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パナマ運河の新時代  ~拡張工事完成で飛躍的に物流量が増える

パナマ運河の新時代
 ~拡張工事完成で飛躍的に物流量が増える
パナマ新運河を航行する最初の大型コンテナ船(中国)
 ラテンアメリカ地域の話題がリオ五輪に集約されていた6月26日、中米パナマにある太平洋と大西洋を繋ぐ海の大動脈パナマ運河の拡張工事が終了し、最初の通過船を迎える式典が行なわれた。輸出入に大きく依存する日本にとって運河の拡張の意味は大きい。

 最近のパナマの話題といえばタックスヘブンを巡る「パナマ文書」問題に集約されていたが、その間にもパナマ運河は最終工事に向かって着々と進行していた。
 1914年、米国によって建設されたパナマ運河は20世紀最大の土木工事といわれ、21世紀の新運河完成は21世紀最大の土木工事とはまだいえないまでも最大の拡張工事とはいわれるだろう。

 パナマ運河の拡張工事は1999年に米国からパナマに返還される以前からあった計画だ。日本の建設会社も受注を巡って運河の浚渫などを請負っていた。中国、台湾の企業なども働きかけていたが拡張工事を落札したのはスペインの建設会社サシールを中心とするイタリア、ベルギー、そしてパナマの4社で構成されたコンソーシアムであった。落札額31億9200万ドル(3384億円)だったが、土壌地質などの問題が工事開始後に発覚するなどして、最終的には55億8100万ドル(5916億円)と約倍増してしまった。土壌地質などの問題は、パナマ運河建設に最初に鍬入れを行なったスエズ運河を開通させた“フランスの英雄”レセップスが挫折したおおきな要因のひとつだ。その意味でも難関をきわめた世紀の大工事といえるだろう。しかし、この差額の負担、支払いを巡って今後、通航料に跳ね返ってくる可能性もあり、中国についで実質通航量が多い日本 にとっても無視できない問題だ。実質、と書くのは周知のように船の船籍を税金の安い国で登録する便宜置籍船の問題があるからだ。パナマもSEGUMARという公益機関があって大きな収益をあげている。

 6月26日以前、外洋を航行する船は「パナマックス」を基準に建造されていた。
 パナマックスとはパナマ運河を通航できるように建造された船舶をいった。全長294.1メートル、船幅32.3メートル、喫水12.0メートルである。新運河は同366.0メートル、同49.0メートル、喫水15.2メートルが新たな「パナマックス」となったのだ。これによって貨物量で従来の3倍の量が行き来できるようになるといわれる。それを象徴するように新運河最初の通航船は新運河を象徴するように、従来の運河では通航できなかった9427個のコンテナを積載した中国船であった。(写真参照)

 また、新運河は従来の運河を遅滞なく運営しながら、運河建設当時の閘門(こうもん)の近くに建造されたものだ。今後も従来の運河は活用されてゆくので、これまで通航時間を大幅に緩和される。運河近くを走る一般道路で太平洋口のパナマ市からカリブ海口のコロン市まで車40分たらずの道を、船は待機時間をふくめ31.5時間も掛かっていた。太平洋側のパナマ港、カリブ海側のコロン港の湾内にはいつも通航待つ大小の船舶で渋滞していたが、それも緩和され、大幅に通航時間が短縮される意味は大きい。

 しかし、大幅な工事費の増加によって運河を管理するパナマの運河庁は通航量の値上げを示唆しており、また世界経済の冷え込みによる物流量の縮小によって今後、運河の通航量が飛躍的に伸びる可能性は必ずしも期待できない。
 また、パナマと同じ中米地峡に位置するニカラグアで、パナマ運河を通航するより時間を大幅に節約でき、より大型船の通航が可能な運河が内陸の巨大なニカラグア湖を活用した「ニカラグア運河」の建設がはじまっており、パナマ運河の特権的な位置も安泰とはいえない。この「ニカラグア運河」の建設には中国系企業が請け負っているが、まだ建設の“序章”の手前といった段階で、ニカラグアの政権交代、同国と中国の関係の希薄化によって、どうのように推移してゆくのかは疑問だ。
 近年の中国はアフリカ諸国への進出が際立つが、こうした運河建設を巡ってラテン アメリカ諸国へも意欲的である。 

☆余談だが、パナマ運河は海の大動脈として世界経済に貢献してゆくことには従来通りだが、運河はまたパナマ観光の目玉でもある。パナマ・シティに近いミラフローレス閘門には観客席が設けられた見学施設があり、目の前を巨船が上下動して、太平洋にむかっては下降し、大西洋に向かっては浮上していくさまは壮観である。今後、その壮観さはバージョンアップしたわけだ。今度、パナマに行く機会があれば、必ず再訪するだろう。運河そのものも客船にのって3回通航体験があるが飽きない。東京DLのアトラクションは所詮、遊戯、20世紀の大構築物をリアル体験するほうが感激は大きい。経済活動そのものがおおきなアトラクション化している稀有な存在でもあるのだ。
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中米ホンジュラス 『WENDETI  NAGAIRA』

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 いま、中米ホンジュラスで評判になっている構想のおおきな歌、そしてビデオクリップがある。『WENDETI NAGAIRA』。
 同国カリブ沿岸に点在した共同体をもつアフロ系ガリフナ族の言葉で「私の大地はとても美しい」の意。作詞作曲、そして歌のはマヌ・マルティネス。

 ホンジュラス、といっても、にわかにイメージできる日本人は少ないと思う。サッカー・ファンならリオ五輪では中米カリブ地域から勝ち上がり、アジアの強豪・韓国から勝点をとり、ブラジルに粉砕された国とイメージされているかも知れない。中米地峡諸国のなかではコスタリカと並ぶ強豪である。両国のナショナルチームにはいつもアフロ系選手が躍動している。コスタリカのアフロ系選手はジャマイカなど西インド諸島から流れついた祖先をもつが、ホンジュラスのアフロ系選手はスペイン植民地時代の初期から、そこで暮らすことになったガリフナ族が大半だろう。そのガリフナ族は古いアフリカ西海岸地方の音楽を移植し、ホンジュラス・コスタ地方の伝統音楽としてプンタを伝承させた。この国の音楽の大きな滋養である。『WENDETI NAGAIRA』にも反映されている。

 マヌ・マルティネスは、2014年、同国制作された劇映画『ウナ・ロカ・ナビダ・カトラチャ』で音楽を担当したことで一躍、全国区の人気者になった。喜劇で、庶民の姿をクリスマスという一年でいちばん家族・親族の出入りが多い季節を舞台に、楽あれば苦もある生活の機微を描いた佳作。クリスマス映画ということもあって中米諸国ではお馴染み定番クリスマスソングが随所に挿入されていて、それだけで音のアルバムといった貴重な作品なのだ。
 ホンジュラスで「ご当地」映画としてヒットした。その映画を制作したシン・フロンテーラス・スタジオが『WENDETI~』のビデオ・クリップを制作した。日本ではほとんど知られることはないが、ホンジュラスでも劇場用映画が制作されていて、この9月にはスペイン大使館の広報センターである市谷のセルバンテス文化センターで3本のホンジュラス映画が公開される予定だ。

 マヤ系先住民が多い内陸部、先住民と西欧人との混血ラディーノ、そして沿岸部のアフロ系ガリフナ族。さまざまな血が交じり合い、多様な文化が共存し、自然の恵み豊かな国、それがわがホンジュラスという祖国賛歌が『WENDETI~』のコンセプトだ。
 1992年、コロンブスの「新世界」到達500周年を記念した年、メキシコ、というよりラテンポップス界を代表するルイス・ミゲルが壮大な構想で歌い上げた『アメリカ、アメリカ』があった。欧米目線でない、「新世界」からの自己主張、宣言ともいえるドラマチックな気宇壮大な歌で当時、スペイン語圏諸国で繰り返し流されていた。
 ミゲルがうたった「アメリカ」は無論、南北アメリカ世界への賛歌であった。しかし、それはすべて西欧音階で書かれ、アメリカ先住民やアフロ系音楽への配慮は残念ながらなかった。マルティネスはガリフナの民俗音楽、マヤ系の音色を交えることによって一曲のなかに多様な要素を盛り込むことに成功した。
 マヤ系先住民を象徴する縦笛の独奏、オーケストラの弦楽合奏はスペイン文化を象徴し、ガリフナ族の民族音楽プンタがフィスタの高揚感を演出し、ポップスへの変調、さらにジャズ性まで加味し違和感なく流麗かつリズミカルに流れる。
 カリブ沿岸の町セイバの浜、紺碧の海と空を悠久のホリゾントをステージとして、肌の色が違う音楽家が50人以上集まって演奏するビデオは圧巻だ。『WENDETI~』は近年、中米諸国が生んだ作品として筆頭にあげたいものだ。 

花もつ女たち №71  ナタリア・ゴンチャロワ (舞台美術家・画家 ロシア・フランス  1881~1962)

花もつ女たち №71
 ナタリア・ゴンチャロワ (舞台美術家・画家 ロシア・フランス  1881~1962)
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 ロシア革命の黎明期から革命政権の樹立、そして独裁者スターリンによる苛烈きわまりない粛清までの疾風怒濤のスラブの大地にロシア・アヴァンギャルドという紅蓮の溶鉱炉がそそり立ち、そこから前衛の鋼が幾多も輩出した。そして、その鋼の矛先は国境を超え、時代を超えておおきな影響を与えた。
 
 絵画、彫刻、音楽、バレエ、詩、演劇、建築、映画などあらゆるジャンルと連動した。そこには才能にあふれた「革命」に共感する多くの女性アーティストたちの渦もあって、それぞれ刺激な活動に携わってゆく。なかでもナタリアの仕事はひときわ輝いている。
 時代の波濤に乗っていた1900~20 年代の仕事にナタリアの充実をみる。ロシア近代美術の序章に大きな痕跡を遺すロシア移動派やロシア・ロマン派たちの影響の下に筆をもったナタリアの初期作品に、ロシア農民、民衆の生活に取材した民衆画の素朴な味わいがあるのは、スラブ大地への共感でもあっただろう。しかし、時代は個々の感性を揺さぶりつづける。ナタリアも未来へと向かう悪路を疾走しはじめる。
 ロシア美術史に短いが確かな足取りを遺すアヴァンギャルドの先頭に立つことになる。ナタリアがモスクワ美術学校在学中に描かれた作品ははやくもロシアの新潮流を象徴するものとして国境を超えている。
 ロシア・アヴァンギャルドに担った才能の多くは表現領域を軽々と飛翔し、ことなるジャンルとの融合に積極的だった。そうした時代に稀代の興行師、ニジンスキーやアンナ・パブロワを擁したロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の創設者ディアギレフが存在した。
 ナタリアはバレエ団の野心的なオペラ『金鶏』(リムスキー=コルサコフ)の舞台美術いっさいを担当することになる。その初演の地パリに飛ぶ。そして、ナタリアは二度と故郷スラブの大地に誕生した赤色独裁国家に戻ることはなかった。
 『金鶏』の原作者プーシキン。ナタリアの大叔母ナターリアはプーシキンの妻であった。
 
 ナタリアはフランスに帰化し、パリに客死した。ロシア民衆への愛慕によって開花したナタリアの才能だったが、革命ロシアに疎まれる。いま、こうしてナタリアのことを記すのは、ロシア・バレエ団の芸術が音楽と舞踊に特化して語られ過ぎていると思うからだ。しかし、あの時代に先行してピカソやシャネルたちを瞠目させたロシア・バレエ団の芸術の多くは、まったく新しい舞踊、音楽に拮抗する力をもった舞台美術も必要とした。舞台美術の既成概念を覆すあらたな表現を必要としたのだ。そこのナタリアの才能があったことを忘れてはいけないと思うからだ。

 余談だが、ナタリアの絵は女性作家として破格の価値がつけられている。2007年のクリスティーズのロンドン・オークションで『リンゴ摘み』が490万ポンド、2010年の同オークションでは約640万ポンドで落札されている。
 

瞽女を描く その1  村山富士子『越後瞽女唄冬の旅』

瞽女を描く 
 村山富士子『越後瞽女唄冬の旅』

 久しく瞽女(ごぜ)をあつかった小説が書かれていない。
 瞽女、という大衆芸能の担い手が存在しなければ、瞽女そのものの芸能は歴史というステージの上でいかすしかない。
 おそらく越後や信州など、かつて瞽女を幾世代に渡って育み芸を伝承してきた地では、「門付け」というなりわいが殺がれたところで、唄・三味線の純音楽としての継承があるのだろうが、それは部分の継承でしかないが、悲劇性は消えた。
 日本は豊かになり眼病に対する医療も向上し貧しさ故の失明も少なくなり、また失明した人たちに対する職域も人権思想の普及にともなって広がったせいもあるだろう。
 厳冬の季節に僻地の寒村を経巡って門付けし、暮しを立ててきた瞽女の芸が消えてゆくのは元来、良いことなのだ。それをしりつつ瞽女として生き、人知れず死んでいった郷地の芸能人に、ある人を郷愁を覚え、ある人は貧しかった日本を象徴させようともし、また、男と契れば瞽女から落とされ、仲間をうしなって離れ瞽女にされるという掟てに悲劇を見出す。瞽女の世界は物語の宝庫でもあった。
 その雪国の瞽女の世界に鈍く光る鉱石を見出したのが画家・斉藤真一であった。それは日本がバブルに浮かれている世相を、明治大正、戦前昭和の庶民の目線で冷徹に批評するように連作されたものだった。筆者はその斉藤の絵によって「瞽女」という世界があったことを知った。漢字に「瞽」という文字が存在することをはじめて知りもした。それは多くの日本人の共通体験であっただろう。斉藤の画集は売れ、さまざまな判型の本も編まれ、展覧会が開催され、その絵の市価はあがった。すでに老い、門付けから解放され、老人ホームで余生を送っていた元瞽女さんが唄は録音されて、多くの視聴者を獲得するようなブームがあった。そこから数編の小説が生まれる。
 村山富士子の中篇『越後瞽女唄冬の旅』の発表も1976年夏であった。その小説は、その年、太宰治賞を受賞している。その小説を表題とした3篇の作品を収録した同名の本が出版されたが、その後、村山さんの作品はみない。その本も絶版になっているので、本作の存在をしる人も少ないはずだ。このまま埋もれてしまうのは惜しく思い、ここで取り上げてみた。そして、村山さんの瞽女は、そうしたブームとは別のところで私的に構想されていたものだ。新潟出身の作者にとって、瞽女さんの後ろ姿は郷愁といったものではなかった。越後の厳しい現実であったのだ。
 小説は越後の瞽女さんたちの生活譜である。あえてドラマをつくるまいとした態度がうかがえる。
 瞽女の生活を描くのに作者はそうとうな仕込みをしている。限れた地方だけに存在した大衆芸能、それも消えつつある世界の機微を描こうとするのは大変な仕事である。地方にはまだ瞽女の唄の良し悪しを知る人たちが現存しているから、臨場感をもって手繰り寄せられる心配のない江戸時代の歌舞音曲の世界に生きた人たちを描くよりむずかしい。作者・村山にとって、おそらく瞽女となった女たちを描くことはライフワークであったに違いない。中篇というスケールだが、作者はこれに全霊を掛けたのだ。そして、それを描ききった。
 作中にこんな一節がある。
 ・・・「瞽女の道は村から村への裏道であり、村びとの吐息のこもる蔭道だった。胸から胸の血の道だった」
 小説は、その蔭道を哀歓をこめて紡いだ絣のような物語だ。その一節を描きとめるために作者は一冊の本を書き上げなければならなかった。そこに作家の姿勢というものもある。
*筑摩書房刊。1976年6月初版・絶版。

文庫化されない本のために №11 『ロイと鏡子』湯浅あつ子

湯浅あつ子『ロイと鏡子』
 
 「ロイ」とは戦後、日本語の達者な外タレ第一号としてラジオ、テレビで活躍したロイ・ジェームス、「鏡子」とは三島由紀夫の長編小説『鏡子の家』の舞台になった富豪の館の娘の名前だ。その「鏡子」さんが本名で書いた夫ロイ・ジェームスを追悼・回顧する文章を中心としたエッセイ集。
 この本を読む気になったのは、先頃、NHKで放映された「トットテレビ」に出演していた米国出身のタレントさんが、「演じることになってロイ・ジェームスさんのことをはじめて知った。スゴイ人だった。尊敬に価いする」という語っていたのがきっかけだ。その「スゴイ」ことの内容がまったく語られなかったので、さてどういうことなのか、と思っていたところに本書に出会った。
 昭和59年3月、中央公論社から刊行されている。初版だけで重版されることなく書棚から消えた。同社が倒産し、読売新聞の傘下に入ってからは、こうした売れない本は永遠の絶版になるしかないだろう。
 kcb8.jpg 写真は、全盛期のザ・ピーナッツと。

 日本の民放テレビ黎明期に活躍したロイさんの端正な佇まい、江戸下町仕込みの歯切れのよい日本語はいまもでも記憶に鮮やかに残っている。モクロク時代のテレビだったせいもあるけど、いつもダークスーツに綺麗に整えられた髪、そして黒縁の眼鏡姿は知性にあふれていた。別にどの国の出身とも思わず、なんとなく「アメリカ人」と思い込んでいたフシがある。
 ところが、本書を読んでロイさんがトルコ人であったことを知る。父母ともにトルコ人である、と著者は書いているが、ロシア革命によって追われたカザン・タタール人である。本名を、ハンナン・サファといい1929年3月、東京下谷に生まれた。父アイナンは戦後、東京回教寺院で導師イマームを勤めた人だから、ロイ・ジェームスもまたイスラム教徒であった。
 下町生まれのロイは地元の小学校へ通い、明治大学を卒業した。日本語が達者なのは当たり前だが家族とは古いトルコ語でやりとりしていたようだ。そんなロイであったが戦時中は敵性外国人とみなされ、憲兵に捕まり天井から荒縄で逆さづりの拷問を受けたり、軽井沢に強制収容された後、日本語に不自由な6人家族を食わせるために人夫として働いている最中、極度の栄養失調で倒れ、ごみのように空き地に捨てられ、その後、収容された外国人たちの献身的な世話で生き延び戦後を迎えた体験をもっている。そうした半生は、たぶん、妻となった著者にしか語らなかった部分も多いと思う。
 ロイがテレビに登場する前に、すでに一個の人間として語るべき「半生」を体験していたひとであった。著者はプロの物書きではないし、亡き夫への愛慕の念から綴らねばいられないという思いにかられ、請われるままに筆記したものようだ。「事件」に対する資料的な裏づけ作業はそこにないけれど、あの時代を思えばさもありなんと思える事柄だ。しかし、タレントとしてのロイは、そういう自分をいっさい語らなかったし、本人は「僕はチャンバラのむしり(かつらの一種)にあこがれ、六大学の野球にあこがれ・・・・・〈旅姿三人男〉〈花笠道中〉〈りんご追分〉、虎三の浪花節、志ん生の落語がぴったりの江戸っ子」を自負したまま喉頭がんのため53歳の若さで死去したのだ。
 戦後、上品さの欠けられもなかった(と、あつ子は語る)ロイを、あの端正で気品のある流暢な日本語を語るタレントに仕上げる土壌をつくったのが著者であり、「鏡子の家」に集う各界の名士たちとの交流であったことも語られる。その「家」に売出し中の三島が出入りし、ロイとも交流をもったのだ。「家」に出入りしている時期の三島の面影は、三島資料としても貴重なものだと思うが、本書が再刊されることはもうないのだろう。本書に若き日の三島と著者との貴重なツーショットが収録されている。本書中、唯一の写真である。 
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武満徹と映画音楽  ~没後20年を迎えて

武満徹と映画音楽
 ~没後20年を迎えて
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 没後20年を迎えた今年、武満芸術を多角的に検証する活動が、演奏会での再演の企画とは別に進行している。日本音楽史上、創作活動そのものが世界同時進行で注目されたはじめての才能だろう。そして、雪渓を彼方にもつ泉のように湧き出した作品の総量はとてつもない拡がりをみせた。
 尺八と琵琶による協奏が管弦楽のうえでたなびく『ノヴェンバー・ステップス』、雅楽アンサンブル『秋庭歌一員』辺りを頂点とする純音楽だけでなく、その作曲活動は拡張・肥大しつづけ、なかでもシナリオを改編させるほどの批評性をもった映画音楽への傾斜は瞠目すべきものがある。100本近い映画に関与し、さらにテレビ・ラジオ、演劇への劇伴音楽まで広がる。今年、没後記念企画として映画音楽も含んだ『全集 』も発売された。
 武満が関わった映画のDVD化はさほど進んでいないだろうし、ビデオ時代にも黙殺された映画も多いはずだ。映画を観れば武満音楽と映像との関わりはわかるが、映画は秀作・佳作と呼べる 作品ばかりでないのでそうもいかない。現実問題として、いまは音楽だけしか聴けない。筆者自身の体験では、小林正樹監督の記録映画『東京裁判』(1981)での武満音楽との出会いの記憶は生々しい。それから武満が関わった映画、『東京裁判』以前のたとえば『砂の女』『怪談』『切腹』等々、それは戦後日本映画名作史ともなるではないか? それまで、黒澤明監督の映画を通して、佐藤勝さんの音楽に親近感を抱いていた筆者に、もうひとつの鉱脈をみせてくれるものだった。
 武満は映画という媒体を通してジャズ、ロック、邦楽全般、各地の民族音楽への尽きない狩猟者となった、武満はあらゆる大衆音楽を書ける稀有な作曲家であった。必要とあらば演歌すら書いただろう。時代を超越し、人間社会の各層を描く映画の要請に応じ武満はあらゆる実験をしたのだ。数秒、一音で悲恋の悲しみに添えろ、という破天荒な注文にどう応えるなかで、武満は純音楽への昇華へ導かれていったのだ。
 武満芸術を批評する海外の批評家は多い。現に今日もっとも体系的に武満音楽を語ったと労作として知られるのはピータ・バードの『武満徹の音楽』(音楽之友社)だが、ここに 映画音楽への取組みはない。日本人であっても旧作映画へのアクセスが難しい状況の中、海外の批評家がそれを試みるのは至難の業なのだ。こうしてみると武満という高峰への登攀はいまやっと麓にやって来たという段階なのだ。
 多い年には300本の映画を観たという武満、それは古今東西の映画にも精通し、映画音楽を通して映画批評も展開し、その批評性はあまたの映画評論家を超える。秋山邦晴との「対談」でもそれはよく了解できる。そして、常々思うのだが、あれだけの多忙な日々のなかにあって、何時、映画を見ているのだろうか、という時間の消費活動の卓抜さ。おそらく、それも今後の研究事項なるかも知れない。著作も実に多く、なかにはレシピまである。そう、武満はまごうことなく超人なのだ。あの小さな 痩身のどこにダイナモが隠されていたのか摩訶不思議。 その不思議のいったんが没後20年して、やっと武満映画音楽への本格的なアプローチがはじまった。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に沈着する憂愁を    ~カメラータ・ド・ローザンヌ初来日公演

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に沈着する憂愁を
   ~カメラータ・ド・ローザンヌ初来日公演

 スイスのローザンヌ市で2002年に結成された弦楽合奏団カメラータ・ド・ローザンヌの初来日公演の初演を7月7日、天の川がまったくみえない夜に聴いた。ふたりの日本人女性がヴィオラ奏者として参加する清新な活気に満ちて統一感の若い合奏団。当夜の公演では同合奏団がもっとも精神を傾注させて演奏したのは四曲目、チャイコフスキーの「弦楽セレナード ハ長調」だろう。彼らのチャイコフスキーについては、もう一夜、第2部をチャイコフスキーの作品を集めた演奏会があるので、それに譲りたい。
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 7日のプログラムにモーツァルトの作品中、もっとも有名な(優れたという意味ではない)作品「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が取り上げられていた。小さな夜想曲、セレナーデ。清廉な快活にあふれたアレグロがはじめってから、ふと、これをコンサートで聴いたのはいつだったか、と思った。まったく思い出せないくらい昔のことだ。
 たぶん、聴いたとしたら、セミプロ・オケの演奏とか、東京音楽祭とかで、どこかの広場で演奏される家族向けのフリーコンサートとか、そんなところで触れたのが最後じゃないかと思う。そう、この名曲は意外とコンサートで取り上げられることは少ない。著名な交響楽団の定期演奏会などでもプログラム入りする機会はほとんどないはずだ。そういう特異な作品だ。しかし、この 作品にはそれぞれ一家言、といえばオーバーだか、人それぞれ私的なアプローチの言葉をもっているのではないかと思う。そんなふうに親しまれている作品だから。
 神童に嫉妬する宮廷音楽家サリエリの視点からモーツァルトを描いた映画『アマデウス』のなかで、サリエリは思わず口ずさむ曲のひとつに、「アイネ~」があった。というふうに、クラシック・ファン以外を広く集客したいと考える商業映画は、なるべく親しまれている曲の注入をはかるわけで、「アイネ~」はそのように取り上げられるポピュラー作品であるということだ。むろん実際のサリエリがそんなふうに口ずさんだという証言はない。
 カメラータ・ド・ローザンヌは地元では青少年向けのコンサートなどを積極的に行なっているようで、「アイネ~」はプログラムに欠かせない作品だろう。当夜のコンサートでも、いかにも手馴れ熟知した演奏という感じで明朗に響きわたった。
 しかし、筆者はこのセレナーデは意外な難曲だと思っている。
 モーツァルトの澄明な響き、快活な明朗さというのは少々、厚みのあるオブラートであって、31歳、生命力が枯渇しはじめた時期で、父レオポルトを失い、『ドン・ジョヴァンニ』作曲中の緊張のなかで自ら癒しを求めたように書かれたセレナーデであった。どこの演奏であったか、筆者にもっとも響いてきた「アイネ~」は澄明な響きのすき間からこぼれ出てくる〈憂愁〉ともいえる哀調の陰の徘徊であった。その〈憂愁〉の静謐さの記憶が、カメラータの演奏を聴きながら蘇ってきた。カメラータの演奏には、その〈憂愁〉、あのモーツァルトの横顔にあるような気配はまったくなかった。
 帰宅後、モーツァルトのCD群を抜き出しながら収録曲を点検する。「アイネ~」はなかった。たぶん、「名曲集」とかそういう企画モノには収録されているのだろうが・・・。
 ずいぶん昔に筆者を捉えた「アイネ~」の〈憂愁〉はレコード時代のLPのなかにあった。いまは誰の演奏家か思い出せない。でも、そのLPで筆者の「アイネ~」像は刻印された。
 小林秀雄は彼の「モーツァルト」をト短調交響曲を主調音にして描きだしていたが、筆者にとってのモーツァルトの音楽は「アイネ~」のなかから立ち上ってくる、やるせないような〈憂愁〉なのだ。それは合奏する演奏家たちの哲学といっては大げさかもしれないが、一度、蹉跌でもあじわったものでもない限りでてこない音、その集積だと思う。
 かつて筆者をわしづかみにした〈憂愁〉の鎖を投げてきた演奏家たち、それは1970年以前の録音であったはずだから、おそらく例外なく演奏家たちはみな大戦下の欧州のどこかで、それぞれ近い人の死に遭遇してきた世代だ。あるいは自ら引き金を引いたかも知れない、そんな時代を生き延びた人たちの演奏であったはずだ。
 演奏思想に経験則はむろんないが、でも時代に捉えられてしまう音というものがある。嫌味でいうのではないが、カメラータ面々の音は、きわめて優秀で才能にあふれた人たちの自信にあふれたものであった。「アイネ~」も合奏団のアットホームな暖かさのなかで充足していたのだ。でも、それは筆者の感興にはならなかった。(7月7日、東京文化会館小ホールで)

11日の築地・浜離宮朝日ホールでの演奏会は、チャイコフスキー・プロといってよい内容であったが、前半の小曲集はカメラータのメンバーが自己紹介的にソロを取るといったサロン的雰囲気に終始するもので、それぞれの実力のほどを知らしめる効用は確かにあったが批評を乞う、といったものではなく、いかにも弾きなれた作品を選んでいるという印象であった。そして後半の「フィレンツェの思い出 作品70」の弦楽合奏版の演奏となった。
 チャイコフスキーに限らず帝政ロシア時代の知識人たちは陽光を求めるようにイタリア詣でを繰り返していた。革命前の知識層のほとんどは上層階級から出ている。遠くイタリアまで旅をする余裕があった。宗教的な類縁地ギリシャのエーゲ海がオスマントルコの勢力図のなかにあってみれば、ロシア知識人はカトリック本山のイタリアに足を延ばさざる得なかったのだろうか? 革命後も、たとえば映画監督のタルコフスキーは晩年、イタリアにアフリカからの南風を感得しようとした。そういうロシア知識人特有のイタリア観を理解しないと、チャイコフスキーの同曲も良くできた作品、ケレン味ない良質な演奏というしかないだろう。

『ピンク・トライアングルの男たち ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』 H・ヘーガー

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 V.E.フランクルの『夜と霧』の読書体験はまさに「衝撃」だった。人間の極限悪を告発する記録ではあったが、その「衝撃」はナチズムの残酷、非人間的なシステムに対してではなく、人間という存在それ自体の不気味さを明晰な文章で綴った心理学者フランクルの視座、ゆらぎのない冷徹さにあったように思う。
 餓え疲労困憊し、恥の概念も剥ぎ取られ、突然の自死が何時、訪れるかも知れないという極限状況のなかでも自己と他者に向けた静かな視座を確保・維持しつづけたフランクルという人の存在そのものが「衝撃」であったのだと思う。『夜と霧』を読んだのは10代の後半だったと思うが、その読後感はいまだに生きている。
 以来、ナチ強制収容所の実態を綴った本と幾度も出会ってきた。その多くが地獄を奇跡的に生き延びた体験者の報告・記録であった。そうした記録を読めば読むほど、生還した人たちは、それだけで「奇跡の偉人」のように思えてくる。そうした記録のなかから映像化されたものも多い。あるいは戦争史劇などに深い陰影を与えつづけた。
 人間はどこまで残酷になれるのか、どこまで苦痛と恥辱に耐えられる存在であるのかを推量する目安まで教えられるような、あるいは目を背けるな、と強制されるような、曰く言いがたい不快感、と同時に人間存在に対する信頼感もまた受け取っているのだった。それでなければ繰り返し、極限悪を読み返す気は起こらない。
 
 本書『ピンク・トライアングルの男たち』も深甚な課題を抱えて筆者の前に現われた。
 近年では2004年秋に翻訳刊行された、母親が強制収容所のメ有能モな看守であったというヘルガ・シュナイダーが書き下ろした『黙って行かせて』が肉親の情と亀裂、時代と政治的熱狂が母娘の血の絆に切り込む刃の鋭さについて考えさせる沈痛な読書体験だった。
 だって
 ピンク・トライアングルとは、ナチ強制収容所で同性愛者の刑務服の胸につけられた印である。
 たぶん、日本人の多くはユダヤ人につけられた黄色いトライアングル印を写真や映画を通しておなじみだろうが、同性愛者にピンク色が強制されたことを知る者は少ないと思う。さらに、同性愛者のユダヤ人は黄色とピンクの二つの印を強制された。その二つの印をつけた囚人の映像に記憶がないのは、たぶんガス室に送られる優先順位の筆頭者であったからだろう。ナチズムによる最大の絶滅種、ということになる。
 ちなみ赤は政治囚、紫は聖書研究者(エホバの証人)、緑は刑事囚、青は亡命者(ドイツ人及び占領地で捕まったドイツ人亡命者)、茶色はロマ族(ジプシー)であった。刑事囚を除けばナチズムのドグマ的政治システムにおいてのみ「囚人」となった人たちで、もとより拘束されるいわれのない人たちだ。
 本書は、ピンク・トライアングルを強制され生き延びた男性の6年の極限状況が簡潔に綴られている。生き延びるため、看守たちに「性具」として自らを差し出したことも隠していない。ホモセクシュアルであるための悪罵・痛罵も克明に記録されている。生きて強制収容所を出る、という最終目標を達成するために耐える、耐えつづける。それは生命を賭した闘争であり、あらゆる手段に訴えても恥辱を甘受するということかもしれない。その覚悟を尊い、と思うか、潔しとしないとみるかという批評は読者は避けるべきだろう。矜持という言葉を安易に持ち出すことは、厳に慎まなければいけないと思う。恥辱を受け入れなかった者は、その矜持も潔さもガス室で葬られ、自ら報告者となることはできない。
 極限の餓えを生き延びるため人肉に喰らいついた者はゆるされる。しかし、人肉を喰らうことを拒否して餓死する者も出る。アンデス山中に不時着した飛行機の乗客のなかで、そんな運命の選択が行われた。つい数十年前の現代の記録である。人肉を拒んで餓死した人たちの名誉は、人肉に喰らいついた者たちによって記録されたのだった。そんなことを本書は思い出させる。
 
 生き延びた著者は家に戻った。その著者の父はナチ政権下では、同性愛者の肉親としてシステマチックに職を奪われていた。そして、生活難と恥辱のなかで死を選んだことを知る。悲劇は解放後も著者を縛った。
 著者が本書を公けにしたのは1972年、解放から27年目のことだった。記録者としての覚悟、歴史の証言者として自らを律する潔さ、書き続ける持続のなかでの懊悩・・・人間の魂の記録として、人間の悪行と、それに耐えた勇気の記録として推奨したい。

映画『栄光のランナー ~1936ベルリン』 スティーヴン・ホプキンス監督

映画『栄光のランナー ~1936ベルリン』 スティーヴン・ホプキンス監督
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 五輪の年にお勧めということでは本作は筆頭一押し。私にとって好感度の高い秀作だ。
 1936年ベルリン五輪、後にヒトラーのオリンピックといわれた大会だ。
 本作は、ベルリン大会で4つの金メダルを獲得し、ヒトラーの鼻白ませた米国の黒人ランナー、ジェシー・オーエンス(ステファン・ジェイムス)を主人公に、ナチ五輪の内幕まで語る政治劇となっている。その輻輳し、巧みに語りつくした構成力に関心する。まずシナリオの巧みさに監督、俳優、そして当時の雰囲気を造形した美術、衣装担当のスタッフの力量も称えたい。

 野球でいえば大リーグに黒人選手が排除されている時代の話である。大学への進学率も黒人学生は極端に少なった。黒人家庭の多くが子弟を大学に通わせるほどの余裕はなかった。例外的に、卓越した身体能力を持つものが、スポーツ優待生として奨学金を得て大学に進むことができたタレントたちがいた。オーエンスはそんな一人であった。しかし、彼を迎えた大学の運動部では露骨な偏見、差別がまっていた。白人学生からの偏見、嫌がらせの日々が、ロッカールームの些事に象徴されて描きだされる。
 スナイダー・コーチ(ジェイソン・サダイキス)に恵まれたオーエンスは次つぎと新記録をつくってスターとなる。しかし、競技場の外では相も変わらず差別の壁は高く厚く、世界記録保持者であってもバスの席すら差別される。そんな日常光景も丹念に描かれていく。
 オーエンスが着々と実績を重ねていった時期、ベルリンで着々と五輪の準備が進んでいる。ナチの反ユダヤ政策は国外で激しい批判を浴びているなかで競技場施設は建てられていく。ナチ政権のゲッペルス宣伝相はヒトラーの志を受け、大会を国威発揚、ナチズム宣揚の絶好の機会とするために“史上”最高の五輪を目指す。そんなゲッペルスにとって最大の憂慮は、強国でありスポーツ大国でもある米国が反ユダヤ政策のために大会をボイコットするかもしれないということだ。
 当時、米国五輪委員会の実力者は、大戦後、IOC会長として辣腕を振るうことになるブランデージ(ジェレミー・アイアンズ)。オーエンスを中心とするエピソードが競技者たちの物語が縦軸となり、ゲッペルスとブランデージとの駆け引きが主催者、五輪運営側の横軸の物語として語られ、やがてメインスタジアムで見事に交差するというけっこうな構成だ。
 
 ドイツ国内のユダヤ人弾圧の実態は、米国国内の黒人差別という社会状況をも照射させる。134分の尺度のなかで破たんもせずに魅せる監督の手腕、編集の技も見事ともいえる。しかし、気にいらないところもある。それははじめての五輪映画を制作し、ギリシャ・オリンポスでの地での聖火点火、そしてリレーのシナリオも作成したレニ・リーフェンシュタールを演じたカリス・ファン・ハウテンの演技には威厳も気品も著しく欠如している。レニの大きさが軽んじられているように思う。これはミス・キャスト。反面、オーエンスを演じたジェイムス、ブランデージのふてぶてしい現実主義者ぶりを好演したアイアンズは相変わらず憎憎しいほど達者な演技だ。

 米国のユダヤ系人権組織、そして黒人組織も有色人種をあからさまに差別するナチの五輪参加に反対している。オーエンスも黒人人権団体から参加しないように求められる。本作で知りえた、そんな挿話を知っただけでも本作の価値がある。
 *8月11日、公開。

映画 『ブレイク・ビーターズ』 ヤン・マルティン・シャルフ監督(ドイツ*2014)

映画 『ブレイク・ビーターズ』 ヤン・マルティン・シャルフ監督
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 ソ連・東欧諸国がドグマ的な共産主義のクビキから解き放たれて、すでにそれなりの歳月を重ねたが、いまでも、こんな回顧趣味的な作品が制作される。回顧といって語弊があるなら、時代の貴重な証言、と言い換えようか。絶対主義のなかでの過剰な警戒が生み出す馬鹿ばかしさ、真剣さは限りなく滑稽にみえてしまうことを本作は語っている。
 私がみた回顧モノでいちばん記憶に残っているのは、旧ソ連時代のモスクワの若者たちが西側から流れてくるビートルズのヒット曲を廃物となっていたレントゲンフィルムに刻んで仲間内で流布させた事実を物語った映画だがタイトルを失念した。レントゲンフィルムは昔、日本でも量産されたソノシート(といってもいまの若者は知らないだろうが)。ソ連製のソレは、「骨レコード」といったらしい。

 本作で描かれているのは1980年代の「東ドイツ」の工業都市ディサウの少し尖った若者たち。その地の映画館で、米国映画『ビート・ストリート』が上映され、ニューヨークのアフロ系青年たちが街頭でブレイク・ダンスのパフォーマンスをみせる米国映画『ビート・ストリート』が公開された。これに東ドイツの若者は驚愕、たちまち感化される者が陸続と現われた。史実である。表現の自由を満喫できない鬱屈した若者におおきな影響を与えたようだ。
 「こんな映画を当局が公開承認したのなら、真似しても差し支えない」との安心感もあっただろう。映画が公開された各地で見よう見まねでブレイクダンスに興じる若者が族生した。
 主人公の青年フランクもそのひとり、元オリンピックの女子体操選手も巻き込んでチームを結成、街頭で妙技を披露しはじめる。これを当局は、「西側のタイハイ文化の浸透」と憂慮、と同時に、ブレイクダンスで若者の表現活動への欲求のガス抜きに利用できるともくろく人たちも。その後者の知恵者が、ブレイクダンスを体操競技、新体操の発展形としてとらえ指導するところが面白いし、新鮮に映る。官製スポーツ大国であった東ドイツらしい現象だ。
 おなじ社会主義国でもキューバなら最初から野放しだろうし、若者たちはおおらかに楽しんだろう。当時、米国と国交断絶状態であったキューバに米国映画は配給されなかった。しかし、キューバのダンス文化は東ドイツよりはるかに自由であったし、ダンスで性的交流、暗示をするのも自由だった。そんな風通しのよさが、ソ連の後ろ盾を失ってもなんとかカストロ体制は維持されたのだ。
 で本作『ブレイク・ビーターズ』の結末はここでは語るまい。今後、この地上に、東ドイツのような体制が現れないように心するためにも、結末を知りたい読者は映画館でみるか、もしDVD化されたらみるべきかな・・・。*東京地区での上映は7月に終了。
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