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プルトニウムと企業倫理*映画『シルクウッド』

映画『シルクウッド』 マイケル・コリンズ監督
シルクウッド

 福島の原発事故は自然の猛威のまえに人智も空しい、とあらためて思い知らされる災厄である。
 3・11以来、幾度も「想定外」という言葉を聞かされた。言うも方便だ。自然災害は予知はできても予測できない。考えてもみよ、南太平洋洋上で発生した台風が北上し日本列島にさしかかるまで逐一、予報され上陸する。進路はほぼあっている。その進路予測の精度は高い。けれど毎年のように犠牲者を出している。進路は予測できても集中豪雨の場所の精査はまだ不可能だ。それができたとしても河川の状態はそのときどきで変化する。「想定外」の水害は繰り返される。「関東大震災」も想定外だったろうし、チリ津波もそうだった。
 人智が想定しうる範囲なんてたかが知れている。そう謙虚に自然と対峙すれば、おのずと人間の分に応じた科学の適用範囲が定まってくる。
 しかし、科学には虚栄という要素がある。元来、平和な世界の実現をめざして設けられたノーベル賞も科学者への名誉という虚栄が、さまざまな発見・改良、科学技術の飛躍的進歩をもたらしはするが、ダイナマイトの発明によって巨万の富を築いたイーベルの直系の弟子たちの発見・発明もまた戦争技術に適用されてゆく。ノーベル賞が設立されて以来、戦争はより規模を拡大し、殺戮技術は精度と規模を拡大した。医学の進歩は先進国の寿命を延ばした。しかし、飽食で肥満に悩む先進国もあるかと思えば、飢餓がひろがる南の途上国の矛盾を処方できないでいる。
 科学に「虚栄」という分子が入り込んでいるあいだは、科学の進歩がもたらす富の公平な分配などはけっして起こらないし、恒久的平和など臨み得ない。。
 3・11は、地球の意思として人間はいらない、と宣言されたようにも思った。人間には地球はかけがえのない存在だが、地球それ自体は人間など存在しなくても自律した活動をつづけて“天寿”を全うする。奢ってはいけない人間は……。地球は素晴らしい星だが、地球は人間を素晴らしい生き物だとは思っていない。

 人間が作ったモノはみな人間が操作することによってしか生きられない。その人間は絶えず誤りを犯す可能性を秘めた、じつにいい加減な存在である。おそらく危険きわまりない原発の運用にあたっては幾重ものセキュリティーが掛けられていたはずだ。それも「想定内」の事故を考慮してのことだろう。その「想定内」の基準が、利潤というキーワードで甘くなる。福島の原発事故が人災といわれるのはそこだ。
 伊達政宗の時代に仙台平野が津波で侵されたことは歴史的事実だった。東北太平洋沿岸への巨大津波は「想定内」のことだった。それを「想定外」として防潮堤をかさ上げしなかったのは経済効率を優先した“人災”に他ならない。
 映画『シルクウッド』(マイケル・コリンズ監督*1983)は、プルトニウム製造工場における企業の利潤優先の前に、いかに安全対策が後回しにされ、従業員を消費材としかみなしていないかを告発した作品だ。福島原発事故が終息しない現在、見ておく必要のある映画だと思う。スクリーン・デビューして間もない若々しいメリル・ストリーブが主演している。
 文学や映画は、すぐれて「想定外」の災害、パニック、事故を想定してリアリティのあるドラマを創造する表現手段だ。それは人間が経験から導き出した中間報告としての意味があり、人間の想像力の活性化を刺激するものでありつづける。
 原発モノ映画はドラマとしてこれまでも制作されてきた。いま、レンタルビデオ屋さんでは『チャイナ・シンドローム』(ジェームズ・ブリッジス監督*1979)の回転率が急激に上昇している。米国における最悪の原発事故となったスリーマイル島原発事故に触発されて制作された、その映画は公開当時、日本でも注目された。
 今回、紹介する『シルクウッド』は実際にあった米国の事件、その事件の当事者でいまだに他殺が疑われているプルトニウム製造工場の女性従業員カレン・シルクウッドを主人公にした映画だ。
 おそらく低予算で制作された映画でプルトニウム製造工場内のセットはお粗末。それでも映画がいわんとしていることは明らかだ。利潤追求のため厳密な検査もおこなわず不良品を出荷する企業、従業員への安全対策も十分な配慮がされていない。それを告発するため、シルクウッドは密かに調査し、N・Yタイムスの記者にコンタクトする。会って報道してもらうための実証的なデータを手渡すためにシルクウッドは車で向かう。その途中で不可解な死を遂げる。事故死をなっている。しかし、映画は、彼女の死を、企業の謀略で殺された、という立場だ。事故後、遺族は企業を告発し、裁判に持ち込まれた。企業は、シルクウッドが勤務中に放射能を浴びた事実を認めたが、事故への関与はむろん認めていない。しかし、事故にあった車のなかにあるはずの「報告書」が消えていた。
 シルクウッドの行動はどこか捨て身の公憤といった感じがある。考えてみれば、厳重ないい加減なものか、と思う。しかし、それは事実、起こったことなのだ。企業は非生産部門の安全面への投資を怠れば、そういうことになる。それは福島原発事故の「想定外」の被災とおなじ論理だ。それが取り返しのつかない事故になる。
 東電に顧問として天下りした通産省の役人たちが受け取った歴代の報酬総額は、じゅうぶん防潮堤を嵩上げし、安全対策にもそれなりの予算を計上することは可能だったはずだ。企業と政府の癒着が原発の安全面を損なった。“人災”側面、おおいにありとみたい。
 儲けを優先するとき、科学の誤謬の頻度は高くなるという真理を、人間はいまほど謙虚に学ぶべきだ。
 映画『シルクウッド』は公開時、都内でも単館封切りで大した話題にならなかった。B級アクション映画の主役を張っていたカート・ラッセルがはじめてシリアスな社会派映画に出演したことも話題になったはずだし、歌手のシェールが本格的に女優としてキャリアを築く一歩となった映画だった。監督もダスティ・ホフマンを一躍スターに押し上げた『卒業』の監督だったが、実際におきた事件そのものが日本で認知されていなかったため話題を集めることはできなかった。
 映画の公開にあわせて原作『カレン・シルクウッドの死』(リチャード・L・ラシキー著)も翻訳出版されたが初刷りで終わった(社会思想社刊)。映画ともに、発掘されたいルポルタージュだ。

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