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極私的な雰囲気に充足した豊穣  第97回 二科展を観て

極私的な雰囲気に充足した豊穣

 第97回 二科展を観て
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かつて古い都美術館のスペースに合わせて出品点数は制限されていたはずだが、六本木の国立新美術館というおおきな空間を得て二科展の出品点数は絵画を基軸にして肥大したようである。その辺りの事情は同展の“経営”問題というものだろう。その辺りは詮索してもはじまらない。
まず作品の数に圧倒される絵画約1100点、彫刻175点、写真に至っては約1400点、加えてデザイン、イラストレーションが幾つもの壁を占拠するが、もう数える気にもならない。
全ギャラリーをおなじような鑑賞熱度で歩くのは人間ワザではない。耐力勝負というもので、美的鑑賞とはまったく別次元の話となる。会場を訪れる入場者もたいていは誰々さんの作品は何処に在りや、と作品「早見表」と睨めっこし、ついで壁面番号を確認し、だいたいソコへ直行するのだ。そのあいだに気になる絵でもあれば、ちょっとそこで停滞するといったぐあいだ。賢い「二科展の歩き方」というものだろう。けれど別に贔屓の作家を二科にもたない筆者は“美”の雑木林、いや密林のなかに踏み込んでゆくようなものだ。
 最上階に押し込められた絵画群のレベルが素人目にも低いことを除けば、技量もだいたい申し分ないし、それなりに個性的でありよく考えられた作品を見い出すことは容易だ。二科なりの自負をきちんと納得させるものである。しかし、そこに〈現代〉がありながら肉感の手触り感がほとんど伝わってこない。個的な世界に充足し満ち足りている気配だ。それは、孤高といった志の高さとまったくちがう。社会的感度の鈍磨といえなくもない。たとえば、これほど数がありながら絵画で「3・11」に触発された2点ほどしかない。それを悪いとはいうまい。個人の創作動機はそれぞれは責任を負うべきものだ。しかし、より現実的光景を借景し、切り取るワザに優れた「写真」部門にすら「3・11」は4点ほどしか見い出せなかった。昨秋の段階では大震災体験はまだなまなましく作家個々の批評性は消化されなかっただろうから、3・11主題が少なくても納得できる。しかし、1年が経過し、さらに原発事故の後遺症が依然つづき、毎金曜、首相官邸が万余の原発反対のデモにさらされている現実のなかで、ここの作家たちの現代ニッポンの姿はあまりにも軽い。臨場感がまるでない。
 内閣総理大臣賞を受賞した粕谷正一「ハコブネ」は、筆者には二科の現状を内部からシニカルに批評しているように思えてならかった。作者にとってはおそらくニッポンの現在を批評してみせたものであろうが、第一義的には二科の現状批判にあるように思われならなかった。舵が流出した人影のないハコブネに乗せられたあふれるモノはほとんど人間生活を維持するのにさして必要とされない奢侈品であり装飾品、玩具、人形といったモノばかりなのだ。そんな作品に今年の最高賞といえるものが授与されていることに、二科の“健全”な諧謔が象徴されているように思えたのだが……如何?

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