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セバスチャン・サルガド写真展『アフリカ』

セバスチャン・サルガド写真展『アフリカ』
    ~人間生命へのかぎりない讃歌
SalgadoAfrica02.jpg

 墨に五彩あり、とは東洋美学の審美を要約したような言葉だが、ブラジル出身のセバスチャン・サルガドの一群のモノクローム写真をみていていつも思うのは、美しい色彩感だ。色相ではなく、あくまで色彩である。フォト・ジャーナリストで色相と色彩の懸隔を感性的に詩にできる写真家はめずらしい。サルガドはそれを天性の美質として行き来させる。アーティストとしてのサルガドは後期印象主義の火照りを導入している。
 大きさの制限された写真集のなかのサルガド作品では残念ながら「墨に五彩あり」といった深さは反映されず、印象は半減する。それでもこの写真家の視線の哲学そのものは減じない。
 サルガドの写真が、ひとたびギャラリーの壁に掲げられたとき、モノクロームはざわめき立つ。壁、床、天井を通じて反響し合い、地球の蠢きのような震えを生じさせる。
モノクロームの美しさは圧倒的だ。
 この秋、東京・恵比寿の都写真美術館で開催された『アフリカ』展の私の印象はそんな言葉からはじまる。
 総数100点の〈アフリカ〉、それは無論、広大な大陸の一端を切り取ったに過ぎないわけだし、みなサハラ以南、つまりブラック・アフリカといわれる地域であり、動植物の多様性をはぐくむ豊かな自然の大地であるとどうじに人間社会の作り出した矛盾の汚濁としての紛争の地、おびただしい難民が彷徨する色調を欠く乾いた不毛の地、飢餓と貧窮にうち砕かれた民衆の懊悩の地でもある。それをサルガドは一歩もたじろぐことなく両脚を踏ん張って撮っている。撮りつづけた。飽くことなく……。
 『アフリカ』の圧倒的な自然を愛でるようなツーリストの視線など無論、そこにはないが、それでもサルガドをして自然を畏敬する心はゆたかに生きている。しかし、その前に、この現実をいかに写し取るか、貧窮した人々の吐息まで、はたして写し撮れるのかと、自ら問い批評し反芻している。
 苦悩するひとびとを哀れみの目でみてはいけない。哀れみの視線で撮れば写真はそのようにできあがってしまう。彼らの人間としての尊厳をいささかも毀損してはならない。
 そんなサルガドの思いが切々と伝わっていくる。
 たとえばナンビアで撮られた「カオコランド地方オルタンダに暮らすヒンバ族の女性」(2005)は女神像と比喩的な表題が与えられても納得できる作品だ。黒褐色のヴィーナス。部族の習俗がながい歳月を掛けそだてた審美眼に象徴されるヘアースタイル、半裸の着衣……その麻のような一枚の布で覆われた下半身、その布の襞はまるでビザンチンの聖像画で繰り返し描かれてきた様式美を思わせる。
 そういう美しい像は、入場券に刷りこまれた「カオコランド地方マリエンフルスのカタパティ川近くで暮らすヒンバ族」(2005)の豊かな乳房をおしげもなく晒す若い女を撮った作品(半裸はこの部族の習俗であって、写真のモデルとして乳房を露にしたものではない)も素晴らしい。そして「 ワド・シュリファイの難民家族(スーダン)」(1985)の三人の幼子を抱く若い母の像はアンドレイ・ルブリョフの聖性すら宿っている。赤子に授乳したばかりで母はやわかな微笑を浮かべ、赤子はたったいま安らかな眠りについたところだ。そんないっときの平安を切り取っている。家族の日常の時間のなかでもっとも充足した一瞬だろう。サルガドのシャッターはこの瞬間しかないという刻を捉える、永遠の像としてとどめたいと希求する。それは写真家なら誰でも思うものだろうが……しかし、その一瞬に写真家の哲学が問われる。その哲学の宇宙の質量はひとによってみな違うものだ。そこに広大なグラデーションの綾が生じてしまうのだ。
 表題にあるように「難民家族」である。
 暮らしは日々、困窮していゆく。母はいつまで授乳できるかわからないという絶望感を抱えているのかも知れない。悲惨な内戦がつづくスーダンの地を彷徨した母子である。その美しい若い母の像に惹きこまれて写真を批評的に検証していけばいろいろなことが一幅の写真からみえてくる。まず、この母の伴侶はいまどこにいるのか? 生きているのか死んでいるのか? 部屋の内壁はアドベ(土壁)のようで大きな剥落がみえる。背後の棚には押し潰され汚れもあらわな夜具がみえる。難民生活の困窮ぶりが否応なく知れる。
 難民を撮った美しい母子像には、「サヘルの干ばつで流民となった人たち(ニジェール、アガデス)」(1973)という作品もある。画像を上方左端角から下方の右端角まで斜めに仕切った写真だ。その左側に若い母と背の幼児の姿が写し取られ、右側には突き抜けるような空が広がっている構図だ。この母の顔は疲労困憊している。しかし、その顔面には、プライドを失うまいとする凍った微笑みがたたえられている。それがなんとも美しい。愁嘆美、という言葉があるなら、私はそう書いてみたい。
 そうサルガドの写真は難民や流民、飢えたる人々を描いてなお美しい。
 ながくたたずみ鑑賞することが少しも苦痛ではない。そんな写真なのだ。これが並みのフォト・ジャーナリストとの決定的な差である。一個の芸術として鑑賞できる写真……そうあるものではない。報道写真としての役割を十全に果たしながら、なおかつアートになっている。
 怠惰で気の弱い大衆はかいなでの報道写真で押し付けがましく強いてくる「悲惨」や「飢餓」には正直、うんざりしている。情報過多のなかで「アフリカ」の悲劇を伝える手段として写真はその限界を思い知らされている。われわれはそういう時代に生きている。
 報道写真はいつも一過性の消費物として忘却される。
 すでに天文学的な数の写真が「アフリカ」の悲惨を伝えてきたはずだ。しかし、それらの写真がキャプションの身の丈ほどの役割が終われば忘却されてしまう。そう、大半ほとんどが……。
 サルガドの多くの写真は「証言」ではなく「芸術」としての永遠性をもった。
 飢えた母への同情を喚起しよう……そんな姑息はサルガドの手法にはない。ときの政治や気候変動によって打撃をうけた母だが、彼女の人間性まで壊されてはいない。必死にきょうを生きようとしている姿は美しい。授乳する母の姿は人類普遍の命のはぐくみの光景として、無償の愛の光景の象徴として、畏敬しつつ撮っているのだ。
 カトリシズムがうんだ聖像画でもっとも美しい光景は聖母子像だと思う。ブラジルのカトリックの風土で育ったサルガドには、それは自明のこととして感得されているはずだ。

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