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ブラジルの映像の鬼才グラウベル・ローシャの回顧

ブラジルの映像の鬼才グラウベル・ローシャの回顧
 ~日本未公開3作を含め代表作5作を上映
アントニオ・ダス・モンテス

 手元に2006年に邦訳刊行された『ニュー・ブラジル・シネマ』という充実したテキストがある。「知られざるブラジル映画の全貌」とサブタイトルが付いている。
ブラジルの日刊紙『フォリャ・デ・サンパウロ』で映画・文化批評を担当するルシア・ナジブの編集で、17人の識者がブラジル映画のさまざまな側面を多角的に分析している本だ。ブラジル以外からの寄稿も目立ち、小津安二郎や黒沢明映画の研究者として知られる米国のドナルド・リッチーも序文を寄せている。現在のところ軍政以降のブラジル映画の動き、映画を通して同国の表現活動をうかがうには最良の資料だろう。
 この本のなかでグラウベル・ローシャの仕事が随所で言及されるか、参考として頻繁に敷衍されている。
 「ニュー」のカテゴリーから、ローシャの映画はすでに外れる。しかし、彼の創作活動の影響はいまもブラジル映画界に深甚な影響を与えていることは、本書のなかでの言及の多さ、その頻出度そのものに象徴されている。
 たとえば現代の映画監督、チェ・ゲバラの青春時代の南米旅行を描いた『モーターサイクル・ダイヤリーズ』を撮ったウォルター・サレスや、フランス映画の古典『黒いオルフェ』をブラジル映画人の意地としてリメイクしてみせた『オルフェ』の監督カルロス・ディエゲスと匹敵するほど、ローシャの人と仕事が語られる。
 しかし、30年前に没したということもあり、活動期が軍事独裁下であったという政治の壁もあって、ローシャの全貌はいまだうかがい知れない密林の奥に潜む野獣のように、日本ではなかなか見えにくいものだった。
 長編の処女作『バラベント』(1962年)と、中期の代表作『狂乱の大地』、そして遺作『大地の時代』(1980年)すら公開されていなかったのだ。
 日本の映画ファンにとって“幻の映画”であったこの3本がこの6月、すでに日本でも公開されている名作、というより怪作という言い方のほうが良く似合う『黒い神と白い悪魔』(1964)、『アントニオ・ダス・モルテス』(1969)とともに公開されることになった。
 ローシャ監督の長編劇映画は全部で10本だから、その半数の公開となる。個人的には中米パナマで撮られた(?)『クラロ』(1975)や、イタリアの資金でキューバ映画人とも共同して撮られたドキュメント『ブラジルの歴史』などにも興味があることを書いておきたい。
 今回、公開される映画をみて、今更にローシャの世界の唯一無二、その個性の強さ、わが王道を席巻するという前傾果敢なゲリラ的姿勢、静寂と騒乱と、聖性と狂気、混沌と秩序・・相反するイメージがゴチック化される。政治性がファンタジックされるとしたら、このようなイメージだろうか? 船酔いの酩酊だ。しかし、酔いはするが、ローシャの映画には冷たい批評性にも満ちていることも知る。強い歯と唾液で咀嚼せよと強いてくる難物でもある。それは豊潤な大地に抜きがたく存在する第三世界としての絶対な貧困があり無知がうごめいている。社会矛盾は常態で混とんし、狂気と聖性はコインの裏表のように存在し、生と死は混然いったいとなってスクリーンに充填されているからだ。
 その狂気はたとえばスペインで反カトリシズムの姿勢を明確にした後、フランコ体制の祖国を出てメキシコで仕事をしたルイス・ブリュエルのシニカルさと似ているかも知れない。イタリアのパゾリーニの狂気はコミニストとして上層階級を揺さぶる姿勢があったが、ローシャは映画を観る貧しい同胞の胸底にひそむ無政府主義的な心情を揺るがそうとしているようにも思う。
 はじめてみる長編第一作『バラベント』には感心した。
 感心というより好みの映像美といったほうが正確なのかも知れない。スタンダード、モノクロームというスケールのなかで紐解かれるのは映像詩といってよい。ラテンアメリカの映画に少しでも関心をもつ人なら誰でも、メキシコ映画『真珠』のことを想い出すだろう。1947年、大戦後のメキシコ映画黄金時代の象徴のような作品だが、米国作家スタインベックの原作をエミリオ・フェルナンデス監督が、撮影の名匠ガブリエル・フィゲロアと共同して制作した貧しい漁民の叙事詩であった。台詞を限界までそぎ落とした映像詩だった。『真珠』は世界的に評価され、日本で公開された最初のメキシコ映画にもなった。
 ローシャ監督も当然、『真珠』を観ている。そして、その処女作としてバイーア地方の貧しいアフロ系漁民たちの住む村で、当時としては絵になるエキゾシズムとして扱われていたはずのカンドンブレの祭儀の様子を取り込みながら、社会矛盾、都市と僻地を対比させ、映像を通じて貧困に目を向けた。『真珠』より社会性が濃いところはローシャの姿勢だろう。その姿勢は日本でも新藤兼人監督が瀬戸内の地味の痩せた島に住む農民たちの日常を台詞なしで撮った映像詩『裸の島』(1960)に似ている。『真珠』の影響下にある作品だ。
 バラベント
『バラベント』は瑞々しい映画だ。そこには後年、意識的操作されている混沌さはない。しかし、ローシャのブラジル社会を底辺から這うように見つめ批評する精神の揺籃は『バラベント』に明確にみてとれる。
 ローシャ監督の才能を瞠目させた『黒い神と悪魔』、その続編となる『アントニオ・ダス・モルテス』はともに民衆の抵抗と挫折の物語だ。その物語をブラジルの現実から距離をとって架空の国エルドラドを想定し、政治的な「主義」いっさい止揚(懐かしい言葉だ)し、否定に否定を重ねていくようなデスペレートとも思えるアナキーな語り口で翻弄される映画『狂乱の大地』をつづけてみていくと、思索の秩序、取捨選択されながら思考をめぐらす回路そのものが破壊されるような自虐的ともいえる思いに沈む。そうしたことも狙いなのだろう。
 ローシャ監督はスクリーンを通して思考の再構築、世界の見方の改変、ブラジル人には権威の破壊といったことを志向させようとしたはずだ。
 『狂乱の大地』は公開当時、ブラジル国会で問題作として論じられたそうだ。当然である。政治の言葉で政治を否定し、それを連綿と繰り返し交錯させ、混沌の壁のなかに政治を塗り込めることによってローシャ監督は既成の「政治」を遊弋させ離脱させつつ、観客を刺激するのだ。映画が興行によってしか収入を得られない以上、ビジネスとしてスクリーンに映しだされないといけない。上映禁止では元も子もない。ローシャは政治を政治の言葉で破壊を重ねることによって目くらましする。言論統制下にいきる民衆、社会矛盾の汚濁に住む民衆は言葉に鋭敏だ。だから、ローシャは民衆の感性を信じつつスクリーンを混濁させる。迷路も楽しめといなおるとき映像はバロックになる。だから、ブラジルといわず、架空の国という設定が必要だったのだろう。しかし、軍事独裁下でのブラジルでは危険きわまりない思想が内在していた。
 ローシャ監督の仕事はほとんど軍政下のブラジルで行われていた、とは前述した。当然、表現には銃で封殺されないよう慎重な配慮が必要だった。絶えず緊張を強いられるなかでの活動は激しい精神と肉体の消耗を招いただろう。43歳というあまりにも早い死は、そうした時代の限界性のなかで、たえざる試練の日々が影響したと思う。ローシャの死から軍政はまだ4年つづいた。   
*6月18日から東京・渋谷のユーロスペースで公開。

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