スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画 アレハンドロ・ホドロフスキー監督『虹泥棒』~洪水の後の東欧の港町で

映画 アレハンドロ・ホドロフスキー監督『虹泥棒』 ~洪水の後のポーランドの港町で
 news_thumb_The-Rainbow-Thief_20160910_02.jpg
 1990年製作というから、すでに26年も経過している。
 主演のオマー・シャリフ、ピーター・オトゥール、そしてドラキュラ伯爵役で異名を馳せたクリストファー・リーが競演するといういま思えばそうとう贅沢な映画である。
 カルト映画の王道をゆくアレハンドロ・ホドロフスキー監督にとっては、ある意味、目障りな名優の存在であったかも知れないが、そこはラテン世界のアナーキスト、シャリフもオトゥールも水攻めにして薄ら笑っているような演出ぶりだ。撮影所内のセットでの水攻めだけでなく、寒空の下、屋外ロケでの容赦ない水の洗礼もあって、監督のサディストぶりはいかんなく発揮されている。
 名作『アラビアのロレンス』で競演したシャリフもオトゥールもここではただの濡れネズミ溝鼠であった。演技中、さぞ冷たい水をしたたかに飲まされてしまったことだろう。そんな苦闘を強いられながら、二名優は監督のコマとして動かされているようにしかみえない。流れる水につかりながらの演技は老体には至難でもあっただろう。声に悪寒の響きがないのは幸甚。

 そうとうお馬鹿なストーリー。話の縦筋だけ追えば簡単きわまりない起承転結となり、大人のヘタなおとぎ話でしかない寸劇をどう演じたところで滑稽なだけだ。そして、その滑稽さをホドロフスキー式のゴテゴテ装飾で縁取られたスクリーンの鋳型のなかに押し込まれるているのである。ただ、監督は、英国メジャーから要請され、名優の出演料も心配せず、大掛かりなセットを組むことを幸いにそうとうな無鉄砲を敢行したのだった。自前で制作費を捻出してきた監督にとって、潤沢な資金というのはそうとうな魅力のはず。資本に思わず妥協して、売れる映画、媚もみせても仕方がない、がわがホドロフスキー、そういうところは馬耳東風、俺はおれの流儀で貫くと、サディストの面目躍如ってわけだ。
  
 寒々とした港町が舞台なのだが、これはどこだと思って調べるとポーランドの港湾都市グダニスクで、その撮影所を中心にして撮られていたのだ。で、1990年といえば、と思うところがあって年表を捲ると、その前年、ポーランドがソ連の引力から脱し、民主化を実現、90年に独立自主管理労組「連帯」委員長として権力と闘いつづけたワレサ議長が大統領に就任している。その「連帯」の活動に触発されアンジェ・ワイダ監督は、映画『鉄の男』で男を撮影したところがグダニスクであった。むろん、『鉄の男』に先行する『大理石の男』も撮られている。その撮影所で、ホドロフスキーは洪水に浸される港町、そして洪水の退いた後の晴天の港町を撮っているのだ。

 チリ生まれ、メキシコ在住のホドロフスキーは“権力”を嫌う。精神の自由を窒息させる思想を忌み嫌う。故郷チリで撮影された『リアリティのダンス』(2013)での主張の眼目はそういうことだ。監督の制作譜をみれば、本作の意図が奈辺にあるのか理解できようというもの。

 富豪(クリストファー・リー)の遺産の行方、その富豪の放蕩息子(ピーター・オトゥール)の自主独立の精神性、その息子に取り入って遺産のおそそわけを狙う人のよいコソ泥(オマー・シャリフ)・・・そして、すべてが洪水に流される。あとかたもなく。
 ワレサ大統領よ、あなたも権力に溺れるなよ、との暗喩が込められていたのかも知れない。同大統領は1期5年の任期後、再選もされずに栄光の座から降りた。ワレサがもっとも輝いていたのは社会主義独裁政権に対峙した労組委員長の時代であった。ノーベル平和賞はその時期に贈られていた。
 本作の主演3人、暗喩が向けられていたと思われるワレサもふくめ皆みんな鬼籍に入ってしまった。気がつけば健在一人。今年、87歳となったホドロフスキーだではないか。憎まれっ子世に憚るとはよく言ったものだ。精神の自由、拡張を野放図に謳歌する無政府主義の映像作家だけがいまも水みずしい映像づくりに余念がなく、最新情報をみれば次作の準備に余念がないとか・・・・・・。  
 *11月12日、東京渋谷・アップリンクで公開。
スポンサーサイト

美しいモノクロームのアマゾンコロンビア映画『彷徨える河』 シーロ・ゲーロ監督

コロンビア映画『彷徨える河』 シーロ・ゲーロ監督
mv60869-l.jpg

 墨に五彩在り、という。東洋の審美眼を象徴的に要約したものだ。水墨によって森羅万象を描こうとの野
心をもった東洋の画工たちは、墨で山なす緑を描き、新緑、盛夏の緑、湿潤な緑とさまざまな抒情を表出し
た。『彷徨える河』を観ながら筆者はしきりに水墨の世界の神韻を聴いていたのだった。
 ・・・・・・そう本作はモノクローム映画。しかし、熱帯雨林の豪奢な色彩を確かに感じていた。美しい濃淡
の輝きにあふれていた。
 アマゾン流域を舞台とする映画はこれまで数多く制作されてきた。アマゾンが放つ色彩の横溢に善く応
えるように色彩フィルムに定着されていた。野生の宝庫、緑の地獄といわれる悲劇の場所であったり、征
服の拠点であり破壊の現場として。誠実に色彩設計されて撮影されたフィルムもあったが、どこを切り取
っても密林の濃密さは写せると安易に撮られたものも多かった。もちろん、カラーフィルムが容易に流通し
はじめる前に、モノクロームでアマゾンは撮られているわけだが、当時の撮影者たちはいつもフィルムの限
界を嘆いただろう。しかし、節度のない色彩乱舞の時代に本作は意識的にモノクロームで、と選択された。
その時、アマゾンの光と影は監督の審美眼を象徴するものになった。

 前置きが長くなった。物語に寄り添おう……河口から遥かに遡った迷路のようなアマゾン支流。20世紀初
頭と、それから数十年を経た時代が交錯して描かれるが、文明の機器が入り込んでいない辺境にあっては、
しかと時代が判別できる表象物がでてこない。強いていえば人を殺傷する銃器が“文明”の闖入を象徴する
ものかも知れない。
 欧米社会に知られていない有用の植物などを採集し、あわせて原住民の風俗習慣などを調査するドイツ人
民族誌学者と、武器でもって迫害され部族を絶滅に追いやられ、たった独りとなった青年カラマカテとの精神
的な交流が描かれる。
 カラマカテは民族の知恵として、薬草の知識を豊富にもっていた。生きんがため先人たちが育んできた叡智
の結晶。このカラマカテ青年を演じたニルビオ・トーレスが実に良い。奥アマゾンで農業に従事していたトーレス
は外界をほとんど知ることなく、母語のクベオ語のみで生活してきたという。映画でもスペイン語より母語で語
るシーンが多い。彼には追われた原住民、博物誌的に観察されることを甘受しないカラマカテどうようの誇りが
ある。演技ではなく、厳しいアマゾンの自然に生きる膂力をもった誇りある民として。半裸の彼にいっさいの贅
肉がない。背筋を伸ばし、無駄ごとをいっさい吐かない戦士の矜持をもつ。

 ドイツ人学者は風土病で重篤の身、それでも先住民出身の彼の助手とともに長年、アマゾン流域で収集した
植物標本や資料をカヌーに乗せて支流を経巡っていた。そこで出会ったのがカラマカテ。通訳を通して治療を乞
う。最初は治癒を拒否するカラマカテだが、学者の姿にこれまで見てきた白人侵略者とはまったく違う真摯さを
感じ、病いを癒す薬草ヤクルナを求め、カヌーに同船し密林の奥深くに分け入ってゆく。
 そうしたカラマカテの善意は、やがて民族学者の研究をビジネスとしてみる19世紀以降の経済的な征服者
たちによって、アマゾン破壊の根拠を与えることになる。監督は、それを社会批評するのでは、そうした文明の
闖入がもたらす荒廃をカヌーの旅のなかに溶かし込んでゆく。
 魂の彷徨……カトリックの密林における歪み、精神の惑乱、倫理の剥奪、密林が強いる不条理な生と死の掟
……老いたカラマカテの追想。錯綜した二つの時代は溶け合い、分離できなくなる。
 思索の混迷を防ぐため豊穣な色彩を廃止し、モノクロームで「人間」だけを屹立させようとしたのかと思われて
もくる。  
*10月、東京・シアターイメージフォーラムなどで公開。

署名アラカルト №17 俵万智

 署名アラカルト №17 俵万智

tymjs315-img600x450-1472297707905sfo6809.jpg
 俵さんのデビュー作にしてミリオンセラーとなった歌集『サラダ記念日』。200万部が突破したとき出版元は「限定700部天金謹製」と銘打ったA5判箱入り上製本を非売品として刊行した。その本が巡り巡って小生の手元に落ち、そして数ヶ月、滞留した後、千葉の方に飛んでいった。写真の署名は、その本に記されたものである。700部のなかの一部に記された。
 ミリオンセラーとなったオリジナル本にも俵さんの署名は多くみられる。20代になったばかりの若き才能、美女というより可愛い俵さんはあちこちの書店などのサイン会にひっぱりだされたのだろう。その結果、オリジナル本の署名が多くなった。
 小生の手元からはなれる前に、歌集を拾い読みする。若き鋭敏な才女、それも日常の場から射光された一首、その一行にあらためてハッとする。男として、在りし日のわが身への刃かとも思ってしまう。
 〈手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛〉
 〈「そのうちに」電話する気もない君に甘えた声で復讐する〉
 〈「今日で君と出会ってちょうど500日」男囁くわっと飛びのく〉
 〈我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり〉
 〈この部屋で君と暮らしていた女(ひと)の髪の長さ知りたい夕べ〉
    ・・・・切がないので、もう辞めよう・・・
 端正ですっきりとした穏和でいて、どこか意思の強さもうかがえる俵さんの署名であった。

中米地峡諸国の音楽  パナマ運河“賛歌”

パナマ運河“賛歌”

 ラテンアメリカ諸国への関心がリオ五輪の開幕に向けたさまざな話題に集約されていた頃、太平洋と大西洋を繋ぐ海の大動脈パナマ運河の拡張工事が終了、盛大な祝賀イベントがパナマで行なわれていた。そしてパナマ音楽界はこれを祝ってさまざまな祝賀賛歌を書き歌っていた。いまもその余韻のなかにあるだろう。
 1914年、当時の米国の技術力、蒸気機関の創意工夫、感染医療の普及、そして綿密な工程、つまり国力そのものの統合性によって建設されたパナマ運河は20世紀最大の土木工事の成果といわれた。それから100年、船舶は巨大化し、大海を行き交う物量は飛躍的な拡大を遂げた。そして、パナマ運河は手狭な施設となっていた。拡張をメインとする21世紀の海運にふさわしい運河が要請されていた。拡張工事そのものは〈1999年12月31日正午〉に米国からパナマに返還される以前からあった計画だ。
 約10年を費やして完成したパナマ新運河の総工費は55億8100万ドル(5916億円)だった。今後、この厖大な工費を回収するため通航量の増大、そして通航料金の大幅な値上げが必要といわれる。
 エリカ・エンデル
 パナマ新運河の完成を祝って、たとえばセリア・ディオンによく似た人気ポップス歌手エリカ・エンデルが自作自演した『私の運河』という賛歌を発表。
 「さまざま言葉が行き交う運河、世界の結びつきを強める運河、わたしたちの未来のために~」と手放しで新運河の開通を祝う賛歌。バジェナード・アコーディオンで味つけした民族色の濃い歌。加えてエリカは、サルサを取り込んだ『エル・ルガール・ケ・メ・ビオ・ナセール』もつくり、そこでは、新運河を同国各界各層が祝うという、すこぶる愛国主義的な内容でビデオ・クリップをみると独特の民族衣装や手芸モラの担い手として有名な先住民クナ族なども登場する。
 パナマ運河は、これまで幾度もパナマの歌手たちによって歌の主題されてきた。
 最近では、運河開通100周年を祝った2014年、米国からの返還があった1999年、加えてパナマの英雄、故オマール将軍治世時代、米国から運河の返還を実現させるため国民の民意を統一しようとする民族運動のなかから自然発生的に生まれた民衆歌など、たくさんの作例がある。
 パナマ最大のスターで、日本にも多くのファンがいるサルサのルベン・ブラデスも返還前の代表的なアルバムで、運河建設に従事した西インド諸島出身の労働者のなかに父親がいたことに触発された「ウエスト・インディアン・マン」を自作自演している。
 パナマの音楽家にとって「運河」の存在はさまざまな意味で創作の源泉のようだ。  

映画 アフリカを描く フランス『サンバ』エリック・トレダノ監督 ~移民問題は先進国の映画に潤沢な滋養を与えている

移民問題は先進国の映画に潤沢な滋養を与えている
 映画『サンバ』エリック・トレダノ監督
サンバ

 ルーブル美術館やエッフェル塔周辺……外国人観光客が行き交うパリ界隈、ひとめでアフリカ系と判る男たちが、見栄えもせず造作もぞんざいな真鍮製のエッフェル塔のミニチュアをむき出しにして観光客に売っている。きょうび、こんなものをスーベニールにしたら、ご本人の審美眼が問われるだろう。
 寄ってくる彼らに、もっと工夫を凝らせと叱咤したくなる。同じようなモノで競争していたら値下げ競争を自らに課しているようなのだ。自分で開拓しろ、と言いたくなる。それこそベニン式造形でディフォルメしてみたらと彼らの思考回路を混乱させたくなる。
 しかし、考えてみれば、彼らは、かつても今も、そして未来も「観光客」として越境することはないだろう。とすれば立場を置き換えてみることができない。いっけんして彼らは不法滞在者、まともな職にありつけないビザなしの不法越境者、とその服装、立ち姿からそううかがえる。
 『サンバ』の主人公サンバ(オマール・シー)は、そんな街頭商人のなかに混じっているようなアフリカはセネガル出身の青年だ。主演のオマールは、同じ役柄、不法越境労働者役を演じた『最強のふたり』で好演、ハリウッドへの進出もはたした上昇気流に乗っている。そのオマールが『最強のふたり』の監督と再度、タッグを組んだのが本作。今回は、人気女優シャルロット・ゲンズブールと迎え商品性もグレードアップさせての一編。
 ビザをもたないサンバは空港近くに設けられている出入国管理事務所の施設に強制収監されてしまう。いまや先進諸国の都市にはどこにでも存在する施設だ。東京にもあるが顕在化しない。日本にも同じような問題があるはずだが、オーバスティの不法滞在者たちが映画に登場し、自ら自己主張することは稀れだ。けれど、フランスはもとよりEU諸国では繰り返し制作されている。ハリウュド映画なら麻薬密売からみの作品のなかでは必ずメキシコやコロンビアからの越境者が登場するのが定番。不法越境者はいまの時代を写す鏡なのだ。その鏡をもたない日本映画はある意味、歪つな存在だと思う。
 東京のド真ん中、トルコ大使館前でトルコ人とクルド系トルコ人の衝突があったことは、まだ記憶に新しい。中国人観光客の多さ、そのまま中国人旅行者の不法滞在を許しているという現実もある。日本国内にもさまざまな問題が存在するということだ。

 サンバは収監された施設のなかで、かつて人材派遣会社で有能なエリートとして働いていたアリス(シャルロット・ゲンズブール)と出会う。アリスは仕事に疲れ、不眠症など合併症状を起こして現在はリハビリ中、その治癒行為として不法移民の救済活動にボランティアとして関わる。その最初の相談相手がサンバであった。
 親身に、人権思想とかいった高邁な理想からではなく、すこぶる庶民的感覚の人助け精神だろう。理論武装していないだけ情にほだされるということだ。相談に乗っているうちに、いつしか、そのサンバの真摯な姿に魅せられ、やがて恋に落ちるというパターンは常道。そのおおらかな公道を語るうちに、サンバを通してみえてくるヨーロッパ諸国の不法移民問題が日常光景として映像化される。それも『最強のふたり』と同じ構図だ。 
 こうした作品を見ていると、パリで瞥見した街頭スーベニール商の男たちにもそれぞれ過酷な越境の旅譜の物語があるのだろうと思う。
 移民たちはより稼ぎのよい経済力のある国に流れる。シリア難民たちはドイツへ入りたがった。ドイツではその流入を巡って政権を揺るがす問題が生じた。英国のEU離脱問題の大きなファクターはそうした移民の流入問題があった。
 サンバの友人となる自称ブラジル人ウィルソンが、やがてサンバからアラブ系のイスラム教徒であることが暴かれる。ウィルソンはブラジルからの越境者であることを自称することによって、フランスに根強くある反イスラム感情を避けようとしているのだ。そんな人間模様が描かれてゆく。
 こみ入った語りの複雑さはないストレートな作品だから分かりやすい。英国で移民問題をたびたび映画化しているケン・ローチ監督流の社会批評の鋭さ、過敏さは希薄。ベクトルがまったく違うところで制作されている。善い悪いでいうのではなく、さまざまな描き方があるということだ。日本では、その手法論を語れないほど作品事例が少ないということだ。

瞽女を描く その3 金森敦子『瞽女んぼが死んだ』 瞽女、そして江戸和算(算額)の話

瞽女を描く その3 金森敦子『瞽女んぼが死んだ』

 作者の金森さんは、すでに特異な遍歴のなかで自己表現を全うした幾多の女性評伝を書き下ろしている作家として知られている人。寡作だが、いずれも他の作家が手をつけていなかった分野を敢然として踏査して、その作品は実に読み応えのある粒ぞろいの果実となっている。
 そんな金森さんに、本書のような小説集があることを最近まで知らなかった。収録されている作品の初出がいずれも同人誌という媒体であったこと、初版のみで絶版になってしまったからだろう。正直、本書の表題作のできからすれば、それもまた仕方がないかなと思う。
 若い瞽女さん二人の無理心中、と思われる“真相”を追う縦軸のなかで、越後瞽女さんたちの悲哀を描く、というものだが、語り口がすこしくどいところがあって、もう少し制御し、捨てるところは捨てる潔さがあっても良いと思った。しかし、金森さんにとって初期作品と思える本編で、すでに後年の取材調査を怠らないという姿勢が垣間見え、創作から評伝へステージを移して成功した才能の発芽がここにあると思った。

 本小説集のなかで、もっとも関心をもって読んだのが、埼玉の某神社にあった「算額」をみたことから発想された短編「算士とその妻」だった。
 江戸から明治初期、日本で独自の発展をみた和算がいかに地方、僻地まで浸透していたかを象徴する話である。豊とはいえない農民一家のなかで営まれていた高等数学の歴史が物語れている。「算額」とは、そうした市井のアマチュア数学者が編み出した高等数学の問題を例示し、その額をみたアマチュア数学者が必死にそれを解くという世界があった。
 江戸から明治、和算には関流・最上流・宮城流・宅間流など多くが存在した。それは、いわゆる芸道に似た世界であったのかも知れない。
 小説は、主人公の農家の青年が和算に見入られ、その妻もまた、和算の心得があり、数学を通して農村一家の春秋が描かれるという、これまで誰も手をつけなかったと思われる農村光景が展開するのだ。
 かつての日本にはそうした光景が実際にあった。明治維新後、急速に欧米文化を巧みに消化できた日本という国の知的土壌の豊かさというのは、こうした地方・僻村に営まれていた和算の事実をもってしても容易に理解できるものである。
 
 ちなみに現在、全国に「算額」がどれくらい残っているのかと調べてみると、全国に約820もあるそうだ。ほとんどが神社・仏閣に奉納されたかたちで残されているわけだが、その分布をみると、どうも幕末の政治に主役を演じた諸藩には少ないようだ。和算より国学に重点が置かれていたように思う。たとえば、北関東では群馬、栃木、北埼玉に多く。茨城には少ない。水戸藩が独自の国学を発展させていたことはいうまでもない。

アラル海の激しい後退   20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

アラル海の激しい後退
  20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

 
 ヒロシマの「原爆ドーム」を核戦争の象徴としてユネスコが世界遺産とするなら、今またアフガニスタンのバーミヤン石仏の破壊跡を人間愚行の証しとするなら、消滅しつつあるアラル海の荒廃そのものも収奪的経済がもたらした環境破壊の最大の現場として世界遺産とすべきだ、と思った。
アラル海

 想像を絶する光景だった。
 「ここは激しい波が打ち寄せる断崖絶壁だった」とタクシーの運転手が言った。
 しかし、見渡すかぎり広漠とした無彩色の空間がはるか彼方、地平線まで果てしなくつづいていた。
 第二次世界大戦の巨大な戦勝記念塔がそこに建つ。おそらく、戦勝塔は、ナチドイツの鉄の暴風によく耐え、戦い抜いたソ連人民の不屈の精神を象徴するのだろう。絶えず吹き寄せる海風を受け止める、そんな苛烈な場所に建てられた意図はそういうものだと思う。そう、戦勝碑が建立された当時、アラル海の波頭はその岸壁を洗い、豊かな魚影は近在の村を潤していた。しかし、岸辺ははるか彼方、二〇〇キロも後退してしまったのだ。
 「アラル海がここから去って、冬は厳しく、夏は過酷になった。ひどいもんだよ。美味い魚は食えなくなるし」とも運転手は言った。彼はカラカルパクスタン人、モンゴル族の末裔となる。母語はウズベク語の縁戚にあたるカラカルパック語だからロシア語が拙いのは仕方がない。文法はもとより時制もいい加減で、みな現在形で処理していると通訳してくれた在タシケントの日本大使館職員が言った。
 まだ四十年にも満たない前の話。タクシー運転手の幼少期には、アラル海は世界第四位、琵琶湖の約一〇〇倍の巨大湖であった。それが一九六〇年代から急激に水位を下げはじめ八〇年代には水面が一五メートルも下降し、湖面積で六二%、水量で八四%も減少し、現在は中洲が露呈して三つに分断されてしまった。涸れた湖底ではそこかしこで塩が凝固し、やがて風に削られ、微粒子となって宙に舞い上がる。そして、近在の農地に降り注ぎ、土壌を荒廃させているのだった。破壊の連鎖は止まらない。
 戦勝塔の建つ岸壁から三キロほど下ったところに漁港があった。かつて沿岸最大の水産加工工場をもったムイナクである。すでに岸と湖の境い目は消滅し、打ち捨てられた漁船、輸送船、そして沿岸の町をつないで航行していた小型客船の残骸があちこちに点在し、かつてそこが湖であったことを教えているだけだ。廃船は赤錆を晒して無惨である。甲板は指で押せばポロポロと剥離してしまうほど脆くなっている。
 アラル海はムイナクを見捨てたが、町はまだ生き延びている。しかし、ゴーストタウンといってもおかしくないほどの過疎状態だ。異様な静寂にみちている。映画館の扉が打ち付けられている。四、五階建ての公団住宅もあるが、人の気配がない。町の佇まいは立派だが荒廃感が著しい。子どもの姿がみえない。生活臭がまったく希薄なのだ。
 アジアやラテンアメリカのスラムは住民の過剰がその体臭とともに荒廃感を漂わせているものだが、ムイナクは住民の過少が町を“スラム”化し、冷たい風が人いきれを凍りつかせている感じだ。
 水産加工工場へ行った。かつて地域経済を支える柱であったところだ。正門の鉄扉には、湖から魚を捕獲する漁民の姿が描かれていた。絵具がまだ剥落せず残っている。つい最近まで操業していた、という印象だ。しかし、誰もいない。施設を管理する者もいない。
 最盛期には、年間四万トンの水揚げがあったアラル海の漁業はほぼ壊滅した。湖面積が縮小するのに比例して、残った湖水は塩分濃度を高めた。そして、カザフスタン側に分離して残された小アラル海でわずかに魚影をみるだけで、南の大アラル海側では魚影は消えたといわれる。
 ムイナクの町の入り口にたつ案内塔には、魚の絵が波の象徴とともに描き込まれていた。繁栄する漁港の面影は、住民たちの心にまだ生きている。アラル海はそれほど急激に衰退したということだ。

 アラル海は城壁をもたない遊牧国家スキタイの昔から中央アジアの人と自然を潤してきた。モンゴル族の侵出、ティムール帝国の盛衰、ロシア帝国の南進、そしてソ連邦に併呑され、やがて独立へと……人間社会の興亡に寄り添い、数千年のあいだワガママな人間社会に豊かな富を分け与えていた。人間たちもアラル海を畏敬し、さまざまな祈りの言葉ともに崇めてきた。仏教、ゾロアスター教、そしてイスラム教……祈りの言葉が貶められ、宗教をアヘンと見なした“労働者”の政府がはるか北方に誕生したときアラル海は荒廃へと助走しはじめた。
 ウズベキスタンの首都タシケントからティムール帝国のかつての王都サマルカンドを車で訪ねた。その道沿い、その左右にはてしなく綿花畑がひろがっていた。
 その大半が大戦後、クレムリンの命令型計画経済によって強制された土地改良、不毛の砂漠や荒蕪地を綿花畑に変える一大プロジェクトによって生まれたものだ。
 綿花栽培には多くの水を必要とする。
 ウイグル語で天山山脈をテンリ・タグというが、ここを源流とするのがシルダリア川。そして、七〇〇〇メートル級の高峰がつらなるヒンドゥークシュ山脈から流れ出す大河シルダリア、この二大河川の豊かな水量をソ連政府は無限のものとみなした。そして、両大河から乾いた大地に水を引き込む運河を通し、四通八達させて綿花栽培地を拡大しつづけた。
 この運河建設に大きな足跡を残したのは大戦直後、ソ連軍に抑留された日本兵たちだった。というより、ウズベキスタンの運河は日本の抑留兵の存在抜きにしては語れない。
 首都のタシケントをはじめ各所に祖国に帰還することなく息絶えた抑留兵士たちの墓地がある。過酷な運河建設にたずさわり、病いなどで倒れた兵士たちが眠っているのだ。
 首都タシケントにウズベキスタンのボリショイといわれる国立ナボイ歌劇場がある。華麗とはいいがたいが質実剛健でティムールの末裔たちの首都にふさわしい剛毅さはある。この劇場の建設に日本の抑留兵がかかわり一九四七年に完成した。抑留された日本の若者たちの血と汗の結晶といってよい。「若者たち」と書いたが、歌劇場の建設に従事した日本抑留兵は「タシケント第四ラーゲリ」に収容されていた。歌劇場の建設を担当した抑留兵隊長は当時、二十五歳の永田行夫陸軍大尉であった。みな若かった。
  ↓・・・・・ウズベキスタンの紙幣にも描かれるナボイ劇場
 UZS1_1994_back.jpg

 一九六八年、タシケントは都市直下型の大地震に見舞われる。スターリン時代に建設された建物の大半が壊滅したといわれる。しかし、ナボイ歌劇場はビクともしなかった。以後、ウズベキスタンでは、「日本人たちの優れた技術、誠実な仕事が堅牢な建物を残してくれた」との賞賛が定着した。
 ソ連から独立して以後、ウズベキスタンは、「わが国は日本と交戦したことはない。戦争はモスクワの政府がやったことだ」という“論理”で親日国であること宣明している。そのリップサービスに酔ったか、中央アジア五カ国中、ウズベキスタンは日本からの経済援助をもっとも多く享受している。しかし、政敵を非合法手段で逮捕、拘禁し、健全野党の存在すら認めないイスラーム・カリモフ大統領の“独裁”を擁護する姿勢は、欧米の人権諸団体からは懐疑の目で見られていることは認識すべきだろう。
 さて、ナボイ歌劇場建設でみせた日本抑留兵の堅実な仕事は、運河建設でも例外なく発揮されたのは当然である。当時の日本人の愚直なのだろうか、激しい労働にも関わらず慢性的な食糧不足、医療設備の不備、そして厳しい気候風土にも関わらず「手抜き」をしなかった。しかし、そうした仕事への誠実さは抑留兵たちの肉体を蝕んだ。多くの犠牲者を出した。コーカンド二四〇人、アレグレン一三三人、ベガワード146人、チュアマ三二人……と確認されているだけで八〇〇人以上の抑留兵が帰還することなくウズベキスタンの荒野に眠ることになった。
 戦後、運河建設に関わった人たちの手記や記録などが数種出版されている。けれど、その多くが私家版で広く読まれることにはならなかった。筆者が手にした自費出版を幾つか読んでみて、あらためて当時の日本人達の労働観、あるいは責任感の強さを知った。建設に携わった人たちが皆、「恥じない仕事」という意識をもっていたことだ。名が歴史に刻まれるわけではないが、「日本人の仕事」として残ることの意味を日本人として責任を待たなければならないと思っていた。日本人としての矜持が妥協を赦さない、という心根を皆、もっていたのだ。戦前の日本は、そうした美質をもった人たちをふつうに育てていたのだと思う。昨今、見つからなければ数本、鉄骨を抜いても、細くても安く上がれば 、それで良い。利潤を追求することを最優先させた“構造疑惑”など、ウズベキスタンの荒野で血と汗を流した人たちには理解できないことだろう。

 日本人たちが建設した運河は無論、現在も使われている。
 もちろん日本人に責任はないが、結果として堅牢に作られた運河はアラル海に流れ込むべき二つの大河の流れを急速に細くしてしまった。
 大規模灌漑事業は第二次大戦後から一九七〇年代まで引き継がれた。日本人たちが建設した運河から支脈も延びた。そうして七〇年代には六二〇万haの灌漑農地が造成されている。
 スターリン時代、綿花増産と運河建設の近視眼的な生産第一主義は、「やがてとんでもない自然破壊を引き起こす」と警告する農学者がロシアやウズベキスタンにも存在し、条理を尽くして反対していたという。しかし、そうした勇気ある学者は反ソ的存在として“粛清”されていった。また、ソ連邦中枢の科学アカデミーとその傘下に多数の研究機関が存在しながら、灌漑事業の推進による環境被害を食い止める調整制御機構をつくれなかったのは、生産向上というスローガンに乗らないと研究資金が政府から得られないという体制上の問題も無視できない。
 綿花栽培を主体的に担ったのはウズベク人であることは間違いないが、彼らはもともと遊牧の民であった。農耕を好まない民族である。しかし、ソ連政府はロマ族(ジプシー)の定住化を強制したように、中央アジア諸国の遊牧民の定住化を、イスラム教団の活動を停止させ、影響力を殺ぎながら推進した。
 一所不在の民族譜を織りつづけてきた遊牧民を定住化するには、生活の糧の創出がなければならない。急速な工業化社会が実現できない以上、農地を確保しなければならなかった。しかし、元々、痩せた地で収益を出せる換金作物は限られていた。伝統的な綿花栽培を拡大するのが一番、手っ取り早かった。しかし、綿花栽培には大量の水が必要だった。米国南部に綿花畑が広がったのは、カリブ海から吹き寄せる雨雲による降雨量があったからだが、中央アジアの降雨量の絶対値は少ない。そこで二つの大河から運河で水を敷くこととなったのだ。
 ラテンアメリカやアフリカ諸国の多くが旧宗主国から砂糖、コーヒー、あるいはバナナなどモノカルチャー経済を強いられ、今日まで構造的な貧困から抜け出させないでいるのと同じような状況によってもたらされた人災なのだ。クレムリンは中央アジア諸国にモノカルチャー経済を効率よく短期間で強いたともいえる。
 
 これまでウズベキスタンのアラル海として書いてきたが、正鵠を欠く。何故ならば、アラル海の沿岸を持つ地はウズベキスタンではなく現在、防衛と外交権をタシケント政府に委ねているカラカルパック自治共和国なのだ。ソ連邦崩壊後、短期間、「独立国」として存在いた時期もある。その独立以前、この小国は世界から弧絶した「封鎖国」であった。
 一九三〇年にスターリンはこの小国に「調査団」を派遣した。この国に散在する歴史的建造物の「科学的調査」を実施するというのが目的だった。調査の本当の意味は、いかにモスクワ政府に従わせるかの一点のみ。調査の結果として、一〇〇のモスクと二〇のマドラサ(神学校)が三四年、たった一年間で取り壊された。ただ破壊されたのではない。モスクなどの廃材はそのままソ連スタイルの役所などの建設資材として活用されていったのだ。
 カラカルパクスタンの首都はヌクス。中央政庁前の通り駱駝が日がな一日、寝そべっているような町である。その政庁の周囲には旧ソ連各地でみかける無彩色で堅牢な建物が幾つも建っているが、その建材にモスクやマドラサの廃材が使われたわけだ。こうした宗教破壊はロシア革命後、全土に及んだ。そして、イスラム教国では宗教施設が、宗教を否定する役所の建材に転用された。こうしたことが集約的に起きたのがコロンブスのいわゆる〈新大陸発見〉以後のアメリカ大陸、特にマヤ文明、アステカ帝国があったメキシコから中米諸国であった。ピラミッド型の広壮な神殿は次々と破壊され、その神殿跡地に山積した石材を組み直してカトリック教会の大伽藍を作ったのだ。
 現在、新大陸一の規模を誇るメキシコ市のカテドラルはアステカ帝国の中心地に、神殿を破壊して建てられたものだ。その地下には、幾層ものアステカ期の遺構がいまも眠っている。そう、スターリンが中央アジア諸国で行なった宗教施設の破壊は、スペイン征服軍のエルナン・コルテスやペドロ・デ・アルバラードなどがやった蛮行と基本的に変わらない。
 スターリンの犯罪は宗教者への弾圧で加速した。カラカルパクスタン政府の資料によれば、宗教施設の破壊の完了とともにはじまり三七年から翌三八年に掛けて約四万一千人が逮捕され、七千人が処刑された。おそらくカラカルパクスタン人の抵抗はつづいたのだろう。三九年からスターリンが亡くなる五三年までに約10万が逮捕され、一万三千人が処刑されたという。逮捕者のなかにはシベリアなどのラーゲリに送られ、獄死したものも多かったはずだ。そうした犠牲者の存在は、現在でも総人口百五十万の小国にあっては知識人と宗教者の大半が消された、ということだ。当時のイスラム社会にあって知識人とはイスラム神学者、高位聖職者であることも意味した。
 こうして抵抗勢力を徹底的に殺いだ後、スターリンはカラカルパクスタンを「封鎖国」として外国人の入国を制限し、ヌクス郊外に地元民をまったく雇い入れない秘密軍事工場を建設し、さらに、アラル島の孤島ボズロジェーニエに生物兵器を研究・開発する赤軍直轄の研究所を設立し、炭疽菌やペスト菌などによる動物実験を繰り返していたという。同島にはソ連軍侵入以前には漁民が暮らしていた。その住民が何処へ強制移住させられたか不明だが、無人となった島に赤軍が生物兵器の実験場としたのは、カラカルパクスタンにソ連の強制執行の「調査団」が入る前年の三六年であった。
 ソ連邦崩壊後、九一年に赤軍撤退にあたって施設は無菌状態に戻され、完全封鎖して引き上げたといわれた。しかし、約一〇年後の二〇〇〇年に米国の疫学調査団が入島、殺菌され地下数メートルに遺棄されていた炭疽菌の胞子数一〇トン(!)のうち一部が生きていることが確認されたという。同調査団は無論、緊急処置を施し、細菌の流出を止める処理し、本格的な除去をできるだけ早い時期に実施するということになっているが、現在のところ、その作業はまだ済んでいない。
 同研究所の細菌の一部がなんらかの理由で漏洩し、カザフスタン沿岸周辺で八八年にはペストが流行し、八八年には家畜五〇万頭が原因不明の病気で死んで、周辺住民に避難命令が出たことがあった。
 かつての漁港ムイナク周辺の乳幼児の死亡率がウズベキスタン平均を上回り、アラル海の後退による何らかの原因と予測される。

 アラル海から揚がった水産物はムイナクだけでなく水量の豊かだったアムダリア川を遡上して首都ヌクス郊外に岸辺に作られた加工工場に運ばれた。その工場も現在は閉鎖され、従業員の宿舎は空き家となった。工場で働く従業員のほとんどがロシア人であった。ソ連崩壊後、ロシア人は引き上げ、空き家となった宿舎に地元民が入居した。その村に住む老人の案内で、「アムダリア川が消滅している場所はすぐそこだよ」ということで案内してもらった。
 そこにも漁船、小型輸送船や係留されたまま朽ち果てているのだった。その一艘の船体には「レフ・トルストイ号」とあった。
 「すぐそこまで水量はあったんだ」と老人が示す辺りから、数十メートル先まで下降したところに細い流れがあった。無論、大河の面影はまったくない。
 村の近くの路上で魚をビニールシートの上にならべて売る人たちがいた。アムダリア川から獲ってきたものだが、こんな魚も数年後には揚がらなくだろう。
 ウズベキスタン政府は非公式だが、アラル海の再生をあきらめたという。アムダリア川とシルダリア川の水量をかつてのように戻し、アラル海に注ぐ量を増やすためには膨大な綿花畑を潰さないといけない。そこで生計を立てる農民の再就職先を確保しなければできない相談だ。それに綿花の輸出に頼る経済構造を急激に替えるわけにもいかないし、同国東部のファルガナ盆地では地域格差を放置するカリモフ政権に対する根強い反対勢力が存在し、二〇〇五年には中央アジア諸国が独立して以来、最大規模といわれる暴動、それを鎮圧するための過酷な弾圧が行なわれ女性や子どもを含む五〇人以上が殺されている。これ以上、貧しい農民の生活を困難にする施策は絶対にとれないのが同国政府の現況だ 。
 ただ、同じような独裁的な国家であるカザフスタンだが、独自に同国領で分離して残された小アラル海では漁獲が認められること、保全が可能ということで水量維持するためのダム建設、及び南の大アラル海につながる水路を封鎖する工事が進められている。この一連の工事のためにカザフスタン政府は世界銀行から多額の資金を借り受けている。この返済に見合うだけの価値が小アラル海の一連の再生事業に見合うものかどうか、それは先の問題である。ダムは永遠に使用できるものではありえないし、世界的な傾向としてダムそのものの見直しが始まっている。それに、これまで世界銀行が融資する、いわゆる「開発援助」事業の多くが広大な環境破壊に繋がっていることは周知の事実で、たとえば“ 地球の肺”と呼ばれるブラジル・アマゾン地帯の荒廃に拍車をかけたロンドニアの植民事業に世銀が積極的に融資した。一九九七年、インドネシアの熱帯雨林二六万ヘクタールが消失し、隣国のマレーシア全土まで煙幕で覆った“人災”も世銀が融資した開発事業計画に遠因がある。世銀の絡んだ“人災”は一九六〇年代に開発途上国を対照に開発融資を行なうようになってから、地球の各所で引き起こされるようになった。

 ムクスの博物館で三〇年ほど前にモスクワで発行された豪華な写真集〈今日のウズベキスタン〉を売れ残っていた。退色した表紙をめくると綿花の収穫が飛躍的に伸びた、と自画自賛する本であることが分かる。農民の顔は晴れやかであり、役人も自信に満ち、灌漑用水に勢い良く水が流れている。言うことなし。計画経済の勝利、社会主義バンザイである。しかし、そのバンザイはアラル海の荒廃を告げる晩鐘であったのだ。 2007/6

映画『ディストラクションベイビーズ』真利子哲也監督 荒ぶる衝動を制御しなければ

映画『ディストラクションベイビーズ』真利子哲也監督
柳楽

 かいなでの倫理観など怖気づく映画だ。
 世界の現実はとめどない「暴力」に溢れ、無数の殺人が横行している。同種族を生命維持という“志向”の目的以外で殺すのは人間だけだ。映画という娯楽の最大の魅力は「暴力」そのものなのかも知れない。それは、人間によって人間のために描かれる最良の人間の「慰安」なのかも知れない。だからとめどもなく「暴力」が描かれる。そして、その行為にはそれぞれ意味、理由がたいてい存在することになっている。その意味、理由といったものが、昔の左翼用語でいうなら止揚=アウフェへーベンされてしまったら、暴力も殺人も底なしの輝きをもってしまうのかも知れない。ふと、そんなことを考えさせられる映画だ。
 
 新作映画はたいていマスコミ試写室でみてしまうが、そういうところでみると観映後、ロビーに出ると宣伝会社の人が待ちかまえていて、まだ未分化でかたちにならない批評めいた感想を求められたりする。いつも呼び止められないように気をつけて擦り抜けるようにしている。本作ほどなかなか文節がうまく繋がらない映画も珍しかった。カタチならない苛立たしさを覚えたのは稀有な体験だ。それだけ本作には突き抜けた孤高性があると思った。
 主題は荒ぶる少年の暴力そのものである。その暴力が日常空間のなかで描かれる。地域社会に根を張った暴力団の抗争ではない。ひとりの少年のまったく不条理なストリートファイティグの日々が描かれてゆく。それは自傷行為と紙一重なのだが、少年の生活実感は暴力に埋没してゆくなかで華となる。
 暴力少年を演じるのは柳楽優弥。『誰も知らない』(是枝裕和監督)でカンヌ国際映画祭で日本史上最年少で主演男優賞を受賞した才能だが、本作のかかわりでいえば『包帯クラブ』(堤幸彦監督)で演じた高校生役につながる作品だろう。その高校生は他人の痛みが理解するために、自らその被体験者となって、いつもどこかを怪我をしている、といった少年だ。現実ばなれした存在であるが、柳楽が演じると、さもありなんと思わせるオーラが生じる。そのオーラが拡大肥大し最後まで増殖しつづける恐さを演じたのが本作の柳楽だ。

 1981年生まれ、本作が初の商業映画となった真理子監督の高揚感が柳楽の身体を通して、奔放に解き放たれる。監督の異能ぶりはこれからの作品への期待を十分、予測させるものだ。
 本作をみて、現在、日本各地で現実に生起する少年たちの暴力行為と連動させて批評するむきもあろうが、それは回路が違うと思う。愛媛県に実在したとされる男をモデルとしているとのことだが、映画で造形された少年の暴力はいわば浄化されたもので、犯罪行為によって得られる“利益”という充足性はまったくないのだ。といって反省もないし、悔恨もない。暴力によって自分が負け犬となり、そこで命を落としても慫慂と受け入れ、相手を怨むわけではないだろう。「死」、それもまた自ら招いた結果、あるいは“成果”だと受け入れる度量のようなものがあるのだろう、そういう地平に立っている暴力だ。ここまで粉飾を捨て去って感傷性をすこしも帯びない監督の演出力、そして柳楽の解釈に敬服 する。
 観たからといってタメになるような映画では全然ないし、やくざ映画を観終わった後のアノ名状しがたい爽快もあるわけではない。しかし、不快ではない。その意味ではまったく新しい映像が発現したこと、それを同時代に立ち会えた共生感を持つことが出来たという自分自身・・・・・・その、まだまだしなやかであるらいしいオレ自身の感性への信頼を見出せたことへのの充足感でもあった。

瞽女を描く その2 木下晋の鉛筆画

瞽女を描く その2 木下晋の鉛筆画
木下晋 002

 黒、は精神の深奥を覗き込むに相応しい色。鋭利の刃物のような色でもあり、また人知れず闖入する狡猾さもそなえた色なのかも知れない。 モノトーン、現代絵画に謀反を興すかのように鉛筆の先で精緻な描写を展開し、人の肺腑を抉るような画家・木下晋の世界は峻烈だ。自己に厳しい世界だ。
 木下は皺に履歴を刻印した老人たちを追い描く。のっぺりとした手業の輪郭線だけで処理できるような若者は描かない。まるで皺にドラマをみるように皮膚に溝をつくって描きだす。
 その一連の木下の世界に、越後瞽女小林ハルを描いた連作がある。全貌は知らないが、「97歳のいきざま」(1997)という表題をもつ肖像には魅かれる。すでに雪深い山道を素足で経巡った「角付け」業から引退して長い歳月を経て、その時期は老人ホームのようなところで暮らしていたはずである。しかし、画家は〈元ごぜ〉とは書かない。ごぜの魂をそのままに老いゆくハルを描く。当時、ハルさんは瞽女歌を録音している。それはマイクを前にした「角付け」であった。ひとりでも聴衆がいれば、それは真剣勝負の世界 となる。木下のハルさんは、白髪を短く切りそろえ、昔日の面影はないが、いまも厳しく身を律して過ごしています、という自己に厳しい姿勢をうかがわせる肖像だ。ハルさん、とは書かれておらず、下向きの姿勢で表情がうかがえない老女図に「胎内回帰」という同年の制作画像がある。画家は、まもなく黄泉の世界に旅立ち、こんどは晴眼者としてどこかに再生するだろうと願っているような絵だ。<
 「小林ハル展」と謳った個展を新潟で開いているが、東京あたりでもやって欲しいと勝手に思っている。
 ごぜさんの絵というと斎藤真一さんが連作したような、「角付け」行脚の制服としての旅装図であるが、木下は自分がみていない旅装を想像や資料で描こうとは思わない。

韓国映画『弁護人』 若き日の蘆武鉉元大統領を描く

韓国映画『弁護人』 ヤン・ウソク監督
 o0605032812975482227.jpg
 隣国というのはどの国にとっても疎ましい存在となるものだ。その疎ましさを自覚しつつ国政にあたるのが善き指導者となるのかも知れない。隣国であるが故、歴史的な相克は累積するし、隣国の歴史や文化、風俗などは折りに触れ、生活に入り込んでくる。近隣住民に隣国の知人や友人をもっていたり、仕事仲間にも存在するというのは日常的な光景だろう。そして、その隣人とひとたび齟齬をきたすと、その人の属性としての国籍がひとり歩きしたりする。

 日本にとっての最隣国はいうまでもなく大韓民国。公共交通の表示板などにハングルが表記されるぐらい多くのビジネスマン、観光客が訪問しているということである。ちょっと前まで韓流ブームというのがあった。大久保の町はそれで大いに賑わっ たが、いまはすっかり潮がひいた秋の浜辺だ。溢れんばかりに韓国映画も入ってきて、六本木には専用映画館化した小さなシネコンまであったが、2年ほど前に閉館してしまった。必然、韓国映画を観る機会は減ってきている。私的にいえば、少々、韓国映画には食傷気味であった。韓国料理のこってり感そのままという感じのクドイ表現にうんざりした。そうゲップが出るほどだった。今でも、多くの試写状が舞い込むが、すっかり厳選して行くようになってしまった。
 というわけで久しぶりに試写室に足を運ぶことになった韓国映画が『弁護人』(ヤン・ウンク監督)。韓国では屈指の演技派として知られるソン・ガンホ主演。この映画を選んだのは、クレジットで若き日の蘆武鉉元大統領の若き日を描いていることを知ったからだ。
 観映後、蘆元大統領(任期2003~08)の履歴を調べ、映画の起承転結を振り返る。映画特有の作為、都合よく折りたたまれているエピソードもあるが、ほぼ事実を象徴化していることを知った。と同時に開発独裁型のスーツを着た軍事独裁政権下にあった韓国の政治状況というものが、庶民の目線から描かれている点に好感がもてた。韓国の大統領は毀誉褒貶も含め、独立期、朝鮮戦争時代、開発独裁時代、民主化時代と・・・それぞれ実に個性的な人たちが主導していたことが分かる。
 蘆武鉉青年・・・日雇い仕事に汗しながら刻苦勉励の末、司法試験に合格、若き弁護士として“実業”の世界に船出する。実業を強調するのは法廷での活動より、不動産関係の手間ひまの掛からない法的処理の便利屋として実入りの仕事を選科にこなしていたからだ。そう、開業当時の蘆弁護士は政治にまったく無関心、ノンポリ個人主義者、金儲けのためならプライドを捨てることも厭わない。そんな拝金主義者の面もあった。もちろん彼にも韓国人としての誇りはあった。しかし、それは歴代政権が韓国人はかくあるべしという路線に順応するもの で、資産は出来た、これからも増えるだろう、ならば来たるソウル五輪のために、選手層の薄いヨット競技に国を代表して出場し、メダルを獲って国威発揚に貢献したと、余暇をセーリングに捧げるような男であった。それもまた個人の生き方だ。

 そんな若き弁護士に転機が訪れる事件が起きた。
 懇意していた焼肉屋の息子が北朝鮮のスパイ容疑で拉致・監禁され拷問の末、捏造された反政府活動家として自白を強要されたのだ。この事件の真相解明に取り組んでいくなかで人権派の弁護士として転進し、やがて左派新自由主義者として国民の支持を受け、大統領に選出される。映画は、学生に掛けられた冤罪を究明する裁判劇がクライマックスとなる。
 いまさら、韓国現代史の一こまを活字で勉強するのは面倒だと思う人たちには好個のフ ィルムだが、制作から3年目にして日本公開がきまったという時差そのものが、今日の日韓間の冷え込みを象徴しているかも知れない。
 ▽11月中旬、東京地区公開予定。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
08 | 2016/09 | 10
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。