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作曲家マスカーニ、1945年8月の死

作曲家マスカーニ、1945年8月の死

 映画『第三の男』再考のなかで新ウィーン楽派の作曲家アントン・ウェーベルンの不条理な死について触れた。1945年9月、戦火で荒廃したウィーンの夜に起きた悲劇であったが、その1ヶ月前、ローマ市街の片隅で廃残の身を憂いて自ら死期を早めた作曲家がいたことを思い出した。
 19世紀後半、イタリア歌劇史に新たな傑作を加えたピエトロ・マスカーニの憔悴の死であった。ムッソリーニを独裁者の椅子から引きづり降ろしたイタリア民衆は、そのファシスト政権の擁護者たち、その利権にありついた者たち、不当な地位に上り詰めた者たちを容赦しなかった。
マスカニーニ
 イタリア音楽界にあってスカラ座の監督に就任し、そこで指揮を執るのは最高の栄誉だ。マスカーニはムッソリーニに取り入って、その座を簒奪しようとした。しかし、時代はトスカニーニの時代である。ムッソリーニといえど、それはできない相談だった。マスカーニのそうした行動は友としてのトスカニーニを失い。楽界で孤立を深めるも人気歌劇『カヴァレリア・ルスカティカーナ』の作曲家、そして指揮者として、名声は維持され収入も大きかった。しかし、音楽家マスカーニにとっては、じっさいむなしいものであったはずだ。
 27歳の若さにして『カヴァレリア~』を書き、作曲家の一生を決定的に縛り付けることとなる成功を収める。その後、15曲の歌劇の他、多くの作品を世に送り出すも、聴衆は『カヴァレリア~』しか求めないというジレンマのなかで過ごしてゆくことになる。音楽家としての焦燥が旧友トスカニーニの毅然とした態度をみらなうことなく、ムッソリーニにへつらおうとしたのだろう。
 
 時代の狂熱は民衆から冷静さを奪う。マスカーニに重大な犯罪行為があったわけではない。しかし、1945年という年は大戦で大きな人的被害を体験した国では戦勝国、敗戦国を問わず、多くの罪なき人たちが戦争を生き延びた後に犠牲となった。イタリアが連合軍に無条件降伏した後、マスカーニは全財産を奪われた。70歳を超えた老音楽家にとって、それは死刑に等しいいものだった。
 27歳の歌劇『カヴァレリア~』に正直、芸術的感銘度は低い。あの有名な「間奏曲」にしても、美しい哀切の旋律として後世に遺贈されてゆくだろうが、19世紀後期の音楽としてみればすこぶる伝統的な作法で書かれたもので、音楽史に特筆されるような作品でもない。しかし、美しい、確かに美しい。
 政治の激変のなかで財産を失う前、指揮者として最後にタクトを振ったのも『カヴァレリア~』であったというマスカーニの晩年。名声に包まれつつ、芸術家のプライドは依然として満たされない生活。ファシズムの実相を検証することなく接近してしまったマスカーニの心の闇を思う。自ら振った最後の「間奏曲」、それは若い日の恋の甘美、哀切、思いだけでは恋する人の心を動かせない焦燥、そんな沈痛な思いも旋律の揺らぎとなり、抑制と制御の旋律となって聴くものの胸をときにしめつける。出口を求めてさまようような恋の旋律である。若い芸術家にしか書けない真実がそこにある。名声を得た後では、技術として書くことができるとしても、名もなき青春の悲痛の真実は消える。天才なら書けることも、マスカーニにはそれはもうできない。無名であった当事のマスカーニだから書けた旋律であった。
 その美しい「間奏曲」にイタリアの詩人マンツォーニが詩篇を重ねる。それが『マスカーニのアヴェ・マリア』。孤老の作曲家の慰めもまた「間奏曲」、その一篇であったように思う。
 死から11年後、マスカーニの名誉は回復されるが、それは彼の伝記の余禄にすぎない。写真は、『カヴァレリア~』成功に満腔の自信を抱いていた若き日の肖像である。
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米国、“赤狩り”時代に報道の自由を守り抜いた男を描く映画『グッドナイト&グッドラック』

米国、“赤狩り”時代に報道の自由を守り抜いた男を描く映画『グッドナイト&グッドラック』
  ~ジョージ・クルーニー出演・脚本・監督 2005
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 先日、7月公開映画『トランボ』について書いているとき、2005年の旧作『グッドナイト&グッドラック』を思い出したので忘れないうちに、この機会を利用して書いておこうと思った。
 1950年代、冷戦下の米国で起きた狂気じみたマッカーシズム。人権弾圧、表現活動への圧迫が、愛国主義の名の下に「正義」として“赤狩り”が行なわれた。そのなかで敢然と、醒めた目で闘った一人が映画『ローマの休日』など、いまではハリウッドの古典となった幾多の名作のシナリオを書いたダルトン・トランボであり、映画『グッドナイト&グッドラック』の主人公エド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)であった。
 トランボに比べるとマローの日本での知名度はほとんどない。CBSテレビの看板ニュースキャスターとして、人気番組『シー・イット・ナウ』をもっていたが、現在のインターネット時代のようにリアルタイムで米国のTV番組を観ることは不可能だったから、知られていないのは当然だ。米国では“放送ジャーナリズムの父”として名を遺す才能であったとしても。
 ジョージ・クルーニーが長年、温めていたテーマであったらしく、脚本を書き、出演もし監督も兼ねた。クルー二ーは、マローの不退転の立場をサポートするディレクター役で登場する。『トランボ』では描かれなかったマッカーシー上院議員が本作ではニュースフィルムのなかでしばしば登場する。それらはみなモノクローム映像ということもあってか、本作もそうした記録フィルムとの同化、同時代性の雰囲気を醸し出すためモノクロームとなっている。マッカーシー議員が映画のCBSスタジオのTVに映し出され、リアルタイムの物語として描かれる演出はクルーニーのしたたかな才能だろう。
 演出も抑え目で、マローを英雄的に描くことなどしていないし、当時のルーチングワークのなかで淡々とことが運ばれてゆく中で、陰に日向に、当時の狂信的な世論が、マローと、その仕事仲間を圧迫してゆく沈うつな雰囲気が描かれる。
 マローが淡々と読み上げる原稿は、それ自体、マッカーシー議員に対する批判であり、抵抗であり、明日には自分の首も飛ぶかもしれないという状況のなかでのヒロイックな行為でもある。しかし、映画はそのあたり声高く描かない。番組の終り、マローはいつでも素っ気なく、「グッドナイト&グッドラック」と簡単な挨拶を視聴者に送っていた。それが本作タイトルの由来だ。

 平常心で権力悪と闘う・・・・そういうジャーナリスト、そんなジャーナリストを支えるスタッフ、マスコミ企業の存在はいつの時代は必要だろう。TV界におけるニュースキャスターの影響力は米国では、日本と比較にならないぐらい大きい。それは、こうしたマローたち先駆者たちが開拓した職能的ブランドの高さゆえだろう。クルーニーの映画のなかではもっとも地味な映画だと思うが、『トランボ』の傍系資料として観て欲しい作品だ。

作曲家ヴェーベルンの横死と映画『第三の男』

作曲家ヴェーベルンの横死と映画『第三の男』
第三の男

 今更、1940年代の映画『第三の男』、ほぼ映画史において不動の位置を占める作品について書いても、いったいどれくらいの人が関心をもつのか心もとないが、再見すると言いたいことが出てくる。
 サスペンス映画の名作ともいわれるが、それには異論がある。サスペンス様式にのって描かれた人間存在の不可思議を光と影のコントラスのなかで描いた作品というのが正しい観方だろう。
 撮影は1949年、戦塵いまだくすぶっているような古都ウィーン。物語の設定は終戦からさほど月日をおいていない連合国分割支配下。ヒトラー・ドイツと運命をともにしたウィーン市民の生活は敗戦直後の日本の都市生活者の苦難に匹敵しただろう。ただし、当時の中東欧諸国は冷酷な国際政治に翻弄され、心ならずソ連の横暴を受け入れる。ソ連が、日本占領に関与しなかったのは不幸中の幸いであった。

 映画は、分割統治下という権力の中枢を失ったウィーンの無法状況、混乱に乗じて蔓延る犯罪を指弾する、という側面がある。当時、貴重品であったペニシリンを不法に仕入れ、水で薄めて売りさばき暴利をむさぼっていた男ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)の悪徳が、かつて親友であった作家ホリー・マーチンス(ジョゼフ・コットン)の目で暴かれていくという筋書きだ。この二人のあいだに、偽造パスポートでウィーンに寄留している美女アンナ(アリダ・ヴァリ)が立つ。ハリーの犯罪は、粗悪なペニシリンのために死ぬ者、生涯、病床に横たわることになる多くの犠牲者を出した。ハリーはそれを知ってなお、罪を犯すことを止めなかった。しかし、そうしたハリーの心の闇をどれだけ映画は抉っているかといえば、それはまったく皮相的だ。それだけみるなら駄作である。
 戦争によって価値観が転倒し、価値紊乱者になったものは確かに少なくない。生命が軽んじられる時代をその真っ只中で生きた人間に起きる病いでもある。映画ではなにも暗示されていないが(その点でも本作は凡庸である)、ハリーは時代の病者だろう。そんな“極悪人”の男を愛しているアンナに、マーチンスも心を奪われてしまう。最後のアノ墓地のシーン、映画史上でも記録的な長まわしは、死んだハリーへのアンナの思いの強さ、そんなアンナをまだ諦めきれないマーチンスの片思いを雄弁な無言劇として象徴する。理屈では動けない人間精神の不可思議さがウィーンの冬色のなかに描かれる。
 ハリーは自分の犯罪を隠すのでなく、自分のなかに宿ってしまったニヒリズムを、「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、結局はミケランジェロ、ダヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」と吐き出す。これはシナリオになかった台詞でオーソン・ウェルズの撮影現場での提案であったという。この台詞が、モノクローム映画のお手本といわれた卓抜なライティングで作り出された光と影の極美に生きた。若くして、『第三の男』以上の秀作『市民ケーン』を監督・主演した後の才能が語る台詞にふさわしい。オーソン・ウェルズは『第三の男』への主演以来を当初、断ったという。シナリオを一読した彼が、行間に深みのないドラマにやる気を覚えなかったと思えるが、結果として主演して映画に深さをもたらした。

 墓地の回廊でフェールドアウトした映画のその後・・・マーチンスは米国に帰国して、大衆娯楽小説を書きつづけて凡庸に暮しただろう。しかし、偽造パスポートで生活するアンナの行く道は平坦ではありえない。すでに、中東欧諸国の政治はソ連支配の基盤づくりが着々と進み、政治的粛正がはじまっていた。独裁体制をきらう人たちは越境をはじめていた。アンナはハンガリーからの出てきた難民らしい、と映画でも暗示される。映画の批評ではそのあたりはまったく無視するが、意識的な亡命者が権力の空白地帯の大都市の闇に隠れようとするのは生き延びる知恵だ。そんな、よるべきなき女がハリーと終戦のどさくさで出逢った。それも説明されないが、そこにひとつの詩があっただろう。
 
 映画『第三の男』を有名にした要素にアントン・カラスのツィターがあった。親しみやすいメロディと心地よい響きは映画から自立してヒットし、いまでは懐かしの映画音楽の定番となった。その音楽については少し書いておきたい。
 占領軍から流れる闇物資で稼ぐやくざ稼業は日本でも行なわれた。医薬品はどこでも高値で闇取引された。ハリーはそんな闇取引の主導的役割をになっていた確信犯であったから、連合軍各国の憲兵たちに追及されていた。
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 1945年9月15日夜、戦後音楽におおきな影響を与えた新ウィーン楽派のアントン・ヴェーベルンが闇取引を取り締まるために出動した米兵によって射殺されてしまう。たまさか警戒地域に住んでいたウェーベルが、一服しようと家の玄関前でタバコに火を点けた、その火が闇取り引きの合図と誤解され標的となった。まったくの犬死だ。
 ウェーベルンはナチズムによって「退廃音楽」と烙印を捺され、ナチ占領下のオーストリアにあって、出版社の校閲などしてやっと食いつないでいた。そんな生活から解放されると、作曲家に笑顔を戻りかけた 、その直後に殺されたのだ。
 『第三の男』が撮影された頃、ウェーベルンの死はウィーンでは周知の事実であったから、もし監督のキャロル・リードに現代音楽に対する理解があれば、アントン・カラスのチターより、ウェーベルンの弦楽曲を採用したと思う。廃墟の闇にはチターの爪弾きより、はるかに効果的であったし、より時代を象徴させることはできたに違いない。そのカラスの家系はハンガリーにある。当時、ウィーンの居酒屋の演奏家として活動しているときにキャロル・リード監督に抜擢されたのだ。カラスではすでにウィーンで妻子を養っている生活人としてオーストリア国籍をもっていたわけだが、ハプスブルグ家の領土ではハンガリーは引き裂かれるようにソ連圏に呑み込まれた。アンナとカラスの位置は対比的であって、その明度がカラスのツィターを軽やかにしている。でも、この映画の悲劇にカラスのツィターはふさわしかったか、筆者ははなはだ疑問をおぼえる。
 *1986年、ドイツで誤殺シーンからはじまる映画『アントン・ヴェーベルンの死』が制作されていることを追記しておきた。

中国人観光客の“爆買”から質への転換

中国人観光客の“爆買”から質への転換

 中国人観光客のいわゆる“爆買”は続いているようだが、耐久性のある小物家電の購入はさすがに一段落したようだ。それでも薬品、化粧品などの消費は相変わらず旺盛だ。

 先月、私用で福岡、佐賀へ行ってきた。
 博多で逗留したホテルのエレベーターに乗合わすのは中国人と韓国人ばかり。天神、大宰府、九州国立博物館でも中国人観客客が目立った。
 陶芸が好きなので佐賀に足を伸ばした。唐津、伊万里焼の本場で観光地でもある。さすがにここまで来ると喧(かまびす)しい中国人観光客ご一行の面々は少ない。けれど、名品の展示も兼ねた物産センターなどに行くと熱心に手にとり吟味する中国人は少なくない。彼らもよく知っていて唐津では古唐津焼の伝統をつぐ十四代の中里太郎右衛門の作品に食い入るように玩味していたりする。

 伊万里焼の反映には中国の影響がある。特にビジネスということでは17世紀、明王朝の滅亡、あらたな清朝は初期、商船の近海の航行を禁止、中国と欧州諸国との貿易は途絶した。陶磁器を当時、生産できなかった欧州では中国磁器は高値で取引きされ利幅も大きかった。当時の東インド会社にとって香辛料などならぶ重要な取り扱い品目だったから、中国の政変は痛かった。
 そして、中国磁器に替わって目をつけたのが北九州の諸窯で生産されている磁器であった。伊万里の窯に欧州から大量注文が入った。華麗ないわゆる柿右衛門様式はそうした時代の伊万里の繁栄を背景に登場する。

 大きな政変があるたびに芸術活動が中断、名品が国外に流出するのは世のならい。
 最近、中国人が日本で“爆買”しているリストに書画骨董がある。アヘン戦争、日清戦争、辛亥革命、日中戦争、そして毛沢東指導の文化大革命時代まで19~20世紀は中国文物のおびただしい流出の歴史であった。いま、それを懸命に買い戻している印象がある。絶対量が少ないから家電のようには目立たないが一点の金額が高いから日本の美術市場はけっこう賑わっている。
 さらにヤフーや楽天がインターネットで展開しているオークションでは日本に拠点を構えた日本語に堪能な中国人が、本国の顧客から要請を受けてネットでめぼしい書画骨董、希少な印刷物などを買いあさっている。これはなかなか表に出ないが、東京・首都圏を中心に全国主要都市で活動している。
 戦時中、日本で刊行された中国戦線における戦記モノなども落札されている。中国の歴史家などはそうやって資料を集めているのかも知れない。
 現在の中国の印刷技術は日本と遜色ないが、鄧小平による経済開放以後しばらくはひどいものだった。だから美術品に対する観賞眼を肥やすためにも日本の美術書は欠かせないアンテムであるようだ。“爆買”は銀座や秋葉原ばかりが舞台ではない。ネットの世界では深く静かに常態になっている。

水谷川優子と旧ソ連邦圏の現代チェロ曲     ~つづき「水谷川優子の「鏡の中の鏡」

水谷川優子と旧ソ連邦圏の現代チェロ曲
    ~つづき「水谷川優子の「鏡の中の鏡」

 水谷川優子さんの名演「鏡の中の鏡」について若い友人に話をしたら、すぐ「ミヒャエル・エンデ」と関係あるのと返された。なるほど、ドイツの作家にして詩人エンデの作品のほうが日本でははるかに有名であるのは仕方がない。
 エンデがそれを発表したのは1984年で、アルヴォ・ベルトのチェロ曲のそれが書かれたのは1978年だが西側にその名曲の存在がしられるようになったのは1984年に最初の作品集がアルバムになってからで、まったく無関係である。
 多作家ベルトの作品が録音されたのは、50歳を迎えてからで、その発見もソ連の音楽界ではなく西ドイツののコンテポラリー・ジャズに重点をおいたECMであった。
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 水谷川さんのリサイタルではベルトの作品はもう一曲、前半の冒頭に演奏された「フラトレス」があった。旧約聖書の詩篇のひとつに取材した小曲で、「鏡の中の鏡」の前年に書かれている。クレムリンの支配下にあったエストニアにあって、宗教への傾斜を強めた作曲家が官製楽壇から無視されるのは当然だ。ベルトは、西欧音楽の基底をなす古典宗教曲へ回帰してみる必要があると意識的に考えたとき、それはクレムリンの文化政策を否定することでもあったわけだ。
 そうしたベルトの作品を前と後ろにはさんで演奏されたのが起伏の激しいドラマチックなアルフレード・シュニトケの作品「チェロソナタ第1番」。これも初聴の曲でとても読解への糸口に立てない難解さに満ちた作品で、水谷川さんにとってみれば、チェロの現代話法の可能性を色彩豊かに象徴する作品として選曲したものかも知れない。
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このアルフレード・シュニトケ(1934~1998)という作曲家もソ連邦下の西部地域に位置するヴォルガ・ドイツ人自治共和国にユダヤ系ドイツ人として生をうけた。1961年にモスクワ音楽院を卒業、同校で講師を務めるも、数年で辞め、映画音楽などを書いて糊口をしのいでいたらしい。ソ連下の作曲家にとって、この映画音楽を関わると言うことは、とても大きな意味をもつ。
 ロシア革命期、爆発的に革命のBGMとなったロシア・アヴァンギャルドの芸術革命であったが、スターリン独裁の開始とともに逼塞する。多くの芸術家が方向転換するか、政治犯として処刑されるか、シベリア送りとなるか、あるいは亡命するかという弾圧の季節を迎える。その時、少なくない作曲家が自分の良心にしたがって、スターリンの文化政策を甘受する道を断つけれど、映画という表現手段の融合のなかで音楽を書き、効果的音響のなかに実験性を保持したのだった。シュニトケも一時、そうしていた。
 ソ連時代の名匠タルコフスキー監督の映画における音楽はそうした作曲家たちの働きがあったのだ。
 現在、バルト三国ばかりでなく、旧ソ連圏で作品を遺した作曲家の存在が、その豊穣な作品とともにロシアばかりでなく、若い演奏家の手によって蘇生している。
 先年、スペインの若きトランペット奏者のアルバムの解説を書いたとき、数曲、まったく存在を知らなかった小品があって、それらがみな旧ソ連邦に生きた作曲家のものであった。そこで勉強させられたのだが、今後、多くの作品がスラブの大地から発見されてゆくだろういう嬉しい予感が大いにある。水谷川さんの世代がそのレパートリーを拡張していくとき、スラブの大地に鍬を入れてゆくのだろう。

水谷川優子の「鏡の中の鏡」

水谷川優子の「鏡の中の鏡」
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 日本とドイツに拠点をおいて活動するいま充実の季節を迎えているチェリスト水谷川優子さん。昨夜、私にとって3度目か4度目になるリサイタルを聴く。プログラムは、「バッハ ~響きの鏡像」というもので、前半をバッハの無伴奏チェロ組曲第2、第3番と、現在、イタリアで活動をつづける日本人作曲家・杉山洋一さんの新作「ベルリンのコラール『目覚めよろ呼ぶ声す」によるチェロ独奏のための」であった。しかし、昨夜は私にとっては後半の3曲にいたく感じ入ってしまった。特に最後の曲アルヴォ・ベルト「鏡の中の鏡」を。曲の途中で、このまま永遠にリフレインして欲しい、しばらく終わって欲しくない、この音のなかで瞑想していたいと思わせる演奏だった。たぶん、これを聴かなければ、これを書いてやしない。
 バルト三国のひとつエストニア共和国の作曲家アルヴォ・ベルトが1978年に発表した10分に満たない小曲だが、簡素ゆえの清涼感のただよい、それは尊厳なただずまいまである。ピアノの分散和音の流れにたゆたうようにチェロの弦が行きつ戻りつしながら限定した音数のなかで静寂を誘う。それは敬虔な宗教曲の味わいすらあった。フォーレの声楽曲にこれに似た感想をもった作品がったことなど思いだしながら、水谷川さんの弦に誘われた。水谷川さん自身、とても慈しんで弾いている、と思った。そんな掌の温かさに満ちた演奏だったのだ。
 場所は東京文化会館の小ホールである。長年の共演者・黒田亜樹さんのピアノとの呼吸もピッタリだったし、ホールの大きさ残響速度も見事に融和していたのだろう。名演だと思った。
 作曲家はこの作品を、いまだ母国がソ連支配下にあった時代にこれを書いている。多くの宗教曲を書いている現代作曲家だ。それゆえ、作曲家は当時のソ連楽壇の外縁での活動しかゆるされなかった。したがって、当時の国営レーベル・メロディメカに録音をゆるされず、西側にしられることなく“地方”楽壇で、その個性的な世界を育んでいた。多作家であった。
 現在、この「鏡の中の鏡」を前走者としてアルヴォ・ベルトの作品が少しづつだが、世界にしられるようになっている。
 昨夜、「鏡の中の鏡」から私のような印象をもった聴衆は多かったのではあるまいか? 
 

映画「トランボ」 ジェイ・ローチ監督

映画「トランボ」 ジェイ・ローチ監督
            *7月下旬、公開。
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 筆者にとってトランボことダルトン・トランボの名は、彼が1939年に発表した小説「ジョニーは銃を取った」の原作者であり、1971年、ベトナム戦争の最中に唯一の監督作品となった『ジョニーは戦場へ行った』(邦題)を撮ったハリウッドの良心として記憶される。
 四肢はおろか姓名すら一個の爆弾で失った若き負傷兵の物語は、第二次大戦直前に準備され、米国政府が当時、志願兵募集のキャッチフレーズとしていた「ジョニーよ銃を取れ」に対する反論として書かれ刊行された。そのためトランボは当局のブラックリストに載せられ、小説も発禁にされた。トランボの名作は、ドイツの反戦文学の古典的名作「西部戦線異常なし」の米国版といってよい。
 そうしたトランボの政治的姿勢は、大戦直後のいわゆる「赤狩り」のなかで筆頭に指弾されることになる。そして不当に逮捕され、禁固刑の実刑を受ける。釈放後も、その思想信条をいささかも曲げず、ジョン・ウェインらに代表される右派と対峙、ハリウッドの良心として筋を通した才能だ。

 むろん本人は米国の民主主義を守護する愛国者として行動しているのだが、「反米主義者」との汚名をあびせられ、仕事も奪われる。しかし、食うために働かなければならない、才能を安売りしてB級映画の脚本も手がける時代もあったし、匿名で多くの名作の原案・脚本を書きつづけた。ちなみにその作品名をあげると、オードリー・ヘップバーン主演『ローマの休日』、カーク・ダグラス主演『スパルタカス』他、『脱獄』『パピヨン』など数多くの名作、ヒット作が並ぶ。
 そんな名脚本家の後半生を描いたのが本作だ。必然、多くの著名人が登場することになる。いや、そうした著名人を描かないと映画にならない。多くの人の「名誉」に関わる題材を扱うということで、ハリウッドの長い歴史のなかでも重要な挿話であったトランボの物語を映画化するのは至難のことと思われてきた。トランボ死後、40年の歳月を待たなければならなかったのは、そうした事情があると思う。

 大戦後の熱い「冷戦」下で起きた「赤狩り」、それはデマゴギーの旗振り役マッカーシー上院議員が煽動したことでマッカーシズムとして知られるが、本作では、そのマッカーシ議員は描かれない。米国を追放されたチャップリンのことも取り上げられていない。しかし、象徴的にソ連のスパイとして告発され、無実の罪で処刑された科学者ローゼンバーク夫妻のことはニュースとして映画として登場する。
 ともかく「赤狩り」の狂熱によって不当に命を奪われた人、職を奪われた人、家族の崩壊、一家離散、亡命などさまざまな悲劇が繰り返された。この渦中にあった著名人の名をあげてゆくだけで数ページになる。
 映画は、この政治的狂熱をトランボという稀有な才能と、その近しい友人、仕事仲間に収斂させて描いた映画だ。その手法はよく理解できる。しかし、トランボの不退転の強さ、その硬軟取り混ぜての抵抗精神を、主演のブライアン・クランストンは表現できたかというと疑問符をつけねばならない。“軟”の傾きが大きいように思ったからだ。それは監督の意図でもあっただろうが、映画に登場し、それなりの役割を担うエドワード・G・ロビンソン役のマイケル・スタールバーク、ジョン・ウェイン役のデヴィッド・ジェームズ・エリオットまでが軽き存在にみえてしまう。
 思想信条の自由という民主主義の根幹に関わる問題をトランボの生き様に托して描こうという前提にあったはずだろう。強いて深刻がるそぶりはないほうがよいし、わざとらしくあざとくもなるだろう。しかし、こういう作劇ではないだろうと思わせる軽さに私は終始、違和感を抱きながらみていた。

 時代のおおきなうねりのなかで転がってしまう、せき止めようのない政治的な粗暴は何時の時代、どこの国でも起こりえる。いま、移民排斥をレイシズムの語調で訴え、特定民族を忌避する大統領候補を本選に送り出した米国から、こうした映画が送られてきたことはすこぶる暗示的ではある。 

フランス在住のトルコ女性監督のデビュー映画『素足の季節』

イスラムの負の部分の強調が気になる映画『素足の季節』  *6月11日、東京地区公開
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 イスラム教徒の国で(旧ソ連邦からの独立した中央アジアのイスラム諸国を除いて)、民族英雄ムスタファ・ケマルの革命以来、もっとも世俗化が進んだといわれるトルコの複雑な現況を5人の少女の目から見つめた映画だ。5人姉妹たちの青春の“光と影”にトルコ独特の宗教的世俗と因習、自由と桎梏が丁重に描かれた苦い“若草物語”だ。

 先年、トルコの宗教都市コンヤから来日したイスラム神秘主義スーフィズム教団による旋回舞踊、舞踊そのものが宗教的行為となっているものだが、同心円で旋回しながら神との対話、融合への体感、愉悦する祈りの儀式をみたことがある。トルコ近代化の父ケマルは、政治から宗教性を排除したが、ソ連政府のように弾圧したわけではない。近年、経済問題や周辺国の騒乱などの影響を受ける形でイスラム原理主義の台頭がトルコでも起こった。
 しかし、EU入りを目指していることでも知られるように西欧化への意思は国是のようなところにある。国土の大半がアジアにありながらEU入りを目指し、サッカーW杯ではEU枠で予選を戦っている。

 映画の舞台はトルコが欧州に開く国際都市イスタンブールから1000キロ東方、つまりアジア部に深く入り込んだ黒海沿岸の村。5人姉妹はみな女子中高校(?)に通い青春を謳歌していた。映画はそんな彼女たちが放課後、海に出て制服のまま男たちと放埓に戯れる。まぁ欧米映画ではよくあるシーンだ。その光輝く夏の午後からはじまる。
 少女たちの両親は理由は明らかにされないが亡くなっていて、その村の叔父一家に引き取られていた。その叔父の知り合いの中年女性が、少女たちの沿岸での「不道徳」な振る舞いをチクる。叔父は、「売春婦の真似はゆるせない」と激怒、少女たちを家に軟禁してしまう。ハリウッド映画がいきなりタリバン支配下のアフガニスタン女性を描いたようなものになる。学業は中断され、衣服の類いも一方的に制限される。
 軟禁状態になってから、姉妹の個性が出てくる。イスラム女性のしきたりを、それぞれの熱度で受け入れて姉妹たち。しかし、13歳の末娘ラーレは、宗教・思想の言葉ではなく、感覚的にそんな姉妹たちの選択に批判と抵抗を試みる。そして、その結論として家出、学校時代の恩師が住むイスタンブールで単身、逃避してゆく。そう、映画はこのラーレの視点で語られてゆく。

 監督のデニズ・ガムゼ・エルギュヴェンはトルコで生まれ、フランスに留学して映画制作を学んだ才能だ。本作が長編デビュー作。おそらく、少女ラーレに託して、監督はトルコの女性たちに「自由」、自我の獲得を願ったに違いない。これ一作でも残したいというつよい思いが伝わってくる一方、表面的イスラムの負の部分が強調されているようにも思える。冒頭の光が、いきなり暗転してゆく様にも作り物めいている。まず結論ありきのところで逆算的に語っているシナリオだ。否定的に描くのは監督の批評だから否定はしない。しかし、現在の私には、こうしか描けないという思いが伝わってこない。その辺りが脆弱だと思う。
 本作がカンヌ映画祭で賞賛されるなど非イスラム諸国の大小の映画祭での評価は高いが、イスラム諸国では国民の約半数が世俗化したイスラム教徒の国ボスニア・ヘルチェゴビナの映画祭での評価ぐらいしか見当たらない。この辺りはきちんとみていかねばならないと思う。日本の批評人がカンヌ辺りの評価の後追いする必要はまったくないのだから。

「蕨は私にとってサッカーの聖地なのです」 元なでしこジャパン監督・佐々木則夫さん

「蕨は私にとってサッカーの聖地なのです」
      *佐々木則夫さんが、女子サッカー日本代表の監督から退任されたのはもう旧聞に属するが、2013年1月に下記のような原稿を書いていた。偶然、“発掘”したので消える前に掲載。
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 「蕨は私にとってサッカーの聖地です」と言ったのは、なでしこジャパンの監督、佐々木則夫氏である。昨12月、蕨市主催で佐々木氏の講演会が開かれた。その冒頭、話の枕として語られたのだ。
 佐々木氏の父親は転勤族だったらしく中学生のときに埼玉に越してきて地元の学校に転入した。
「それまでスポーツといえば野球しか頭になかった。蕨でサッカーに出会い、たちまちトリコになって熱中した。それがわたしのサッカー人生のはじまりです」
 むろん、蕨が“聖地”なわけではない。偶然の出会いが重なったというだけだ。しかし、偶然を活かしたのは佐々木氏の才覚であろうし努力だろう。
「なでしこ」をW杯の優勝へ導いた才能は、すぐれて佐々木氏の聡明な指導力であり、それによくこたえた選手たちの努力だろう。佐々木氏はけっして自己称賛はせず、聴衆の蕨市民へのリップサービスとして“聖地”といっただけかも知れない。そういう謙虚な人柄はW杯以降、テレビなどを通じてわれわれの良く知るところだ。
 この講演会を長女に誘われて行ったのだ。その講演はとてもこなれたもので聴衆を飽きさせず淀みない。そこには「実績」の自信があることは容易にわかる。上昇気流にある人独特のオーラは雄弁だ。正直言って、佐々木監督の話に新味があるわけではない。しかし、聴いていて小気味よく、暖かい。それが旬のオーラというものだろう。

 久しぶりに娘と二人きりの外出となった。といっても家から10分も掛らないのだが。それでも隣の席に高校1年生の娘が座っているという気分は、父親として妙にこそばゆいものである。

 昨年、長女は高校受験に当たって志望校基準を明確にした。「なでしこ」W杯優勝がきっかけではないが、背は押されただろう。  自転車通学ができる範囲で女子サッカー部とスペイン語を数時間でも学べる学校というものだ。2校あった。佐々木監督の少年時代には考えられない状況だろう。長女は、みずから門を狭めて受験に臨み合格した。
中学生時代は、サッカー部がないからソフト・ボールをやっていた。1年生のときからレギュラーを獲った。サードとショートストップを任されたらしい。高校に入ると同時にグローブは物置でほこりをかぶるようになった。
高校生になった途端、頬が引き締まった。体つきががっしりしてきた。「ともかく、よく食べさせるのよ、クラブで」。この高校は本気なのかも知れない。
娘も早朝、ナイター、週末・休日もいとわず練習に出ていく。しんどいと泣き言はいわない。嬉々としてこなしている印象だ。本気で好きそうだ。好きこそモノの上手なれ、とはいうがもって生まれた才能はどうか? 身体の丈夫さは父親ゆずりだと保障できるが。
“お年頃の娘”の父親として思うのは、怪我するなよ、顔に傷つくるなよ、との思い。いっぽうで、大きな試合で勇躍する娘の晴れ姿を早く観たいというのも本音である。
 *後日談。1年間、サッカー部で奮闘努力したにも関わらず持久力に難があり、長女、人生初の蹉跌を味わい、退部。現在は都内の某大学でスペイン語を選科し学んでいる。来年はメキシコに留学するようだ。本人、留学に備えるべくバイトに勤しんでいる。

メキシコ・クンビアの王道ロス・アンヘレス・アスレス

メキシコ・クンビアの王道ロス・アンヘレス・アスレス

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 クンビアといえば南米コロンビア,コスタ地方(カリブ沿岸)発祥のバジェナートと並ぶ民俗音楽。文学ファンならガルシア=マルケスのマコンドの舞台とおもってもらえば良い。
 バジェナートの拡大は限定的だが、使い勝手のよいクンビアはラテン諸国に広く拡散し、米国のチカーノ社会にも定着している。  なかでも最大のクンビア消費地はメキシコだ。南米ペルーのアマゾン地帯イキトス地方に発祥した個性豊かで熱気に溢れたクンビアを特例とすれば、コロンビア以外での量産地はまちがなくメキシコ。そして、メキシコの影響下に北は米国のチカーノ社会、南には中米地峡諸国の北部地域に伝播した。

 しかし、こうしたクンビアはまず日本に入ってこない。メキシコや中米諸国を舞台にした映画のBGMとしてスクリーンにお見えすることはしばしばあるが、ラテン音楽に詳しくないひとにはクンビアとも思われてないのだろう。
 メキシコ・クンビア界にとっては亜流としか思われていないはずの米国テキサス州、そこに住むメキシコ系市民はテハーノと呼ばれるが、その狭い社会から出て全米のスターになったのが故セレーナ。彼女のテクノクンビアも日本へは、遺作として入っただけだ。
 
 ロス・アンヘレス・アスレスはメキシコ・クンビア界を1980年代前半から牽引してきたグループ。
 取っ掛かりやすいクンビアということでメキシコには無数といってよいほどクンビアのユニットが結成され、いつのまにか消えてゆく。そうしたなかでメキシコ市の庶民街イツタパラパに住むメヒア・アバルテ兄弟によって家族ユニットとして結成され、今日まで30年間も大衆的な支持を受けていることは稀有な存在だ。
 日本ではまったく無名といってよいが、メキシコでいかにメジャーな存在であるかという証明する話題が届いた。
 いまやラテン・ポップス界の大スターとなったナタリア・ラフォルカデが参加したアルバム『ラ・クンビア・デ・インフィニト』が6月3日に発売されることになったからだ。ナタリアとロス・アンヘレスのギターリスト、ロドリゴとガブリエラが曲作りに知恵を絞ったようだ。ここにナタリアの言葉がある。
 「わたしはいつも彼らのファンだった。わたしが作曲という行為に情熱をだくようになったきっかけのひとつが彼らのステージに触れたことがきっけだったように思うの」、だから一緒に仕事するようになったのは、わたしにとってはとても自然なこと語っている。
 
 ロス・アンヘレスたちの音楽は、彼らの主要音色であるアコーディオンの雄弁性に縁取られたところがあって、その殻を破るのはファンも彼ら自身もできない。ある意味、充足した音楽世界だ。ナタリアもここでは突出することなくおだかやにロス・アンヘレスの世界に浸る。これまで多くの人気歌手との共同作業をつづけてきたロス・アンヘレスだが、すべて自分たちの流儀で、ある意味、独善に消化してきた。それで大衆には飽きられていない。まったく稀有な存在だ。
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上野清士

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