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映画『冬の小鳥』

 映画『冬の小鳥』ウニー・ルコント監督
人は幼くとも受け入れざる得ない悲惨がある。それが人間社会の現実だ
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 日々、接するニュースは膨大だが記憶に留まるのはほんのわずかな「事件」でしかなく、かつ断片だ。それも次から次へと迎え入れる「事件」に覆われてしまい、短日時に消えてしまう。そんななかでいつも苦い記憶となって心にはりつかれるような痛みを感じるのは、幼い子どもたちが「叫び」の痕跡も残さず生命を奪われた「事件」への記憶である。
 実の母親がその加害者である場合が多い。そこには母親それぞれの桎梏(しっこく)があり苦悩の末の選択であったはずだ。そんな母親であっても、その子たちはたいてい母親への愛情を片ときも忘れていない。理不尽ではあっても子は親を批難しきれないまま幼い死を迎えている。それが哀しい。
 本作は、大好きな父親にある日、突然、予告なく捨てられた9歳の少女ジニ(キム・セロン)の心の軌跡で描く。捨て子となった現実への戸惑いと抗(あがら)い、そして絶望。9歳の少女が受け入れる現実はあまりにも過酷だ。けれど、人は幼くとも受け入れざる得ない悲惨がある。それが人間社会の現実だ。監督のウニー・ルコントの国籍はフランスである。ジニと同じように幼い日に親に捨てられ、フランスの里親に引き取られた過去をもっている。物語は創作だが、「自伝的要素を消し去ることはできなかった」と語る監督がいる。おそらく、監督は本作の脚本を書き、映画化することによって幼い日々に生じた心の傷を癒したかったと思うが、どうじに両刀の刃であることも知っていたはずだ。
 捨てられた子には必ず捨てる親がいる。その捨てた親への赦しと慰安が訪れるかも知れない。あるいは憎悪を増幅する行為ともなりかねない。監督自身、「実父にこの映画をみてほしいと思いますが、捜してまで会うつもりはありません。今まで父が私を訪ねてこなかったのは、父には別の人生があるということです」と語っている。そこには監督の父への追慕と拒絶の裂かれた心の葛藤の亀裂がみえる。たぶんウニー監督はまだ実父を求め、その心にはある種の憎しみのおき火もあるのだと思う。それは映画の冒頭シーンに象徴されている。
父とのなごやかな笑顔で接し、慈しむ交流の時を刻みつける監督自身の懐想ではなのかと思われるシーンが、映画通常の92分というフレームのなかでは長尺となっていることでも理解できる。少女にとって父との最後の時間ほど幸せなときはなかった。父は娘を捨てるという最終結論に至ったとき、その未来の過酷さを予見したのだ。だから、娘と過ごす最期を幸せなイベントで飾ろうとした。しかし、娘にとって、そのつくられた「幸せ」は残酷非道でしかない。父もそうとは了解できているはずだ。矛盾しているが、人間にはそうとしか行動できないことが多々ある。それも人間社会の過酷な現実なのである。
しかし、内なる葛藤をわずかな視線の揺らぎ、表情の陰影だけで表現することが求められたジニ役を演じきった子役キム・セロンは素晴らしい。本作はほとんどセロン一人の演技力で持っているといって過言でない。そのセロンの天性の演技力に仮託して自己導入を図りながらも客観視することも忘れなかったウニー監督の演出も素晴らしい。捨て子の問題、あるいは国外への養子縁組の問題と大きな枠組みのなかで語られる話ではあるけど映画の手触りのぬくもりはあくまで人間愛が映像言語によって象徴され普遍的な説得力を持っていると思う。    

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