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『原爆下のアメリカ』 (原題Invasion,U.S.A) アルフレッド・E・グリーン監督

『原爆下のアメリカ』 (原題Invasion,U.S.A) アルフレッド・E・グリーン監督
 原爆下のアメリカ
 レンタルビデオ屋さん供給用にと、倉庫払底作業のなかから発掘されたようなB級SF映画。邦題、原題もまた、なんとも工夫のない直裁なものだが、そこに冷戦時代の“熱戦”が象徴されているとみてよいのかも知れない。
 全米を魔女狩りの恐怖で覆った非米活動委員会が本格的にはじまった1953年制作の作品ということでも見落とせないし、そんな状況下ではじめて「核戦争」を主題とした映画として制作された。核実験で地層が変化し蘇生した原始怪獣が日本列島を襲う映画『ゴジラ』が制作されるのは、その翌年だ。
 シベリア経由でアラスカに侵攻した国を映画では特定していないが、ソ連に決まっているわけだが、その軍人たちの制服や仕草・動作、居ずまいは間違いなくナチドイツ軍から援用されている。“鉄のカーテン”で遮蔽された向こうの現実は当時、隆盛期のナチズムと対置しうる恐怖感が米国にあった、とみるべきか。非米活動委員会の存在は、その裏返しのようなものであるわけだ。
 映画は「近未来」モノとなるが、近未来の「映像」はすべてアーカイブ映像の流用という安易さ。
 ニューヨークのとあるバーで語り合う男女6人の井戸端会議的な時局談義の最中、店内のテレビが「アラスカが軍事侵略された」と臨時ニュースを流す。以降、米国各都市が次々に原爆が投下されてゆく。ニューヨークすらも。しかし、映画での「原爆」は通常兵器の巨大版という扱いで放射能がもたらす被害などまったく考慮されていない。つまり、この時期、米国映画界はヒロシマ・ナガサキの核被害の実態はまったく共有されていなかった時期で、政府自身が隠していた。この時代を諷刺したパロディ映画『アトミック・カフェ』が後年制作されるが、権力犯罪の一端を例証できる映画のサンプルともいえるのが本作だ。
 冷戦下、米国では繰り返される核実験によって多くの兵士が放射能被害にあっている。兵士自身もそれに気づかず退役後、多くの兵士が深刻な後遺症のなかで苦しんだ。政府に責任を問うのでもなく沈黙のなかで死んでいった。民衆の無知は、こうした映画からも生み出されるということだ。
 日本でも1954年に公開されているということだが、当時、どんな批評が出ていたのか興味を抱く。B級映画として無視されたのだろうか。
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旅、精神の拡張 映画『奇跡の2000マイル』  

映画『奇跡の2000マイル』 ジョン・カラン監督*オーストラリア映画 
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 旅を精神の拡張、といったのは誰だったか。
 私自身、おそらく地球を何周分もまわる旅をしてきた。それは私にとってハートの底に貯蔵された貴重な財産だ。今となっては計算しようもないが旅に費やした費用は大変なものだったはずだ。流した汗(冷や汗も含め)の量も溺死するようなものだったかも知れない。貧乏家庭の長男に生まれた団塊世代の尻尾に位置する自分が、これだけの旅をよくまぁしてきたものだと今更ながらに感心する。
 旅がいきなり長足の態をなすようになったのは中米グァテマラに活動の拠点を移してからだが、その前章がある。
 ソ連邦崩壊直前、ゴルバチョフ書記長時代にモスクワに仕事で滞在することが決まっていた。当時、五反田にあったノーボスチ通信社のアジア総局を通して、すでにモスクワでの住居すら決まっていたのだ。後は、モスクワから受け入れ態勢が整った、という知らせを待つばかりであった。しかし、そうならなかった・・・・・。
 当時、ソ連邦は末期的症状を晒し、ふだんでも官僚主義的な事務処理の停滞はさらに拍車をかけていた。むろん、それは折り込み済みで悠然と待機していたつもりだった。周囲には隠密の行動であった。モスクワ行きに反対されることは明らかだったからだ。いま、行ったら混乱に巻き込まれて、居場所もなくなるのでないのか、という声はむろん、近しい人間のあいだにあった。「その混乱をなかからみたいのだ」という私の思惑を理解してくれそうな人は少数だった。モスクワ行きは大幅な収入減となるものだったが、それに換えられない崩壊の臨場感を味わいたかった。
 そして、モスクワ行きはいきなり頓挫した。ソ連邦の崩壊は予想より早く、そして、五反田の担当者は雲霞と消えてしまったのだ。自分自身は、こんなことが自分の身に起こりえるのか、とかと白日夢のなかに浮遊している時間すら生じた。
 そうして、私は切れてしまった。
 当時、勤めていた職場での仕事はつつながく済ませての隠密行動であったから、失職するわけでなく、何食わぬ顔で通っていれば社会部部長という地位は安泰だったのだ。しかし、やる気は漸減していき、やがて消滅した。その暮れから正月を中国南部をバックパッカーで旅してからますます日常を取り戻すことができなくなった。その旅は、なにものからの精神の解放であったし、数ヶ月後、北の大国とは真反対の南の小国を旅することになった。メキシコ入り、グァテマラやエル・サルバドルを巡る旅は私にとって、精神を入れ替えるような再生、と思うような旅となった。
 そして、退職した。爾来、今日までフリーランスの身分となった。
 グァテマラに在住することになってから、旅は日常になってしまった。

 本作は2013年、日本公開は15年夏。オーストラリア映画。実話である。〈旅〉を主題とした映画はいつも気に掛かってしまう。一言触れないとなんとなく気持ちが悪いので、少し触れておきたくなった。初見は小さなマスコミ用試写室であったが、砂漠の広がりをきっかり感じさせてくれた。
 ベストセラーになったロビン・デヴィッドソンの旅の回顧録が原作。オーストラリア西部の砂漠2000マイル(約3000キロ!)を数頭のラクダと歩いて横断した女性の記録だ。ロビン(ミア・ワシコウスカ)は人生の行き詰まりを感じ……その内実は了解できないが、ワシコウスカの微妙な表情になんとなく感じる。所詮、内面の行き詰まりなど、その内実は他人には窺い知れない。
 自ら困難を引き受けるドラマティックな旅をしたい、しかし、挫折することなく成功させるために綿密な計画を練る。そんな彼女の姿を思いながら、ぺロストロイカの激流のなかでモスクワ行きを模索しはじめた自分を思い出したのだ。
 
 1977年、ロビンは砂漠の旅の足となるラクダの習性、調教を学ぶことからはじめる。映画を通じて、はじめて知ったのだが、現在、ラクダがもっとも暮らす国はオーストラリアであった。なんと100万頭が生息しているという。サハラ、中央アジア、シルクロードの陸の小船ではないのだ。
 大英帝国の遺産というべきか、アラビアのロレンスの子孫たちは北アフリカ地域からオーストラリアに運び、砂漠の足として使いはじめ、やがて、人の手から離れたラクダは各地で野生化し自然増を招いたということだ。映画にも野生化したラクダが登場し、ロビンの旅を脅かしたりする。
 旅にはそれなりの資金が必要だ。ラクダの調教中にロビンはそれを思い知る。そこで、旅の途上を数回、取材させるという条件でナショナル・ジオグラフィックの支援を受けることになる。孤行のロマンは現在ではなかなかゆるされないのだ。
 ロビンはとても個性的な女性だ。個性的な情熱の持ち主とでもいおうか、3000キロの砂漠を走破しようと計画するだけでも特異な個性となるが、旅の途上でも、いわゆるサファリ・ルックといった冒険行のアンティムをまったく無視し、おしゃれなロングドレス、避寒地の浜に似合いそうなイデ立ちで砂漠の灼熱のなかを進むのだ。
 旅そのもにおおきなドラマがあるわけではない。容赦なくふりそそぐ太陽はロビンの肌を焼く。乾き、孤独・・・・・・自ら熱望した旅だが、旅の意味に疑問が生じる。そういうことは快適な長旅でもしばしば自らを問い詰めることがある。取材に来た男と淡い恋心を抱き、一夜をともにするというエピソードがたまにあるくらいだ。しかし、その恋心も淡ければ旅の阻害にならない。あっさり、男を無視し、ロビンは進む。・・・そんな旅が白熱した光景のなかで綴られる映画だ。
 
 旅は貫徹され、やがて一冊の本に結晶しベストセラーになる。旅の収支決算はプラスとでるわけだが、人生の旅はつづく。いま、ロビンははたして、どのような日常を送っているのだろうか?旅で精神の拡張作業が終われば、また旅心が頭をもたげてくるはずだが。

アリシア・アロンソ、そしてキューバの若き才能 映画「ホライズン」  アイリーン・ホーファー監督

映画「ホライズン」  アイリーン・ホーファー監督
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 生きて伝説となる、という賛辞があるが、それに価するほどの超人的な「人間」はめったにいやしない。
 テレビや映画、スポーツ界での抜きん出た才能というのはあるけれど、安易にレジェンド=伝説と冠されると鼻白夢む。最近、安手のレジェンドが多すぎる。
 アリシア・アロンソ、キューバが生んだ不世出(という献辞もある)のバレリーナ。彼女のような巨(おおき)な才能、その努力と献身も含めて“生きて伝説”の体現者というのだろう。本作は、96歳の現在、すでに視力を失いながらもキューバ国立バレエ団の芸術監督という要職にあるアロンソの来歴を描きつつ、現在の同バレエ団のプリマ、ヴィエングセイ・ヴァ<ルデスの日々の研鑽、そして、同バレエ団所属のバレエ学校の通う14歳の少女アマンダの生活を追う、三人の日々の交錯をバレエを通して描いたのが本作だ。三世代それぞれのバレエへ賭ける思いを通しながらバレエ芸術の永遠性を象徴するのだが、監督の意図はアロンソの影響力の大きさに比重が置かれているように思う。
 20世紀後半のバレエの世界に「亡命」というキーワードがある。それはバレエ大国であるという誇りと不遜を両立させていたソ連邦ロシアに生じた。はなやかなバレエの至芸を外交儀礼の一場に活用しながら、それに相応した処遇を舞踊家たちに与えず、自由を奪いつづけた。パリに逃れたルドルフ・ヌレエフ、ニューヨークに自由を求めたミハイル・バリシニコフの亡命譚はそのまま映画の素材となる劇的なものだが、彼らほど高名ではないにせよ、ロシア革命前後に亡命した舞踊家、振付師、舞踊指導者たちは実に多い。日本にバレエの種を蒔いたエリアナ・パブロワもまた革命を逃れた才能であった。
 何故、こんなことを書かといえば、アロンソの履歴は母国キューバに革命政権が樹立した後に本格的にはじまったと思うからだ。
 革命の成功はアロンソ39歳のときである。凡庸な才能なら引退するか一線を退く覚悟を強いられる年齢となる。現にアロンソはハバナにあって自身のバレエ団を設立、後進の指導に力を入れはじめていた。このバレエ団が革命後、国立バレエ団となり今日
まで持続する土壌つくりとなった。そのホームベースはハバナ旧市街に建つスペイン・ネオバロック調のガルシア・ロルカ劇場(現在、改名されアリシア・アロンソ劇場)。
 10年ほど前、当時、劇場の舞台袖奥、中二階とも中三階とも、なんとも形容しかねる位置に仮説された国立フラメンコ舞踊団事務所で広報担当者にインタビューしたことがある。現在はハバナの重要な観光資源としてリノベーションされたようだが10年ほど前はそんな感じだった。劇場の老朽感は覆うべくもなかった。アロンソはそんな劇場のなかで70歳を超えて踊りつづけていた。
 映画のなかでアロンソはフィデル・カストロの同志として繰り返し写される。アロンソは革命政権に全幅の信頼をおいている。それは疑いないものだ。そのあたりはソ連邦ロシアのプリンシパルたちとは決定的に違うところだ。
 そして、アロンソの功績を認めつつも率直に思うのだが、彼女の存在は後進たちが目指す高見であると同時に、重圧となっているのでないか。視力を失ったアロンソが『コッペリア』の練習に励むヴァルデスに対して繰り返しダメ押しをつづける光景が描かれる。そこでヴァルデスが反撥し、自分のやり方で表現したいと思っても、アロンソの名に気圧され沈黙を強いられているように思えた。そうした光景は、“老害”とさえ思える。いかに偉大な人間でも引き際があるはずだ。日本には万節を汚さず、という言葉があるが……。  
*11月12日より東京都写真美術館ホール他で公開。  

エル・サルバドル 「国民的歌手アルバロ・トレス」の活動

国民的歌手アルバロ・トレスの活動
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 その頃、能天気ともガサツとも思える中米地峡のクンビアのあいだを抜けるようにときどき、清涼な風のように届く声があった。その声がエル・サルバドル出身のアルバロ・トレスのものであることを知ったのは、首都サン・サルバドルの複製カセット売りの青年からだった。その頃とは、エル・サルバドルが内戦下にあった90年代後半である。

 今年4月、中米エル・サルバドルの国民的、と言ってよい歌手アルバロ・トレスが3年ぶりに新作アルバム『オートラ・ビダ』を発表した。キューバ・ツアー中での発言だった。トレスの名を聞くと、私はたちまちサン・サルの高温多湿の街頭光景が、その暑気とともによみがえってくる。
 トレスにとって2度目のキューバで、初ツアーは2011年に実現している。当時のビデオが残っていてハバナ旧市街を散策中、トレスの存在を知った市民たちが歓迎の思いをこめて彼のヒット曲「ナダ・セ・コムプラ・コンティゴ」を和す場面はなかなか感動的だった。
 エル・サルバドルの歌手としてはじめて音楽大国キューバでのツアーを成功させたことはすでに多くの中米メディアは伝えられている。
 キューバとエル・サルバドルは、現代史において特異な親密性がある。
 1980年代、エル・サルバドルは中米紛争のなかにあってもっとも悲惨な内戦を展開していた。米国のオリバー・ストーン監督の映画『サルバドル』や、近年では『イノセント・ボイス』でも内戦の深刻な状況が描かれていた。本格的な内戦がはじまる前、日本の企業経営者が警察と反政府武装組織とのあいだに起きた銃撃戦に巻き込まれて死去する事件もあった。その内戦下、政府軍に対峙した反政府武装組織ファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)の指導部が避難地として、また負傷者たちをキューバは受け入れていた。内戦後はキューバの医療団が送られ各地で活動した。現在の同国マウリシオ・フネス大統領は内戦後、合法政党化したFMLN出身である。

 今回、トレスのことを記したと思ったのは9月下旬、首都サンサルバドルの女性ガン患者を治療する病院内で、百人ほどの患者を前に小さなコンサートを開いた記事を読んだからだ。
 トレスの全盛期は1980~90年代であった。これまで30枚以上のアルバムを発表しているが、その大半が祖国での自由な活動がゆるされない時代の制作であった。おそらく平穏な時代であれば、母国エル・サルバドルだけでなく中米諸国でのセールスは飛躍的に伸びたはずだが、社会状況がそれをゆるさなかった。
 トレスの歌には社会性は希薄だ。おだやかなポップスであり、基本的にボレロだ。内戦下のエル・サルバドルでは大衆は各地に拠点をかまえるローカルなクンビア・バンドのリズムに乗せて踊っていた。トレスにもクンビアやレゲェのテイストを取り込んだ歌がある。しかし、そうしたリズムを使いながらも、すべて、おだやかなトレス節に仕立てる、そんな歌手だった。戒厳令下の夜、外出が禁じられた家のなかを癒す音楽にトレスの愛の歌があったのだ。同国がもっとも苦難に満ちた時代の民衆によりそった癒しであった。 女性ガン患者を前にしたアットホームなコンサートは国内ツアーを準備中の出来事であった。  

花もつ女たち №.73 小倉遊亀(日本画家*1895~2000)

小倉遊亀 (画家*1895~2000)
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 20世紀という激動の時代、年号でいえば明治、大正、昭和、そして平成の世までまるごと生きた画家。104歳の現役の画家としてパリで回顧展を開き賞賛された才能。老いることに抵抗するのではなく行く川の流れをわが身にみるように眺望しながら生ききったひと。
 代表作として知られる幾多の人物像などを差し置き、101歳の秋に仕上げた作品「マンゴウ」を取り上げるのは、生涯点数も多く、たぐいまれな軌跡を描いた閨秀(けいしゅう)画家を象徴するには不適当だという声も出るだろう。それを承知での引用だ。その理由は、創作にかける表現欲求を生涯、枯渇させることなく筆をとりつづけた画家の宿 命というものは、この絵に明晰に留められているように思うからだ。この絵にはいささかも老醜のたわみもなければ隙もない。画面の隅ずみまで画家の充実した観照の世界、そのひろがりを感じさせる。この絵については完成まで身近にみていた孫・小倉寛子さんの貴重なルポ的エッセイがあって、遊亀という画家の天性の資質をみる思いがする。
 遊亀という雅号をもったとき、さすがに「亀」ほどの天寿を迎えるほどになるとは思っていなかっただろう。けれど亀のごとく心置きなく絵筆で「遊」ぶ余裕は失わないように心がけたであろうか・・・。
 世間的な評価では「O夫人坐像」(1954)、「裸婦」(55)、「小女」(57)、「母子」(62)、「兄妹」(64)といった表題から もうかがえるように穏やかで親密な人物像に傾斜して当然なのだが、子どもたちの肌の色艶を描き出すアンチミストな筆の緊張や、筆先へその心情をつたえる感動のそよぎは、「マンゴウ」でもいささかも損なわれていない。もちろん、「マンゴウ」以前にも果物皿やさまざまな形態の器にもられた果実群の絵を繰り返し描いてきた習練の賜物でもある。「マンゴウ」は、その年、院展にも出品し世評を仰ぐことにもためらわなかった。そういう101歳を迎えてなお現役であることに自覚的であった。
 「マンゴウ」図は世評もたかい人気図になって木版画に複製されて流布することになったし、某作家の小説集の挿画にもなった。
 101歳の創作が雄弁な説得性を備え、広く迎えられた、そのこ とも美術史において特筆される記録だろう。

花もつ女たち №72 有吉佐和子 (小説家*日本 1931~1984)

有吉佐和子(小説家*日本 1931~1984)
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 本連載では小説家をほとんど扱ってこなかった。紹介するからには著作の大半を読破してと・・・・・・私なりのこだわり、それなりの誠実さでアプローチしようと思えば思うほど、取り上げずらくなった。というわけで、職能的なカテゴリーのなかで、もっとも紹介が希薄な「作家」群となってしまった。

 無論、その類い稀な才能を畏敬していた。しかし、十分に読んだとはいえないので躊躇してきた。今回、思い切って取り上げようと思ったのは、実娘・有吉玉青さんの自伝的エッセイ『身がわり』を読んだからだ。玉青さんの聡明な文章力が母・佐和子の影響を受けているものとするなら、やはり取り上げておこうと思った。
 私の個人的な嗜好だが、いわゆる芸道モノの小説を好んでいる。何故かその分野での秀作が女性作家の手になるものが多い。有吉作品目録中にも『一の糸』という素晴らしい長編小説がある。
 有吉二八歳という若さで明治・大正・昭和三代にわたる女の系譜を描いた『紀ノ川』という名編がある。有吉文学とは、伝統をしっかり押さえながら、作家の旺盛な好奇心は現代社会の矛盾、あるいは未来の人間社会を真摯に憂慮する視点もゆるがせなかった。そのための勉強はもの凄い労力を傾注させたと思う。たとえば、当時、ボケとしか認識されていなかった認知症を『恍惚の人』という小説を描くことで日本人共有の認識とさせた。日本における「沈黙の春」といえるルポ『複合汚染』という仕事も遺した。そのルポなどは、たとえば鎌田慧さんの仕事と比較しても遜色ない。こうして、逐一、取り上げていったらきりがないほど有吉の作品は質量ともに豊かであることは衆人が認めるところだ。
 戦後昭和を代表する作家として文学史上に大きな座を占めてゆくだろう。そして、玉青さんの自伝を通して、愛すべき母親であったことも確認されたのがなりより嬉しい。

文庫化されない本のために №014 秦恒平『猿の遠景』

 秦恒平『猿の遠景 ~絵とせとら文化論』 
     ~今上天皇、皇太子時代のある慧眼
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 明仁親王、今上天皇の皇太子時代のエピソード。南宋時代の画家・毛松の作と伝えられる『猿図』(現東京国立博物館蔵)をみて親王は即座に「日本猿ですね」と指摘した。その指摘をそばで聞いていた学友・徳川義宣が雑誌『淡交』にそのエピソードの顛末を書いた。
 親王の指摘を受けた博物館の学芸員は慌てて動物学者数人にコンタクト、すると皆、日本の固有種「日本猿」と鑑定した。そこで困ったのが南宋の名品と鑑定した美術史家や学芸員。日本固有種の猿をみたこともない南宋の画家がかくまで精妙に描写することはできない。であるなら「伝毛松」という美術史的鑑定は崩れる。そこで美術史家たちが 出した結論は、「日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった絵」とすることにした。徳川氏は、くだんのエピソードを紹介しながら美術学者の権威というものを皮肉ったのだと思う。
 ここで思うのは、著者は指摘していないが、親王の指摘だったから慌てて動物学者の知恵を動員することになったのだろう。これが、生物学を専攻する一学徒、いや動物学者の指摘であっても無視できただろう。やがて天皇に即位する親王の指摘であったから慌てたのだ。そして、本書も生まれた。
 本書は、重要文化財であった「永仁の壺」真贋論争ではないが、小説の名手でもある著者は、『猿図』の由来を求めて少々、粘着的に探求をはじめるが、それが推理小説を読むようなストリー性があって興味深く、楽しいのだ。おもわず惹かれて読み進めてしまう・・・しかし、著者の考察は枝葉に分け入り、やがて本筋から離れ、読者としてはどこか肩透かしをくらった感じになる。本書が著者の代表作となり得なかった欠点だろう。
 *紅書房版・平成9年3月初版・絶版。

署名アラカルト №20 平山郁夫 

署名アラカルト №20 平山郁夫 
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 前回の六代幸兵衛・加藤卓男と平山郁夫には世界史上の運命的な日付を共有している。ふたりはヒロシマで被爆体験をもつのだ。奇跡的に生き延び、それぞれの分野で個性的な仕事を完成された。
 平山が画家としてヒロシマを主題にしたことは1作のみ、それも被爆から34年目のことだった。その作品を「広島生変図」という紅蓮の炎で覆いつくされた図である。被災者は描き出さなかった。平山についてあらためてここで紹介するまでもないだろう。
 引用した署名はそれから数年後、ライフワークであったシルクロードを主題とした作品をあつめた回顧展の図録に記されたものだ。
 平山の署名本は多い。その多くが回顧展のカタログに記されたものだ。とくにユネスコの仕事に関わり、アフガニスタンのバーミンの巨像がイスラム過激派タリバンによって破壊された後、特に精力的に展開されたと思う。私自身、シルクロードの遺跡の保存に関する氏の講演に接している。また、数年前、中央アジアのイスラム国ウズベキスタンへ旅したとき、首都タシケントの宿泊先にほど近い場所に平山が私費を投じて建てた記念館があった。そこには平山作品も展示されていた。
 紹介した平山署名は、氏の典型的な筆体で、特徴がよく出ている。私はその文字から明晰で清廉な印象を持つ。筆体そのもは違うが、私は何故か、北宋八代目の皇帝・徽宗(きそう)の書を思い出してしまう。

署名アラカルト №19 加藤卓男(六代目幸兵衛) アラビア文字の署名

 署名アラカルト №19 加藤卓男(六代目幸兵衛)
  アラビア文字の署名
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 美濃・瀬戸……日本陶芸の有数の名産地。その地で代々、染付け・青磁等を至芸としてきた家系から出てきた才能、と紹介するのは陶芸に少し詳しい人ならなにを今更となるのだろう。そう幸兵衛窯六代目を継承した名陶匠である。
 しかし、六代目はそれまでの幸兵衛窯では焼かれなかったペルシャのラスター彩の再現に精力を傾注した執念の匠であった。署名にそれが象徴されていることはいうまでもない。大文字は「卓」だが、その横にアラビア文字が記されている。六代目署名の特徴である。そこに自らの作風を語る「ペルシャ陶器と織部」が仮託されているわけだ。
 アラビア文字で署名にする人は、おそらくアラビア文学や文化の専門家にいるかも知れないが 、名門陶家に生を受け、人間国宝とまでなった陶芸家にはこの人をおいて存在しない。六代目以降も、しばらく出ないのではないかと思う。その意味で貴重な署名である。
 ラスター彩とはペルシャの地で9世紀から13世紀に至る400年間に作られ、モンゴルの侵入によって破壊され、技術の継承も失われ地上から姿から消した。その再現を目指したのだから、その再興の道が狭隘であったのは必然だろう。その狭隘の道には繰り返されたペルシャ行があった。その旅日記は地元の中日新聞に連載されたりしていた。手馴れたアラビア文字の署名もそうした旅の成果の一つかも知れない。
 ラスター彩の再興といっても、ただ遺物を真似ただけではない。この人の言葉を引用しよう……
 「ペルシアのラスター彩ですと“空間の恐怖”といいますか、すきまなくびっしりと描かれる。で、日本的な間といいますか、空間を生かしたラスター彩をやりたいと」
 六代目の仕事からあらためて日本工人の才能を素晴らしさを確認させられる。

青年劇場公演『群上の立百姓』 今日の非正規労働者たちに〈農民〉の声が届くか

青年劇場公演『群上の立百姓』 今日の非正規労働者たちに〈農民〉の声が届くか
  こばやしひろし作/藤井ごう演出
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 江戸宝暦年間、1754年から4年半、美濃国(現在の岐阜県)郡上群内百30ヶ村の農民が闘った百姓一揆の物語り。立百姓とは唐傘連判状の下、蜂起の初心を最後まで貫徹した百姓たちを指す。反対に脱落した農民を寝百姓といって蔑んだ、という。芝居から教えられた。
 百姓一揆は苛烈な年貢の取り立ててに喘ぎ、生存権そのものが脅かされる事態になったとき身体を張りムシロ旗を立て、鋤鍬、竹槍を手に立ち上がった強訴。江戸期に全国で3200件ほどの一揆があったといわれる。首謀者は獄門晒し首も必定の身を挺しての蜂起。それでも、それだけ多くの一揆を数えたということで幕藩体制下で疲弊する農民たちがいかに多かったという証左になる。
 一揆に参加した農民のほとんど大半が連判状に名を記したまま歴史の闇に消えた。しかし、首謀者となった農民の名あと生きざまは不完全なかたちながら後世に伝えられた。封建制下では、苗字ももたなかった農民たちの「個」は消滅している。しかし、一揆の処理をめぐって当該藩での取調べ、特に首謀者たちは長牢生活のなかで記録をとるものが少なくなかった。それが村の名主の土蔵などに秘匿され、今日まで伝えられたりしている。そうした記録を通して、名もない農民たちの生き様がうかがいしれることになる。そして、そうした私的記録・文書に実証性を与えるのが、兵農分離制度を基軸とした江戸時代の社会の特徴であった。それは、武士階級と農民は居住空間も生産過程のうえでも分離し、日常的に交わることはなかった。その空間(距離)を埋めるのが「文書」であった。江戸期の農村史料が膨大に残されたのは、そうした「文書」支配の結果である。そして、その文書を通じて、一揆に参加した農民たちの私的な記録における記述の多くが実証性をもち貴重な史料となったのだ。本劇の史料もそうして残された史料があったからこそ登場する農民個々の性格が肉付けできたともいえる。

 初演は1964年というから現代劇の世界にあっては旧作といえるだろう。その芝居が年間を通し浮薄なフィエスタの巷と化している東京は新宿、そのド真ん中の劇場で再演されたのだ。その意味を問いたくなる。
 新宿、いや渋谷でも六本木でもいい、その繁華街の景色。3・11以降の節電もどこへやらの光の不夜城。その光を支えるのはアルバイト、パート労働など非正規労働者はずだ。彼・彼女らの大半が個別に切り離され、横断的に団結、組織はされない。歓楽街はそれが顕著だ。遊興者との経済格差は開くいっぽうではないのか・・・・・・。

 百姓一揆のなかで郡上の闘いほど持続したものはなかった。故に民衆譚として人口に膾炙した。農民たちの自主管理コミューンが成立したからだ。それは現在の非正規労働者たちに大きな示唆を与えるものかもしれないが、映画より通常、観劇料金の高い演劇をみるゆとりなど非正規労働者にあるとは思えない。どこかちぐはぐな感じがする。こんな芝居が時代と切り結んでいた時期があった。それこそ、本作の初演の頃、あるいは70年安保前後・・・・・しかし、世の中、なにが起きるかわからない小林多喜二の古プロレタリア文学「蟹工船」がいきなり復活して話題になったのは・・・もう8年も前だったか? 簡便な文庫本なら誰でも手に出来るだろうが、芝居はやはり敷居が高い。でも、こうして記さないわけにはいかない。
 可動性の高い舞台装置・美術の巧みが動きの激しい群像劇と有機的に絡みあっていたことを付記しておきたい。  
*9月17日、新宿・紀伊国屋ホールで。
プロフィール

上野清士

Author:上野清士
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