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映画『ユキと二ナ』 諏訪敦彦+イボリット・ジラルド共同監督

映画『ユキと二ナ』
 諏訪敦彦+イボリット・ジラルド共同監督

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 他人事ではない映画をみたと思った。
 わが家にもスペイン語圏生まれの3人の子どもがいて、帰国までの歳月に比例してスペイン語と日本語の身体的な染みこみ方、グランデーションがちがう。帰国してからの1年ほどは日々、学校帰りの子のようすをそれとなく注意していた。親に言えない、言い出せない悩みをそれなりに抱えこんだはずだが皆なんとか無事、軟着陸した。そして、子どもたちの背に「よくがんばった」と声にならない声をかけた。
 映画は、パリに住む9歳のふたりの少女の話。離婚したフランス人の母と暮らす二ナ(アリエル・ムーテル)と、フランス人の父と日本人の母とのあいだに生を受けたユキ(ノエ・サンピ)のさわやかな成長のエピソード。ふたりとも演技を超えたピュアな雰囲気、闊達さに救われるし、沈黙がそのまま一幅の絵になるユキに、監督は無理に演技させていない。その諏訪監督がユキ役のノエ・サンピを評して、「ルノアールの絵画から抜け出てきたようだ」と言った。ルノアールというより、むしろフェルメールのやわらかな光のなかに描きだされた少女のようだ、と思った。
 うつくしい映画である。とどうじに、大人の身勝手が少女たちの未来にどのように影を落としてゆくのだろうと考えさせられる。
 主人公のユキの母語はフランス語に傾斜。日本人学校ではなく地元の学校に通う。両親はおそらく二人の蜜月のあいだに、娘ユキをフランス人として育て、フランスで生きてゆく知恵を与えようと了解したのだろう。しかし、歳月は苛酷だ。夫婦は所詮、赤の他人、が子どもはそうはいかない。ただ、母親の強さだと思うが、フランスの地元の学校に通わせながらも家庭内での会話は日本語で通し、日常会話も不自由していない、と描かれる。そのユキが両親の離婚でフランスを離れることに。しかし、親友二ナと離れたくない。父親も離婚に応じるとしても、娘には異国でしかない日本で育てるよりも、ここで暮らしたほうが良いだろうと語る。といって具体策をもっているわけではない。結局、ユキは母親ともに日本での生活を強いられるわけだが、そこに被害者としての意識があるわけではない。子は親を選べない、という〈宿命〉を淡々と受入れる。幸せなこともあるが辛い現実もある。9歳の少女たちの目線で観客の大人に問いかけを試みている映画でもある。
 監督の諏訪は日本とフランスを行き来して手づくりの味わいのする秀作を紡ぎ出している才能。たぶん、日本よりフランスでの評価が高いはずだ。ひところの北野武監督のように。
 本作は緑が繁盛する夏の森を現在と未来をつなぐ少女の感性の結び目として描き出す。そのフランスの村と、日本の村の緑の風景が美しい。
 ユキにはまだ抽象的な言語で、ふたつの文化を引き受けてしまった〈宿命〉を語るすべはない。それでも佇まい、言葉の微妙なニュアンスで〈宿命〉を引き受けた覚悟を自然体に描き出している。これは微妙な心の機微を描く作劇として至難のわざだが、それに見事に成功していると思う。
 人が国境超えて行き来する密度が多くなればなるほど国際結婚は増える。これは避けられない現実、と書くとなにやら国際結婚を消極的に捉えている印象を与えるが、はっきり言って、これまで日本でメキシコで、その他の国でみてきた現実を知り、否定はしないが積極的に肯定もできないというのが筆者の立場だ。
 おなじ民族どうしの男と女が共同生活を営むだけで大変だ。それが伝統・習俗が違い、異なった言語を基盤とする異文化で育った男と女である場合、その困難は倍化する。そして、親も生地も選べない子どもの問題が避けがたく出てくる。そんなことをつらつら考えさせる作品である。
 国際結婚なんて無縁だ、自分の身には起こらないと思っている方も、ユキと二ナの物語に子や孫をみる目を養えるはずだ。 

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