
 *追記 世界経済の変異は急激だ。世界経済の減速と石油の生産過剰によって、石油価格は下落した。ベネズエラは石油生産国にも関わらず国内消費用のガソリンすら不足し、電気の供給すら怪しくなった。チャベス時代に計画的なインフラを整備してこなかったツケが回ってきた。すでにALBAは機能不全に陥っている。

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №5 「祖国、ジャマイカへの愛惜」

 カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №5

 日本でレゲェが定着した要因は幾つもあるが、全盛期のジミー・クリフが主演し、ジャマイカン・パトワ(クレオール英語)が意識的に用いられたと思われる映画『ハーダー・ゼイ・カム』(一九七二年)の存在は大きいだろう。主題歌はジミーの代 表的なヒット曲ともなった。前回、取り上げたミリー・スマイルのヒット曲は、彼女の母語、濃厚なイントネーションを肉体的言語としていたジャマイカ・パトワを徹底的に矯正した後、録音スタジオ入りしたという記録がある。
 映画『ハーダー・ゼイ・カム』のラストシーンは暗示的だ。
 ジミーが演じるのは首都キングストンのスラム街を根城とするストリート・ギャング、チンピラやくざ。瀕死の重傷を負ったチンピラは、ジャマイカには絶望しかないと海に泳ぎだし、たどり着けるはずもないキューバを目指す。「自由を求めて」と……。ジャマイカではそんなオチも不自然さをともなわず受容されていたのだ。

 ソ連解体後のキューバは経済の苦境を打開するために観光業に力を注ぎ、外貨を稼ぐ重要産業とした。カリブ諸島をめぐるクルーズはハバナや、キューバ革命の揺籃の地サンチャゴ・デ・クーバの港にも入るようになった。その豪華客船はジャマイカのリゾート地モンテゴベイにも周航する。そして、そのモンテゴベイはこの 国の矛盾がきわまる地である。経済の歪み、貧富の差、グローバリズムの弊害が屹立するところだ。
 モンテゴベイの港から発車する外国人観光客を乗せた観光バスは、しばらく走るとT字路に出る。バスは決まって左に曲がる。そして港で働く労働者を乗せた公共バスはそのT字路を右に曲がる。左に進めば五星ホテルがすばらしい海岸を占有して外国人観光客を迎える。右にいけば狭い土地に軒低い家が密集するモンテゴベイの町となる。その町では少し前までLP盤のボブ・マーリーの国内プレス盤の初期アルバムが売られていた。否、いまも売れ筋かも知れない。ボブ・マーリーのレゲェはすべて、T字路の右側で暮らすモンテゴベイの民衆のために書かれている。左側はボブがバビロンと指弾した虚飾の世界だ。
 
 生前のボブ ・マーリーは有権者として、低所得者層を基盤とする政党・人民国家党(PNP)に肩入れした。ジャマイカにはこのPNPと、右翼の労働組合が組織し、英国系白人や中流商店主、黒人エリート層などを支持者とするジャマイカ労働党(JLP)の二大政党制だ。
 一九七二年の総選挙でボブ・マーリーは、PNP党首のマイケル・マンリー候補を積極的に支持し活動する。マンリー党首が選挙前に訴えていた社会改革の提言、貧困層に対する道徳的共感にシンパシーを感じていたからだ。そして、PNPは選挙に圧勝する。
 マンリー首相は選挙で圧倒的支持を背景に段階的に社民主義的な政策を実現してゆく。大農園の休耕地など接収して農民へ貸与する土地改革、多国籍企業が握っていた電気・電話・ バス会社といった公的事業の経営を有償国有化してゆく。しかし、七三年からはじまったオイル・ショックによって、石油を全面的に輸入にたよっていた同国経済はたちまち悪化する。この経済危機を乗り越えようとPNPは、外貨収入の約半分を支えるボーキサイトの輸出権を確保するため米国やカナダの企業が握っていた鉱山の株五一%を収得する挙に出た。さらに、米州機構(OAS)から追放され、米国の経済制裁を受けているキューバ政府との緊密化も図った。こうしたマンリー政権の“左傾化”に対し、米国は反撥した。当時、米国は戦略的物資としてのボーキサイトをジャマイカに依存していたからだ。
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 米国の反撥を受けても民族主義的な政策を守ろうとしたマンリー政権ではあったが経済的には効を奏さ なかった。
 国内総生産高は七四年から八〇年までに一六%も下落し、失業率は二四%から三一%に急増した。マンリー政権の社民主義的手法も貧困化を助長するだけのものと民衆に写った。ジャマイカでは両党支持者のあいだで武装対立が悪化する。ボブも標的になった。マーリー政権の広告塔のような存在になっていたため、対立するJLPの支持者から銃撃されて怪我を負うのだ。
 マンリー政権はすでに末期症状だった。そして、八〇年の総選挙でPNPは大敗した。
 ボブ・マーリーはこの年秋、米国ツアーの最中にガン性脳腫瘍で倒れ、以後、活動は全面に停止する。翌八一年五月、死去。享年三六歳。夭折である。

 ボブ・マーリーがガンの宣告を受けたのは一九七七年、ヨーロッパ・ツアー中、ロンドンでの ことだった。それから療養生活を送りながらも、翌七八年四月にはPNPとJLPの政争で混沌とするキングストンで両党首を招いた「平和コンサート」と開催する。彼が音楽を通しておこなった最後の雄弁な政治的行動であった。
「自分を革命家だと思っている。誰の助けも借りず買収もされず音楽を武器に単身、戦っている」と、ボブ・マーリーは語った。
 「革命家」が孤高の道を歩むとき、それは非業の死への近道である。
 ボブのレゲェをグローバル言語による英語歌手という見方は止めた方がいい。むしろ、カナダ、米国を除く南北アメリカの第三世界、発展途上国から出た“民衆の声”、その代弁者として見なすべきだろう。

 ボブ・マーリーのレゲェに近いのは英国のポリスや、日本のレゲェ・ミュージャンではありえない。
 チリでピノチェットの軍事クーデターの最中、ギターを持つ手を銃底でうち砕かれ暗殺されたヌエバ・カンシンオン(新しい歌)運動の担い手であった歌手ビクトル・ハラ、アルゼンチンの軍政の不正に対し、“母なる声”として歌うことを止めなかったメルセデス・ソーサ、ニカラグアのソモサ独裁 政権から追放された“ギターを抱えたゲリラ”カルロス・メヒア・ゴドイとその一派、メキシコで長年に渡って権力と戦ってきたオスカル・チャベスとその一党、米国ヒスパニック社会の若者たちに民族的アイディンティテイの覚醒を促し、米国にあってスペイン語で歌いつづけ夭折し“テハーノ(メキシコ系テキサス人)の女王”セレーナ……南北アメリカにはボブ・マーリーの戦列に連なる音楽の闘士、社会的不正を指弾するヒーローたちに事欠かない。その系譜に重ねるとき彼ボブ・マーリーの位置は鮮明化する。  (つづく)

カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №4 「キューバにおけるレゲェ」

カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №4

昨年(2012年)一〇月二二日、キューバの首都ハバナで、ボブ・マーリー没後三〇周年を記念するコンサートが行われた。
 ボブ・マーリーの業績がキューバで栄誉が与えられるのははじめてだ。この国で英語圏の歌手が顕彰された事例として筆者は米国の黒人歌手ナット・キング・コールしか知らない。例外というなら、十年ほど前にジョン・レノンの銅像がハバナ旧市街の一角に建てられているが、それぐらいなものだ。
 コンサートに先駆けて記念アルバムも制作された(ちなみにビートルズに関してキューバでもトリビュー・アルバムが制作されている)。ボブ・マーリーを顕彰するアルバムはロベルト・ガルシアという作曲家が「ノーウーマン・ノークライ」「コンクリート・ジャングル」「アイ・ショット・ ザ・シェリフ」などをソン、ルンバ、ヨルバ、チャチャチャなどキューバ・テイストで編曲して構成したものだ。キューバの音楽家は、ボブの歌を古典的なカリブの伝統音楽の形式に置き換えることによって、彼の汎カリブ性を明らかにしたのだ。

 冷戦時代末期、それはボブ・マーリーの最盛期であった。その時代、“ベルリンの壁”は世界中に現存していた。キューバでは、南の隣国でありながらレゲェはリアルタイムでは聴かれなかった。しかし、“壁”が消えた今日、レゲェを母胎とするレゲトンはニューヨークのヒスパニック社会とどうようにハバナの若者のあいだですっかり定着し、周辺国の旬なレゲトンもリアルタイムで聴かれ、自分たちも発信している。レゲトンはスペイン語圏におけるヒップホ ップといえるが、ラテンアメリカでは先住民社会の若者まで、アイディンティティの誇示、先住民権限の拡大を目指すメッセージ性を蓄えながら増殖している。それはボブのレゲェの直系であろう。

 このレゲトンの創始者のひとりといわれているのがパナマのアフロ系歌手エル・ヘネラルだが、彼の祖父母世代は、米国がパナマに運河を建設する際、ジャマイカを中心とする西インド諸島から大量に募られたアフロ系労働者であった。その移民労働者はそれぞれの故地の伝統音楽を内に抱えて運河建設の現場にやってきて寝起きをともにした。彼らは過酷な労働の合間、あるいは酒場の気晴らしで歌い踊っただろう。そうした歌がパナマにもともとあったアフロ系音楽としてのバジェナードやクンビアに融合して いった。そんな土壌を背景にエル・ヘネラルという才能が出てきた。

 キューバではジャマイカから旧宗主国のイギリスに出て、そこから世界制覇されたレゲェには冷ややかだった。もっともレゲェを導入しなくてもキューバには豊潤な音楽世界があったともいえるが、カリブの周辺国、たとえばハイチやドミニカ共和国、あるいはプエルトリコの音楽は積極的に取り込んできた歴史もあるし、革命前は、一衣帯水のフロリダ半島から米国ポップスをリアルタイムで消費してきた国である。
 革命後、映画『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』’ヴィム・ヴぇンダース監督)で知られるように、キャバレーや盛り場の消費音楽としての大衆歌謡は冷遇され、革命時代の音楽としてヌエバ・カンシオン(新しい歌)の運動が起きた。ボリビアで死んだチェ・ゲバラを称える歌が 、その運動のなかで書かれた。
 ゲバラがニューヨークの国連総会で戦闘服姿で壇上に立ち、舌鋒鋭く新植民地主義、帝国主義を第三世界の立場から指弾した演説は一八六四年、ボブ・マーリーがジャマイカでスターとなった時期だ。しかし、レゲェではなくスカのリズムだ。
 その六四年、録音当時15歳(年齢には異説あり)だったジャマイカ人ミリー・スモールが英国ロンドンで吹き込んだ「マイ・ボーイ・ロリポップ」がスカと認識されることなくヒットした。スカによる最初のグローバルな成功作だ。日本でもかなり売れた。全世界での売り上げた700万枚を超えたといわれる。
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 この「マイ・ボーイ・ロルポップ」のヒットはその後のレゲェの歴史に大きく関わってゆく。何故なら、創設間もないアイランド・レコードの経営に安定をもたらし、ジャマイカのアーティストを積極的に活動の場を与え、1973年以降、遺作までボブー・マーリーのアルバムが制作・販売することになる。
 ジャマイカの若いミュージシャンたちはミリー・スモールの成功で、自分たちの音楽が世界に通用することを知り、英語の汎用性をも見直されたのだ。スカのリズムは「バナナ・ボート」のメントのように通用することを認識したのだ。

 レゲェにもビートルズにも距離をおいてきたキューバではあったが、チェ・ゲバラは中欧チェコの滞在先のホテルでビートルズのレコードを聴いている。
 アフリ カの反植民地闘争に加担するも、同地の“革命兵士”に幻滅し疲労したゲバラはキューバに帰還する前、プラハに数ヶ月滞在中、ビートルズのレコードに耳を傾けている。ビートルズの作品のなかにあって唯一、レゲェの影響を受けているといわれる「オブラディ、オブラダ」が録音される二年前の話で、ボブ・マーリーが「スタジオ・ワン」で精力的に録音を遺した年だ。時代の英雄たちは時空を超えて錯綜する。
 キューバがレゲェに理解を示しながらも一定の距離をおかざる得なかったのは、ボブ・マーリーに顕著に体現されるラスタファリズムの属性としてのドレッドヘアーや、ときにドラッグも使うことへの忌避感であっただろう。しかし、アフロ系宗教としてのラスタファリズムそのものへの忌避感は 少なかったはずだ。なぜなら革命政府はハイチのヴードゥー教の系譜につらなるサンテリアの信仰を黙認していたし、西アフリカを起源とするヨルバ系文化をキューバの多様性を誇るものと見なしていた。ラスタファリズムの根っこにあるアフリカ回帰願望は、出自をアフリカの地に求めることから生じるものだが、これはヴードゥー教、サンテリア、ブラジルのカンドブレなどアメリカ地域に暮らすアフロ系市民たちの民族信仰の心性に通底するものだ。 (つづく)
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上野清士

Author:上野清士
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