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花もつ女 №17*山下りん 聖像画家

 山下りん(1857~1939)
  

  明治初年代、キリシタン禁制は解かれ、欧米諸国から〈神〉の声を伝えようと熱意に燃えた若き聖職者がおおぜい海を越えてやってきた。
 ロシア正教会の修道司祭ニコライ・カサートキン師もそんなひとりだった。幕末の日本に単身渡来し、まず函館を足場に布教活動をつづけた。若い明治の青春は、ニコライ師の熱意を真摯(しんし)に受け止めた。
 現在、全国各地に散在する正教会はそんな時代の遺産である。二コライ堂の名で知られるお茶の水の復活大聖堂は日本信徒たちの信仰を束ねる主座として建てられた。
 山下りんが、二コライ師を知るのは21歳、明治政府が設けた工部美術学校の学生であった。りんはさほどためらうことなく洗礼を受けている。そして、翌年には同師の命を受け、ロシアに留学、ペテルブルグ女子修道院でイコン(聖像画)の技法を学んでいる。
 留学は当初5年の予定だったというが、2年で帰国している。その留学の時代、りんは、イコンではなくラファエルのような絵を描きたい、と日記に書きつけていたという。エルミタージュでみたラファエロの影響を受けたといわれる。
 彼女が学んだ工部美術学校は、イタリアからやって来た、いわゆるお雇い外国人の教官(画家)がいた。りんの西洋美術との触れあいはイタリア絵画からはじまった。そんな若きりんにとって、正教会が強いる厳格な制約はさぞ辟易したものだったと思う。それが早期に留学を切り上げた要因かも知れない。
 しかし、翌年、帰国すると、61歳まで二コライ聖堂の敷地内の画室でひたすら描きつづけた。そんな、りんの心境の変化をつまびらかに語る資料はない。
 りんのイコンは現在、全国の正教会の聖壇画として遺っている。
 イコンは約束事が多く、逸脱は赦されない。
 画家ではなく画僧として“作品”は無刻を要請された。
 りんは誠実に各地の教会のもとめに応えたが、規範を無視してイコンの硬質な線を柔和化した絵を描いている。無刻だが、りんの痕跡は明らかだ。
 晩年、故郷・笠間(茨城県)で独居生活を送る。帰郷後、筆を執ることはなかった。そのわび住いで愛でていたのは、若き留学の日々にエルミタージュ美術館で模写した「聖母子とヨハネ像」であった。イコンではなかった。生涯、独身を通したりんは、自分を赤裸々に語る人はなかったようだ。その心情を知る人は誰もいない。  
 
 余談だが、皆川博子さんの長編小説『冬の旅人』に、山下りんの精神来歴の謎に着目して大胆にメタモルフォーゼさせた女主人公が登場する。

 *この11月3日、ニコライ堂に参拝した。その日、内庭でバザーが行なわれていたこと、そして、その足で秋、恒例の神保町の古本市をひやかそうと思ったからだ。
 バザーにルーマニアから来たという老夫妻が、ルーマニアで作られた簡素な、たぶん土産用のイコンを売っていた。それを一点購入した。夫妻の日本語は流暢なものだった。
 この春、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナへ行ったが、そういえばセルビア正教会には出会わなかったことをいまあらためて確認した。

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