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激震の後に……「もののはかなさを感じる」

激震の後に……「もののはかなさを感じる」

 アノ時、私は地上11階のマンションの一室にいた。大田区の池上の地にある。
新築といってもいい建物で、某大手不動産会社の「売り文句」を引用すれば、最新式の技術を導入した「未来志向の居住空間」である。耐震構造も十分だろう、たぶん・・・。
11階ということもあろう、激しい横揺れがつづいた。食器棚からグラスが飛び砕けた。逃げ場の確保と、玄関とテラスのドアを開放し、閉まらないようにブロックした。11階のテラスに出口など確保したところで大した意味はないと思うが、そうした方がなんとなく安全そうに思えたのだ。
 エレベーターが止まり、外付けの狭い階段も揺れて危険だろうと、11階に留まり、一時はそれなりの覚悟を強いられるほどの揺れだった。柔構造というのだろう、地震の衝撃を吸収するためにある程度の揺れを想定した設計らしく、激しく波動した。建物全体がうなりを上げているようなが感じだった。後日、10階に住む初老の婦人と会ったとき、「50センチは横に揺れた感じで死ぬかと思いましたよ」と言った。そういう揺れであった。
 しかし、まぁ無事だったし、実害と呼べるのは砕け散ったグラスやカップだけだった。
 テレビはその時から5日経ったいまも通常番組を中断し、報道番組が切れ目なくつづく。強い余震もまだ思い出したように起きる。
 とてつもない破壊力をみせつける津波の映像をみながら、錯綜するニュースを頭で整理しながらインターネットで文字情報を読んでゆく。
 オバマ米国大統領が、「日本を支援するために最大の努力をする用意がある」といったコメントとともに、「人間社会そのもののはかなさといったものを感じる」と語ったことを知った。
 オバマ大統領が思わず漏らした私的観照に彼の人間性をみる思いがした。そして、彼の思想や政治力といったことはさておき、人間として信じることができると思った。世界政治の指導者のひとりとして彼の発言は、一語半句計算しつくされて公にされる。そう強いられた立場にいる。しかし、激震に見舞われた日本の惨状を前に、思わず「もののはかなさ」とつぶやいたのだろう。そのつぶやきも、またたく間に押し寄せてくるニュースのなかに埋没してしまった。
 世界政治にオバマ大統領とどうよう甚大な影響を与える立場にあるのがロシアと中国の指導者ということになるが、ふたりの政治家からは「お悔やみ」「支援」といったお仕着せのフレーズは聞かれても、その“人間”を感じられる言葉は聞かれなかった。
 日本の外で激震の惨状を眺めている政治家たちの立場はみな違う。日本の悲惨も「国益」として眺めるのが国際政治の非情なメカニズムだ。とくに我慢がならないのが非人格な投機グループだ。無名性をよいことにありあまる資金を投入している資産家は、むろん、この日本もおおぜいいる。顧客の秘密保持を売りして、マフィアに口座を提供しマネーロンダリングのステージを設えた銀行のようなものだ。政治家の良心はそうした投機機関や銀行の“罪”を暴くことはできない。そういう限界性のなかで、オバマ大統領も仕事をしている。
 世界政治のステージは非情で過酷だ。そうしたなかで真に人間性を感じさせる言葉を漏らすことができるのは、その人の半生が培った感性の問題だろう。ふだん、見えないことがこうした非常時にはくっきりと輪郭をあらわすものだ。
 ……石巻、気仙沼、陸前高田、大船渡、宮古、久慈、そして八戸・・・三陸沿岸の町はみな筆者20代半ばから30代前半、仕事のため繰り返し訪れていた町ばかりだ。鉄道で、あるときは車で。その面影が津波で根こそぎ消えてしまった。いや、おちつけば山河の光景だけは変わらず見いだせるだろう。しかし、人あっての山河なのだ。
 結婚してすぐ長女が生まれ、2年後、次女が生まれた。30を前にして私は二人の娘の父親であった。彼女たちを喰わせ育てるため小さな会社の営業マンとして働いていた。地方に販路を開拓する前衛であった。自ら、そうした地方まわりを志願していたといっていい。人の行きたがらないところへ行けば、それだけ金になると思ったし、私は一銭でも多く稼ぎたかったのだ。若いから無理もきいた。一晩ぐらい寝なくてもハンドル操作には自信があった。北海道のオホーツク沿岸、能登半島、紀伊半島、四国、山陰……そんな地方へ行くのが仕事を超えて好きだった。
 三陸はいくど訪れても懐かしさを憶えるような地であった。触れあう人が好きだった。控えめに話される言葉のなまりに癒された。朴訥、という言葉があるけれど、文字通り、そんな人ばかりだった。
 テレビは被災した人びとの困難な生活を連日、報告している。満足な食べ物も水も、電気も暖をとる手段もないまま幾夜も過ごしている。着の身着のままで九死に一生をえたのなかには、津波の海水で濡れたままの衣服を着替えることもできない人もいる。そんな人が多いようだ。家そのものがまるごと失われた被災者。家族親族、友人知人を失った人もむろん、多い。けれど、被災者の多くは、より弱い立場の人たちを気遣うことを忘れていない。数十年前、若い私が三陸のひとびとに感じた親しみというものの本態を今更ながらに知った。けっして声を荒げない人たちだった。その人たちの肩にも雪が無情に降りかかる。
 口数の少ない人たちだった。無駄口の少なさは、過酷な風土に住む人の忍耐力を感じさせた。そうした人たちに(仕事で)会うために単線の鉄道もよく利用した。片側が山の緑、反対側に目を移せばすぐ海という狭い平坦な地を縫って走るような鉄道だった。それはまるで炊煙を探すように走っていた。ぬくもりを感じさせる鉄道であった。たぶん、“寅さん”がもっとも好むような鉄道だったろう。あの“寅さん”の旅の光景はたいてい車窓が開く各駅停車の鈍行のものだった。車窓越しにおしゃべりのできない鉄道は“寅さん”映画にはほとんど出てこない。いま、そうした車窓から流れてきた朴訥な東北弁のなまりを懐かしく思い出す。
 その単線の鉄道も破壊された。急激な人口減によって、もう鉄道の再建もないかも知れない。鉄道の車窓からみる景色と、ハンドルを握りながら見る風景とはまったく別のものだ。津波は、鉄道からの眺望まで奪った。いや、筆者の感傷的な思い出などどうでもよい。しかし、その思い出の一つひとつに関わった人たちのなかには、生命まで奪われてしまった人もいるのではないかと思うと無念でたまらない。少し落ち着いたら被災地を訪れてみようと思う。   

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