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映画『セラフィーヌの庭』

映画『セラフィーヌの庭』 マルタン・プロヴォスト監督

 フランスの女性画家セラフィーヌの名と魅惑的な極私画、そして数奇な生涯を筆者がはじめて知ったのは1970年代の何時か……。美術評論家の坂崎乙郎氏がもっとも旺盛に、そして詩的イマジネーションを喚起するような文章で、日本ではほとんどなじみのなかった孤高の画家、その稀有な独創的な世界を紹介していた時期があった。そんな一編に小さなモノクロームの図版を取り込んでセラフィーヌの生涯を記述した断章があった。それはバラの棘のような剛さで胸に染み込んできた。爾来(じらい)、セラフィーヌ像は筆者のなかでいつの間にか増幅し、その面影は頭の隅に貼り付いたのだった。
 いわゆる素朴派=ナイーブ派の系列に属するセラフィーヌだが、その生涯は幸薄いものだった。
 彼女が草花の神聖を炎のように描きはじめたのは40代に入ってからで、それも守護天使のお告げに導かれての“天啓”であった、と伝記は語る。映画でもその辺りのエピソードは詩的に象徴化され描かれる。
 セラフィーヌは絵をアカデミックに学んだことはいっさいない。内なる欲求にしたがって描いたのだ。他者の批評などまったく気にすることなく彼女自身の魂の慰安のために描かれたのだ。
 貧しい生涯を独身で通した家政婦であったセラフィーヌ。絵具ひとつキャンパス一枚買うにも大きな英断が必要とするほどの赤貧のなかで一点一点、糸を織り込むように描かれた。ときに自分で絵具を考案、練りながら板切れに描きはじめたのだ。そんなことが思いがけない評伝的映画の出現によってセラフィーヌは一気に身近な存在となった。
 映画だからおおいなる作為はあるだろうし、必ずしも史実に忠実とはいいがたい。しかし、本作には評者が抱え、長年にわたって増殖したイメージに至近のものであった。否、忠実であるように思えた。そこにはセラフィーヌ演じたヨランド・モローの卓越した演技があるだろうし、マルタン・プロヴォスト監督の緻密な演出力のよるところが大きいのは当然だ。
 いま、セラフィーヌの詩的エスプリに満ちた映画に接して、最近のフランス映画はエディット・ピアフからはじまってココ・シャネル、世界的ヒット曲となった「ドミニク」のシンガーソングライター、シスター・スマイルことジャニーヌ・デッケルズと続けて評伝映画の秀作を生み出していることを再確認する。少し前にはイザベラ・アジャーニが熱演した彫刻家カミーユ・クロデールの映画もあった。みな女性を主人公にしているのが興味深い。本作はその流麗な系譜の末端に位置することになった。
 いま、女性の評伝的映画を例にあげたが、画家の映画としても昨年から今年にかけてレンブラント、カルヴァッジョと西欧美術史上の巨匠を取り上げた作品が日本でも公開されている。こうした巨匠たちの絵はこれまで幾種類もの画集によって繰り返し刊行され、私たちの目にはすでになじみ深い。しかし、セラフィーヌのような美術史上ではあくまで傍系で、日本では素朴派の絵を集めた企画展に数点紹介されることはあっても回顧展に恵まれなかった画家にとっては、こうした映画は一気に名声を高めるビックチャンスである。かつて、日本でほとんど無名であったメキシコの画家フリーダ・カーロの名と絵が認知されたのはメキシコで撮られた評伝映画の公開がきっかけだった。
 本作によってセラフィーヌに関心を寄せる日本人が増える予感がある。それも、フランスの批評家をして謂わしめた「ヨランド・モローの名演技は、まさにセラフィーヌそのもの」という讃辞に象徴される主演モローの力であろう。しかし、そうした讃辞を贈った批評家も実はセラフィーヌについての知識はほとんどないのだ。
 本作もまた生涯の履歴がほとんど闇のなかに没しているセラフィーヌの伝説化に滋養を与えるものなのだ。という意味において本作は危険な成功作といえるかも知れない。セラフィーヌの庭

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