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プーチン独裁下のロシア映画 №4『タイム・ジャンパー』

プーチン独裁下のロシア映画 №4『タイム・ジャンパー』
タイム・ジャンパー

 アホなタイトル、どうとでも取れるメリハリのないポスター・・・・・・を見ればB級映画で予想される範囲はできないだろうと思ってしまう。それでも観る気になったのは復活ロシアの映画界がタイム・スリップモノをどんな手さばきで調理しているのかという興味のみだった。
 冒頭、ロシア版ラップのけたたましさのなかでサンクト・ぺテルブルグの中心街の光景が流れる。ネヴァ河に面したエルミタージュ、教会伽藍、広壮高雅な雰囲気を観光ビデオのように流れる。盛夏に撮ったということで真冬、午後2時には暮れてしまうドフトエフスキー風憂鬱さは陰りもみせない。自由経済となったいまも欧米都市ほどコマーシャリズムに汚されていない気品は確かにある。しかし、レニングラード時代のその町を親しく旅した者の目からみれば、それはまったく蘇生したような美しい町にみえる。
 
 映画の主人公4人の青年の生業はまぁチンピラ、あぶく銭を稼ぐために市郊外の戦跡から埋もれた銃器や勲章、その他、もろもろの戦争遺物を掘り出しては換金している連中だ。チンピラのなかにはナチを象徴するような刺青を彫ったスキンヘッド、ドレッドヘアーもいる。その日も4人はサンクト・ペテルブルグ市中から車を飛ばして発掘現場にやってくる。

 おもえば国土広く深くナチドイツ軍の侵入をゆるしたソ連欧州部はそこかしこ、無数の戦跡があるといってよい。レニングラードでは900日間、ドイツ軍に包囲され、甚大な被害を受けている。これをレニングラード包囲戦といい、その前線となっていた場所はすべて「大祖国戦争」(と対ドイツ戦をソ連時代に命名している)聖なる戦跡なのだ。そこにはまだソ連兵の遺骸も埋まっている可能性もあるのだ。だから、戦跡盗掘を描いた映画など旧ソ連では是認されなかっただろう。
 しかし、そこはしたたかなプーチン政権下、戦跡盗掘現場で4人の青年をお仕置き的に大戦下のソノ現場にタイムスリップさせてしまう。いまのお前たちの野放図で自堕落な生活も、かつて命を賭して戦った、おまえたちと同世代の英雄的な無視の精神によって実現したのだ。その現場をみてこい、その苦労を味わってこいと放り出したのだ。

 日本でも東京大空襲下にタイムスリップする青年の話があったが、このロシア映画のスケールは本格的だ。塹壕戦のリアリティはハリウッド並みだし、ソ連時代からモスクワと並ぶ映画制作の拠点であったレニングラードには大戦中の戦車や装甲車、ジープ、土を掘るシャベルや兵士の装備などがきちんとメンテナンスされている。それらが本作でも活用されスクリーンに奥行きを与えている。否応もなく当時の赤軍の階級制度下に置かれ、まったなしで白兵戦に狩り出される。
 その戦時下の時間のなかで積み重なれているエピソードが、チンピラ4人が21世紀のある日、掘り出した遺品の、それこそ物心性と絡んでゆく。その辺りはなかなかよくできたシナリオなのだ。デビュー当時のタルコフスキー監督だったら、その塹壕戦だけですばらしい映画を撮っただろう、とないものねだりの想像をしてしまう。

 戦死した若い赤軍兵士の遺品がキーとなって現代に戻ってきた4人。その時、かれらは非愛国的なチンピラではなく、ロシアイズムを体現する立派な帰還兵、青年となっているのだった・・・というオチをつける結構。プーチン政権下らしい結末ではないか? しかし、ソ連時代、赤軍兵士たちが夥しい血を流した戦跡を暴き、遺品を換金するなぞという行為はシベリア流刑もので、たとえ訓戒的にせよ、そんな墓泥棒たちの存在を認めるような映画が制作されるはずはなかった。
 *2008年制作・ロシア映画。アンドレイ・マニューコフ監督。104分。
 
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署名アラカルト №21 床山・床寿(日向端隆寿)

署名アラカルト №21 床山・床寿(日向端隆寿)
床寿 床山とはお相撲さんの大銀杏を結う技芸者。もともと江戸・元禄期、上方歌舞伎の大看板・坂田藤十郎が舞台用に髷を結い上げたときに生まれた名称、そして専門職化したらしい。
 大相撲界は七つの部門に分かれる。
 主人公というべき力士を頂点として、親方、若者頭、世話人、行司、呼び出し、そして床山となる。正直、若者頭、世話人というのは筆者にはよく分からない。分かるのはTVで写る人たちと、写らない人たちが多数、興行に携わっていること、多くの専門分野があるということぐらいだ。床山さんも影の仕事、裏方だが、なくてはならない仕事だ。そんな人の署名が世に出るには、床寿さんが、その仕事を自叙伝の文脈で綴った『大銀杏を結いながら ~特等床山・床寿の流儀』(PHP研究所)を刊行し、献呈先のために記したからだ。取立て個性のある筆跡ではなく、裏方として誠実に場所を勤めてきた職人の堅実さがそこに表出されているといえるか。
 床寿さんの著書によって、床山さんにも番付があることを知った。それも平成20年初場所の番付からはじまった、あたらしい伝統のようだ。その番付掲載に尽力したのが著者の師匠筋にあたる床邦という人らしい。著者が床邦さんをついて触れるとき、特等と頭に振る。床寿さんも特等。現在、50数人の床山さんを抱える相撲界のようだが、特等とはつまり力士でいえば横綱ということだろう。知らない世界、仕事を知るのはいつだって楽しい。






バレエの本 GーH 松山バレエ団関係2書『白毛女』『バレエの魅力』

バレエの本 GーH 松山バレエ団関係2書
 清水正夫『バレエ 白毛女 ~はるかな旅をゆく』*松山樹子『バレエの魅力』

 これまで6冊のバレエ本を取り上げてきたが、今回ははじめて日本人バレリーナを取り上げることになる。きっかけは、1955年、戦後はじめて日本で公開された中国映画『白毛女』を観たからだ。白毛女。はくもうじょ、と読む。
 映画そのものは、1949年10月、毛沢東が天安門で中華人民共和国の成立を宣言した翌年に完成したもので、当時、国交のなかった日本での公開が5年遅れたということになる。といっても一般公開されたものではなく、日本の日中友好協会のボランティアが「革命中国」を紹介すべくフィルムを担いで全国行脚しながらの公開であった。
 映画はまだ現在の「簡体字」は使われておらず時代を感じさせるものだ。
 『白毛女』は革命以前に新歌劇として、民間説話の翻案モノとして上演されていた。それを革命後、悪徳地主へ抵抗する民衆、八路軍の物語とした映画で、これにそって京劇版も後年、制作された。そして、これをクラシック・バレエのテクニックでバレエ化したのが日本の松山バレエ団だった。それは後年、文革時代に紅衛兵たちが演じた「革命劇」に反映していったと思う。そういえばキューバの至宝アリシア・アロンソも革命後、おなじような革命劇を創作、上演していることを想い出す。
 清水正夫の『白毛女』は、映画「白毛女」からバレエ化、その日中両国での上演記録、その経緯を具体的に紹介するともに、松山バレエ団の創立から35年の推移、歴史を綴ったものだ。
 昭和58年の初版ということで当時の中国の経済力は、日本に脅威ともなっていなかった時代であり、著者の語る中国はまったく牧歌的、批判的にいえば先見性のない痴呆的なものだ。その手放しの友好親善ぶりを今日の目からみればまったく鼻白むものだが、時代のひとつの証言として聞いておこう。
 清水の妻であり、松山バレエ団のプリマ松山樹子が翻案脚色してバレエ化した。日本生まれのバレエ作品として繰り返し上演されたものとして、やはり日本バレエ史に特筆されるものだ。清水はバレエ団を運営する立場から、その経緯を書いている。戦後の日中友好史における交流事業の主役的存在が日本生まれで、中国が舞台のバレエであったということになる。

 『バレエの魅力』は実演者の立場から初歩的なバレエ解説、入門書となることを念頭に松山樹子が書き下ろしたものだ。松山と同世代のバレリーナの自叙伝、半生記、評伝の類いはいくつもあるので、それと比べると小冊子的な分量でしかなく、取り立てて紹介するまでもない一書だが、松山演じるところの「白毛女」の上演写真が幾つも収録されているという意味で資料的な価値がある。同作品の初演は日比谷公会堂であったという。それも時代を感じさせる。現在、よほどのことがない限り、同公会堂でバレエが上演されることはないだろう。そういえば、清水の本のカバー写真は松山の「白毛女」のステージ・スチールである。
 松山は戦前、まだバレエの荒蕪地であった日本でバレリーナを目指した女性だが、その松山が晩年まで座右の書として、いつも公演先にも帯同していたのが世阿弥の「花伝書」であったと語っていた。当時、日本バレエ界は“和魂洋才”であったのだ。
 ▽清水正夫『白毛女』昭和58年11月初版。講談社刊。松山樹子『バレエの魅力』昭和54年5月初版。講談社文庫。

日本で最初に公開されたアルゼンチン映画『黒い瞳の女』

日本で最初に公開されたアルゼンチン映画
 『黒い瞳の女』マヌエル・ロメロ監督
yjimage (2) アルゼンチン映画について書いたついでに。最近、フィルムセンターで1939年、アルゼンチンで制作された映画『黒い瞳の女』が修復されニュープリント版の完成披露が2日のみ行なわれたので、その話題から。
 同映画の日本公開は1941年。12月8日、連合艦隊がハワイの真珠湾を空爆して太平洋戦争がはじまった年だ。そんなキナ臭さただよう9月、東京でアルゼンチン映画が初公開され、翌10月には、つづく交歓事業の一環で『薔薇のタンゴ』が公開されている。ちなみに開戦直前の11月には米国、フランス映画も公開されていることは注目されていいだろう。日本政府が最後まで対米開戦を避けたいという気配がそうした映画の公開に反映しているのかも知れない。 
 アルゼンチン映画2本の公開は、同国との文化交歓事業のひとつであった。開戦と同時に米国と同盟関係にあったアルゼンチンは他の中南米諸国とどうよう対日戦争の当事国となったわけだから、それこそ戦前、最初にして最後の同国映画の公開となったわけだ。その時、交歓で日本からアルゼンチンに送られた事業とはなんだったのだろうか、興味のあるところだ。当時、アルゼンチンには約7000人の日系社会があった。
 さて、『黒い瞳の女』の原題は “la vida es un tango”だから、「タンゴこそ人生」となるだろうか。昭和10年代には東京にもタンゴ楽団が誕生していたから原題を邦訳しても良かったと思うが、タンゴプラス恋愛映画として売り出したかったのだろうか、チェーホフの短編のような題名になった。
 監督は1930~40年代に量産といってもよいぐらいの作品と脚本を書いたマヌエル・ロメロ。手馴れた展開の早い演出、構成に監督の熟練度がみてとれる作品だ。内容はなんてことはないストーリー。タンゴ歌手になりたい大学生が飛び入りで三流劇場のステージに立ち喝采を受け、やがてフランスまで進出してゆくも、やがて飽きられ自信を失い、精神的に声が出なくなり、うらぶれて帰郷、そして再起して名声を取り戻す、という実に小気味よい起承転結に富んだ娯楽映画で、その歌手の岐路に絶えず方向を与え、励まし成功に導き・・・という存在が「黒い瞳の女」という最愛の伴侶というわけだ。
 いうまでもなく取り立てて評価する材料のない作品だが、アルゼンチン映画の日本での公開がタンゴから始まったことは記しておくべきだろう。
 当時のアルゼンチンは政治的には政争に明け暮れていたものの冷凍船の技術が進み、同国の主産物である牛肉の欧州への輸出が伸びたり、英国の資本が大量に入り込むなど南米諸国のなかではもっとも富裕化が進んでいた、貧富の格差も・・・。当時、南米でもっとも識字率が高かった、という数字が残されているから初等教育はだいぶ改善されたのだろう。また、ミュージカルや映画ともなった「エビータ」ことエバ・ペロンが映画界に活動を開始していた時代でもあった。
 アメリカ地域におけるスペイン語圏では同国はメキシコと並ぶ映画量産国であった。当時のアルゼンチン映画、音楽界での大スターはリベルタ・ラマルケであったが、ファーストレディとなったエビータによって国外追放された(異論もある)。失意のラマルケは、チリに逃れ、メキシコ渡り、やがて世界的な名声を得ることになる。メキシコもアルゼンチン同様の映画・音楽の購買力が民衆にあったから活躍できたといえる。

私的な歯痛体験もあって、気になるロードムービー  ~映画『エバースマイル・ニュージャージー』

私的な歯痛体験もあって、気になるロードムービー
 ~映画『エバースマイル・ニュージャージー』

 エバースマイル
 ダニエル・ディ=ルイス主演ということでラテンアメリカ映画の範疇で語ることを失念していた。台詞が英語で通されていることも勘違いの原因だが、これは紛うことなきアルゼンチン映画。まず舞台が大平原パタゴニア、監督も同国人なら撮影、脚本、助演陣みな達者な同国人だ。ただ英国系企業の資本で制作されたことでも錯覚したか……でもそんな情報はどうでも良い。この善意にあふれた、ドン・キホーテ的な時代錯誤感がほとんどわき見することなく真っ直ぐ語り尽くされる、ということで真にラテンアメリカ的ともいえる。
 主人公はアイランド出身でいまは米国ニュージャージー州に本部のある慈善団体「デュボワ歯科普及財団」から無医村ならぬ、無歯科医地域のパタゴニアに派遣され、歯の健康維持と治療をボランティア・オコーネル医師の物語。オコーネル、いかにもアイリシュ的な典型的な名である。
 エバースマイルとは、歯の健康にはよく磨く習慣が必要と、無償で配る歯ブラシに刻印された文字である。いかにもの命名である。そして、パタゴニアを疾駆するのはサイドカーに医療器具を載せたモーターサイクル。この映画から15年後、革命家以前のエルネスト・ゲバラの南米旅行を描いたロードムービー『モーターサイクル・ダイアリーズ』(2004)が撮られている。アルゼンチン人はモーターサイクルで長躯の旅をする嗜好でもあるのかと思ってしまう。
 行く先々での人々との出逢い、そこで起きる日常的を善意で掻き乱される田舎の人びと。日本的な情感でいえばハレとケの交わりの物語だ。茫洋と退屈な時間が民衆に流れている。オコーネル医師の到来は、予期せぬ大道芸人の来演のようなものだ。それが治療行為という具体的な善行がともなうから人との関係性が濃密になってゆく。しかし一期一会。ローマ法王を輩出した国だけに、カトリック修道院の奥深く、歯痛を神から与えられた受難と受け止め治療を拒む老聖職者の姿なども描かれて興味深い。
 挿話のひとつにハイテク設備を積み込んだ日本製の歯科医療ワゴンカーというのがTVのニュースで紹介される場面がある。それを見ていて、そうかアルゼンチンでも日本の歯科医療器具の有能性が注目されているのかと感じ入った。というのは、筆者が中米ホンジュラスを旅しているとき、どうにも収まらない歯痛に耐え切れず、首都テグシガルパの歯科医に駆け込んだことがある。確か、日本大使館に電話して推薦できる歯科医はいませんかと尋ね、紹介してもらった歯科医であった。
 「あなたは日本人か?」と聞くから、「そうです。保険にも入っているので後で領収書を書いてください」と言い、ついでに「この治療台や器械類はまるで日本と同じですね」と言うと、「その通り、日本製ですよ」という。良く聞くと、日本の歯科医療器具は日進月歩で古くなると途上国に輸出されているのだそうだ。「日本の器械は世界一でしょう」とリップサービスか、そう強調したのだった。
 『エバースマイル~』のオコーネル医師が日本の治療ワゴン車を知って思わず目を見張るシーンで、テグシガルパで座った日本製治療椅子の感触を思い出したのだった。後で保険で返金された治療代だったが、これは筆者が保険に入っていること見越した金額だと思った。同国のフツーの人がとても払える金額ではない金を取られた。
 アルゼンチンに限らずラテンアメリカ諸国はオコーネル医師のようなボランティアが必要だ。たぶん、よほどの善政にでも恵まれない限りは、永続的に……。
 *カルロス・ソリン監督作品。アルゼンチン映画。

文庫化されない本のために 017    トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』

文庫化されない本のために 017 
  トシオ・モリ『カリフォルニア州ヨコハマ町』

 一読、こんな素敵な短編集を書棚の隅に長年、押し込んだままにしていたことを後悔した。
 1920年、米国カリフォルニア州オークランドに生まれた日系二世の作家が第二次大戦前に書きためた短編を編み1949年に刊行したものだ。大戦中はユタ州の砂漠のなかの日系人収容所に強制収監されていたこともあって戦後の出版となったのだろう。
 ヨコハマと作者が名づけた小さな町、その周辺で暮らすさまざまな日系人たちの諸相を丁重に描く。実に渋味のある話が22編も収録されている。使い古された形容だが、このような短編を指して珠玉の・・・と冠したい。
 作者のことは後追いで色々、知ったのだが、それも感銘を受けたからだ。ウィリアム・サローヤンに激励されながら作家への道を進んだ、ということも知り、なるほどと思った。サローヤンはアルメニア移民の子。その作品には、米国で暮らすアルメニア人たちの生活が描かれる。私には、サローヤンより現在、米国各地で活躍しているチカーノ作家、メキシコ系米国人作家たちの作品に近い感触を得た。そういえば本書の訳者、大橋吉之輔氏にサローヤンの名訳があったことを思い出す。

 モリが描く日系人たちはたいてい貧しい。米国移民の典型である園芸農場、園芸店、洗濯業、零細小売業(昔の萬屋)・・・これはペルーなどの移民の仕事でもあったが、そうした仕事の苦労話もさりげなく描かれている。園芸での成功者にはキューバの日系人たちもいる。一世たちの労苦などは作者ともおもわれる青年の母への追想という形で描かれていたりする。
 こうした日系人社会へ布教活動する日本の仏教徒の存在とか、明治維新後、海外に出稼ぎに出た曲芸団の芸人が帰国せず、日系人社会のなかに溶け込んで生活していたことなども描かれていた。そうした出稼ぎ芸人たちは米国だけでなく、中南米諸国へでの巡業記録がある。中米グァテマラにも数十年前まで存命していた女性の話は地元の日系人のあいだでは伝説となっていた。そう・・・そういうことは、つい最近まで各地にあったのだろう。

 言葉の不自由ななかでの苦労、それは下層労働者として強いられるものだが、それに負ける者もあれば、積極的に溶け込む者もいる。誰もが異国で生き抜く知恵と力をもっているわけではない。幸運に見放された者も数知れない。モリはそういう人たちに寄り添って描く。といって同情とかそんな弱い視線ではない。そこにやわらかな感動の熱がある。日系人たちの生活を描きながら、人間普遍の悲哀を見つめているから、こうして時代を超えて感動の波動を受け取れる。

 「世界中の卵」という作品。セッシュウ・マトイという初老(らしい)酔っぱらいが主人公の話。イタリアの映画監督にエルマンノ・オルミいるが、彼の傑作とされている一巻に『聖なる酔っぱらいの伝説』というのがある。過去に犯した罪の呵責に責めれるように酒で身を滅ぼす男の話だが、私にはこれが何故、傑作と言われるのかよくわからないでいた。ルトガー・ハウナーの抑制された演技は認めるとしても、自責の念に抗しきれずアルコールの力を借りて逃避しようとする人の話はいくらでもある。映画の主人公は教会の祭壇前で息絶えて、結局、イエス・キリストへ浄化を委ねる。そういう終息への安易すら感じる。一神教世界の特徴かもしれないないが、神に問題を預けることなく苦悶する姿こそ、そこに哲学が生まれ、思想があるのだと思う。私はオルミ監督の映画への反証としてモリの佳編「世界中の卵」を差出したいとさえ思った。人生の矛盾だらけだ。自分一個の力ではどうしても軌道修正できない歯車のリズムがある。でも生きてゆかなければならない。短いダイアローグのなかでつぶやきつづけるセッシュウ・マトイの苦痛は“聖なる酔っぱらい”の口吻、日常的な言葉の連なりのなかで紡がれているのだった。

 日系人たちの文芸活動は各地にある。それらの成果はときどき邦訳されて紹介されることがある。しかし、文庫化されたものは寡聞にして聞かない。すでに本書はだいぶ前に絶版になっているので入手も不可能だろうが、日系作家の佳作として講談社学芸文庫あたりに収めて欲しい一書である。 
 ▼1978年12月初版。毎日新聞社刊。大橋吉之輔・訳。

「時代は変わる」ボブ・ディラン、ノーベル文学賞

「時代は変わる」ボブ・ディラン、ノーベル文学賞
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 60年代初期のボブ・ディランの時代批評歌に「時代は変わる」がある。いまでもベストアルバムが編まれれば必ず入る名曲だ。その一節に、「ペンでしか予言できない作家や批評家たちよ 目を見開いてみろ~」と、当事者意識を欠いたインテリを批判するところがある。ディランのノーベル文学賞受賞とは、そのインテリのアカデミズムの牙城に取り込まれることであったのかも知れない。ディランがノーベル財団からの電話を長いこと受けることができなかったのも、そういう躊躇い、戸惑いがあったのかも知れない。しかし、歌の表題ではないが、確かに「時代は変わる」のである。
 米国歌手ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の知らせは大きな驚きをもって迎 えられた。
毎年、候補に挙がる 村上春樹という大きな存在をもつ日本では文学賞の発表 は特別な思いを込めて注目さ れる。
 大戦後、英国のチャーチル元首相の回顧録が受賞した時も「文学」かという異論が出た。ディランの本業は 歌だから違和感を覚えた人も多かった。ディランは なにより歌唱の人。まず訴えたい言葉を紡ぎ、その言葉をのせる旋律とリズムを書いた、いわば三位一体の表現者。これを雅語的形容で“吟遊詩人”。受賞は、歌詞に対する評価であった。けれど、ロバート・アレン・ジマーマンというユダヤ人としての出自がわかる本名ではなく、ボブ・ディランという芸名をもったのは、英国の詩人ディラン・トマスに対する畏敬からであったとすれば、ディランはまず詩を詠む怒れる若者として時代を批評したのだ。その意味では文学賞に価する詩人である。

 ディランの歌が日本に 浸透したは70年安保の前夜だ ったろう。日本の若いフォーク歌 手らによって意訳されたともいえ るディラ
ン詞の暗喩と隠喩に富 んだ時代性が注目されら。ディ ランの歌のヒットで、ディラン ・トマスの詩集が初翻訳され、筆者も その箱入り上製の詩集を購入したものだ。当時の私にはそれがどう優れているものか良くわからなかった。けれど、ディラン・トマスの影響からアレン・ギンズバークを知り、訳者の諏訪優さんとささやかな交流がはじまったのだった。その諏訪さんも鬼籍が入られた。

 ディランの受賞は途上国の詩人や歌手たちにとって朗報となったと思う。識字率の低い国の若き改革者たちは、本ではなく、歌で民衆 にナニゴトかを告知、主張しよとす る。それは文学表現の積極的な拡張行為だ 。そうした才能を鼓舞したように思うのが、 今回の文学賞ではあったと思う。 個人的な感慨を吐露すれば、デ ィランの前にジョン・レノンに与え て欲しかったし、レノンの活動期、冷戦下のモスクワで、かつてのディランのようにアコースティック・ギターを片手に権力の抑圧と闘いながら多くの歌を遺した
ヴィソツキー(ヴラジーミル)に授与して欲しかった。彼の寿命ももう少し延びたかも知れない。
 文学賞選 考委員が世代交替しているとい われるが、ノーベル文学賞もや っと時代に追いついたとい印象だ 。やっと、「時代は変わる」季節を迎えた。  

TV『戦争と平和』からトルストイ閑話 *映画『執着駅』など

TV『戦争と平和』からトルストイ閑話 *映画『執着駅』など

  NHKで連続ドラマ『戦争と平和』を放映している。
 英国BBCが制作したTV用の大河ドラマだが、少し観てとても耐えられないと、視聴を止めた。その否定的な感情は人気絶頂期のオードリー・ヘプバーンがナターシャ役を演じた映画『戦争と平和』を観たときの感想と大同小異のものだ。オードリーの主演映画は『戦争と平和』と表題を与えるべきものではなく、『ナターシャ』とすべきアイドル映画。そのハリウッド映画を観せられたロシア映画人たちは国辱とも感じ、発奮し、あの大作『戦争と平和』を巨費と歳月を掛けて6時間半を超す大作を制作する機縁としたのだ。BBC制作のそれはロシア正教のスラブ魂を無視し、世界標準と勘違いしているプロテスタントの合理性が生み出した理解だ。
 それと同じことを先年、映画『終着駅』を観たときにも感じた。
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ジェイ・パリーニの同名の原作が非常に興味深いものだったので映画を観たわけだが、原作では妻ソフィア他、トルストイの晩年に親しく文豪に接した人びとがそれぞれ思い思いの立場からトルストイの人となりを語りながら晩年の文豪を描出するという多面的な批評小説といえるものだが、映画では妻ソフィア(ヘレン・ミレン)の演技が目立つ、というより彼女が主人公といってよい内容だった。オスカーに主演女優賞としてノミネートされたように、トルストイ役(クリストファー・プラマー)が主役ではなく、伯爵夫人としての気品、遺産に固執する俗物性がアラベスク模様のように織り成す演技力は説得力のあるものだった。
 原作は米国人作家だが、これをロシア語の脚本にしてロシアの地で撮影して欲しいと思った。映画はロシアでは“黄金の秋”といわれる自然が豊かに描き出されているのだが、しかし、そこに憂愁というものがない。BBCの映像にも憂愁がない。たとえばソ連邦末期、ニキータ・ミハルコフ監督は、19世紀のロシア貴族たちの黄昏を“黄金の秋”の憂愁と同化させて見事に映像化していた。秋がもっとも美しい国は、筆者が実感したなかでは、わがさまざまな色彩感を堪能できる日本、そして白い一色になってしまう前のいっときの至福を人に与えるスラブの“黄金”だと思う。ラフマニノフが米国へ亡命した後、創作活動に生彩を欠いてしまったのは、ロシアの憂愁の秋から切りはなされた民族性の毀損だと思う。
 しかし、トルストイのひ孫(ビクトリア・トルストイ)がスゥエーデンスでジャズ・シンガーとして成功する時代を迎え、19世紀のトルストイを憂愁を映像化することもロシアでも至難になっているのかも知れない。
 トルストイ……唐突にいま思い出したことがある。それは20世紀最大の環境破壊といわれたカザフスタンとウズベキスタンにまたがる大湖アラル海が枯渇しつつある現場を取材した際、干上がって、塩の塊が露出した元湖底に打ち捨てられた漁船の腹に「レフ・トルストイ」号を大書されていたことだ。ソビエト・ロシア人は周辺の小国の自然や人的資源を食い荒らし、連邦崩壊後、バルト三国、ジョージア(グルジア)、ウクライナ等々・・・多くの民族国家を敵対国家に変えてしまった。

映画『ニーゼと光のアトリエ』ホベルト・ベリネール監督 ブラジル

映画『ニーゼと光のアトリエ』ホベルト・ベリネール監督 ブラジル
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 ノーベル賞の季節ということで、その辺りから入ろう。
 かつて精神疾患、特に統合失調症の患者に対して前頭葉切裁術が行なわれていた。その手術の結果、自我を奪う無気力にしてしまった。そのために人をしてロボットのようにしてしまうということからロボトミーといわれた。この手術を発展させたポルトガルの神経科医師エガス・モリスは、その“功績”で1949年にノーベル生理学・医学賞が与えられた。しかし、今日、ロボトミーの弊害は明らかになり否定され、禁忌の手術となっている。モリスが施術した患者に銃撃されるという事件まで起きた。ノーベル賞も時代の制約のなかでしばしば間違いを犯していることは明記しておく必要があるだろう。
 ロボトミーの弊害を説いた名作に私たちはすでに、ジャック・ニコルソンの名演で知る『カッコーの巣の上で』(ミロス・フォアマン監督)を持っている。本作はそれに併列させて語りついでいきたいような一篇だ。
 ブラジルにとって旧宗主国ポルトガルのアカデミズムが各界に影響を及ぼすのは当然だろう。そんな時代にロボトミーばかりか、電気ショック療法などすべて暴力的治療だと否定する精神科医が臨床に携わる。その女医ニーゼ・ダ・シルヴェイラ(グロリア・ピレス)の奮闘努力の物語である。

 舞台は1944年のリオデジャネイロ市郊外の国立精神病院。映画は、その病院を囲む無機質な鉄製の塀に覆われた正門、その小さな門扉を叩くニーゼの姿からはじまる。ニーゼは繰り返し叩く、沈黙をつづける戸の向こう。ニーゼを迎える困難、行方を象徴するようなシーンである。多少の飛躍、脚色はあるだろうが実話をもとにしたもので大きくは逸脱はしていない。
 病院に迎えられニーゼが建屋、深く入っていくほどに非人道的とも思える荒んだ光景が展開される。拘束される患者、電気ショック療法を受けているのか何処からか聞こえる叫び声、徘徊する患者、その辺りの描写はなにか異臭がただよってきそうな饐(す)えたリアルさがある。映画のなかでニーゼの治療を受ける10人ほどの患者たち、それを個性豊かな、というと語弊があるが、精神病患者たちを演じる俳優たちの「らしき」演技のリアリティさは凄みすら感じさせる。ニーゼを演じたグロリア・ピレスより賞賛したい思いが湧いてくる。その辺りも『カッコーの~』に覚えた感動の質と似ている。
 ニーゼは、看護師らがケダモノ呼ばわりする患者に対して、「クライアントと思いなさい」と自己改革を主張し、実践させてゆく。そして、いっさい暴力的行為のともなわい治療に献身してゆく。 
 箱庭療法というのか、その方面の知識は私にはないが、ニーゼはさまざまないっさい抑圧的な治療を排して模索してゆく。そこで出会ったのが絵画療法であった。患者たちの内面をうかがう手段として。患者ひとりひとりの表現の変化と行動の変化がみごとに重なってゆく微妙な演技、演出はすばらしく繊細であった。
 *12月中旬、公開予定。

文庫化されない本のために №016  金子厚男著『シーボルトの絵師 ~埋もれていた三人の画業』

文庫化されない本のために №016
 金子厚男著『シーボルトの絵師 ~埋もれていた三人の画業』

 地方出版書の文庫化は少ない。全国区になりにくい題材を扱っているものが多いからだが、もちろん例外もまた多い。
 本書は江戸幕末から明治前期の美術史ということになるが、類書のなかに置いても十分、資料的価値を有するものだ。しかし、取り上げれた三人の列伝ということでは文庫化は至難だろう。
 まず、表題の「シーボルトの絵師」として働いた画家は、川原慶賀だけで、他のふたり百武兼行、倉場富三郎はシーボルトとの交わりはない。また、慶賀、兼行にしてもすでに評伝が書かれ、慶賀は充実した回顧展も開かれているので、とても「埋もれていた」とは言いがたい。こうした“売らんかな”のタイトルのつけ方は戴けないし、著者の仕事の価値を貶める。
 関連書が“全国区”で頒布されている慶賀、兼行についてはここでは省く。倉場富三郎に関してのみ記しておきたい。本書を手にするまでまったく筆者は不勉強にして、その存在すら認識していなかった。
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 幕末から明治期、政商として長崎で活躍したトマス・ブレーク・グラバーが日本人ツルと結婚してもうけた長男トミー改め富三郎、グラバーに倉場と当て字して、父の後を継いで実業家になった人である。絵師ではないが、画業はあった。それは、シーボルトが日本人絵師の力量を評価して幾多の博物図譜等を描かせたように、富三郎もまた日本近沿海で獲れる魚介類の図譜を描かせたからだ。富三郎生前中には印刻はされなかったが没後、長崎で刊行されている。そうした画業より、明治・大正・昭和の三代を英国人の血をもつ日本人として生きた男の物語として興味深く読んだ。
 明治の世は倒幕、維新政府に多大な貢献をなしたグラバーの子としての遇された富三郎も、日米英開戦となってから身辺が険呑になる。日本男子として生きてきた富三郎にも特高の監視がつくことになった、英国人の血をもつ“敵性”日本人となった。そして、八月九日の原爆でも生きながらえながら敗戦国から十一日目、自ら首を括って自死したのだ。そして、被爆死した人たちとともに荼毘にふされた。
 自殺のほんとうの理由はわかっていない。著者はもちろん推測を試みているが、それはむろん確証ではない。墓は長崎にあって父グラバーに寄り添って建つ。グラバーの碑銘は英語だが、富三郎のは日本語である。
 *昭和57年3月初版。青潮社刊(熊本市)。
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