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映画『ブルーバレンタイン』 デレク・シアンフランス監督

 映画『ブルーバレンタイン』 デレク・シアンフランス監督
ブルーバレンタイン

 愛のはじまり、男と女の出会いは偶然の重なり合いのなかで芽生え、成熟していく。その出会いに恋人たちは〈奇跡〉を感じ、唯一無二のこととして愛を純化していく。
 映画にしても歌にしても、そして文学、あるいは絵画……人間は、そんな愛の「奇跡」を象徴化しながら生命を繋いできた。文化の根元は〈愛〉なのだ。
 どんな凡人でも自分の愛は大切なものだし、できるだけ一個の珠玉のドラマとして記憶したい。たとえ他者から平凡、ありきたりのものだと思われようが、本人たちはリアルなドラマの主人公として青春の思い出に残したい。それが持続すればするほど、夫婦の絆は細くならず、ほぐれずに平穏に送れるということなのかも知れない。
 しかし、男と女の別れのとき、愛の破局はなんて凡庸なんだろう。出会いの〈奇跡〉からすればなんと俗ぽいのだろう。それはどこにでもある世俗にまみれた光景である。たがいを傷つけあう言葉は、たいていありていのものだ。
 愛の高揚期には凡人をして、みな詩人にさせるけれど、別れのときは“詩才”も摩耗している。そういうことを切々と確認させられる愛のリアリズム映画が『ブルーバレンタイン』だ。
 資産も学歴もなく、家族にも恵まなかった肉体労働者の男ディーン(ライアン・ゴズリング)と、医師を目指して勉学をつづけるキャリア志向の女シンディ(ミシェル・ウィリアムズ)との出会いはまったくの偶然、数秒ズレていたら一生まじわることのないものだ。そのわずかの接点が愛の物語の足がかりとなる。そういう出会いのかたちは本当は無数にあるのが当事者たちは、その偶然に神意を覚えたりするわけで、〈奇跡〉といって自分たちを聖性するものだ。そこに芸術の水脈が流れる。
 インテリ女性が肉体労働者の男性に吸い寄せられるという話もよく聞くものだ。しかし、出会いまでに形成された人間精神の砦はそうそう崩れるものではない。人間形成の歴史は変えられないのだ。個性は愛の高揚期には見えなかった、見ないで済んだことも、停滞期ともなれば否応なく見えてくるものだ。鼻につく、という言葉があるけれど、そんなふうに醜い感情が露呈してくる。
 恋人なら、そこでつまずき別れとなるだろう。しかし、夫婦となってから後は、そう簡単には別れとはならないのは自明のこと。背負った夫婦の歳月によってみな事情はことなってくる。
 本作のシアンフランス監督の原案からシナリオ作成の過程で、もう二人のライターが関わっている。3人の共同作業として練り上げられたものだ。そうして彫琢されたシナリオは絶品だ。自然で写実主義的であり、しかし、そうしたリアリズムに徹しようとして生じる堅さもない。気負いの気配がまったくない。このシナリオの気配をゴズリングとウィリアムズは淡々と、しかし、緻密で高度な演技力が配剤されていて見事。実に完成度の高い作品で、ゆえに観る者は辛い。
 愛の昂揚と破局はたいていの人が体験する。失恋というものだが、そこで苦悩し、悔恨しつつ人間として成熟していくものだ。だから、この映画は世代を超え、国境を越えて普遍性をもっている。観ながら我が身に引きつけ、けっこう堪える人も出てくるだろう。在りし日の悔恨を蘇生させる体験を強いるからだ。でも、人は、それでも人を愛さずにはいられない。愛があるから、人は生き延びようとし、希望を見いだせるものだ。
 今般の大地震のなか奇跡的に生き延びた人たちのなかにも、愛する者のために生きなければいけないとの執念で生の灯火を燃やしつづけて救助された人たちも多かっただろう。愛の力とは、けっして数量化できないが、ゆえに人は、そこに神意を読みとろうとするのだ。そんなことまで考えさせる秀作である。    

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