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『ナターシャ  チェルノブイリの歌姫』

『ナターシャ  チェルノブイリの歌姫』 手島悠介
 ナターシャ新

http://www.youtube.com/watch?v=6JiOQ1UBkzU&feature=related

〈3・11〉以降、本ブログのカテゴリーのひとつになってしまった観のある「チェルノブイリ」関係書紹介。そのほとんどが絶版なので、こうした発掘作業にも少しは役立つだろうと思い、手をつけている。
もっとも、つづけにはそれなりの意志が必要なわけで、その最大の理由は、現在も放射能汚染源として存在しているチェルノブイリ原発の存在であり、福島第一原発事故のまったく不安定な状況があるからだ。特に、報道機関は政府の操作があるのか、あるいは大スポンサーであるところの東電をはじめとする電力各社の立場を慮るためか、福島原発事故の解決への道筋、とくに被災自治体で憂慮される放射能汚染を考慮する指針、参考資料としてチェルノブイリ原発事故の教訓が絶対的な資料なのだ。人体実験が行なえないことを不幸にも大量の臨床資料を作りだしてしまったのがチェルノブイリであったはずだ。これは活用されなければ、ウクライナやベラルーシの死者は浮かばれない。
米国のスリーマイル島原発事故以降、日本でも関係書がそれなりに出版された。スリーマイル島の事故は不幸中の幸いとなるが周辺に住む人びとの共同体を根こそぎ破壊し、人命を損ない、地域の歴史・文化を破壊することはなかった。しかし、チェルノブイリではそれが起きた。避難民13・5万人、被害者総数は本書が出版された2001年の段階で約10万人が死去したと推測されている。いまも被害は拡大し、最終的には100万人近い人がガンに侵されるという推測すらある。そんな数字は今現在の日本のテレビや新聞は報道しない。福島の事故はメルトダウンより深刻なメルトスールの段階に入っているとも推測されているが、それも公開されていない。
いまの日本の状況とはそういうものだ。
私がチェルノブイリ原発事故をめぐる絶版書を考慮したいと思ったのは、そのほとんどが「人間」の物語としてあるからだ。スリーマイル島の事故とはまったく違う。チェルノブイリは人の死の各相が無数の事例として記され、告発され、いまもつづき、先のみえない未来までその被害がつづく災厄として提出されている。どんな小さな本にも、そこには幼い死があり、不当・残酷な死が横たわっている。
本書は小学校の高学年から中学生あたりの読者を想定して書かれたものだと思う。散文詩のかたちで書かれている。悲劇にふさわしい形式だ。
ウクライナのプリピャチ市郊外に住んでいた当時6歳だったナターシャことナターリア・グジーは被爆した。チェルノブイリ原発から3・5キロの地点にあった家で被爆した。むろんいまも後遺症に悩む。公演中に倒れることもある。本書は被爆者ナターシャを語り、ウクライナの民族楽器バンドゥーラを爪弾きながら民謡とともにチェルノブイリの悲劇を語る吟遊詩人として活動するいまを追いながら、終わりの見えない原発事故の実態を語ったものだ。
チェルノブイリの「悲劇」そのものを詳細に知ろうと思えば、類書はある。という意味ではチェルノブイリ事故を同時代的に知りえなかった若い世代に語るには良い本だと思うし、リズムをもった散文詩形式の語りは読みやすい。はっきり言ってチェルノブイリ事故をそれなりに知る人には特に目新し発見があるわけではないが、一点、私がメモした箇所がある。
それはチェルノブイリ原発事故の最終報告というものを作成したヴァレリ・レガソフ博士が二年後、首を吊って自死したという事実。同博士はソ連時代の原子力計画の創始者の人として死ぬ間際まで第一線で働いてきた科学者だ。IAEA(国際原子力機関)への最終報告を提出した責任者でもあった。その報告書はいまでは虚偽にみちた、事故をできるだけ小さくみせようと企図されたものだったことは周知の事実となっている。しかし、ソ連崩壊とともにいまだ訂正されずに「資料」となって生きている。博士はその道義的な責任に悩んだ末、自死というかたちで自ら作成に加わった報告書そのものを指弾して果てた。
そのレガソフ博士が事故後、友人に語ったという言葉が記されている。
「わが国がほこりにしていた科学技術は
ガガーリンの宇宙飛行とともに、終わったのだ。
わが国の科学技術は、トルストイや、ドストエフスキー
そしてチェーホフたちの
偉大な文学精神にやしなわれた人びとによって
つくりだされたものだった。

他人にたいする態度のなかに、人間にたいする態度のなかに
自分の義務にたいする態度のなかに
そして、科学技術にたいする態度のなかに
美しい文学の精神が見られた。
科学技術は、わたしたちのうちなる道徳を表現するための
ひとつの手段にすぎなかった。
それから長いあいだ、わたしたちは
道徳の役割を、わたしたちの文化を
歴史を、無視してきたのではないか」

……と。
いま、レガソフ博士の遺言をそのまま現在の日本の科学者に贈りたいと思う。いまだ原発推進派の科学者しか「解説」に登場させない報道番組を制作するスタッフにもそのまま贈り、良心を問いたい。報道と異なる意見を紹介する義務もあるはずだ。
日本の古典文学はむろんのこと、現代の短歌、俳句の世界もまた美しい自然のいとなみを詠ってやまない。自然美、季節の移り変わりのグラデーションをよく愛でて文学精神としてきた日本人の科学が経済効率主義に足かせ手かせされば荒廃するのは当然だろう。いまほど美しい文学の水脈を汚す、科学のありよう、バーバリズムそのものがいまほど問われている時季はないだろう。


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