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アルゼンチン映画『瞳の奥の秘密』

愛は時代を選ばない。
 時代の波頭に翻弄されても生き抜く愛こそ真実の〈愛〉と語る。
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昭和20年代の日本映画を観るのを心がけている。自分の知らない時代だが、もっとも近しい過去として自分の血肉になっている時代だと思うからだ。ここで「昭和」と元号を使うのはアジア・太平洋戦争を民族の心性として語ろうとするとき西暦では割り切れない何かがあると思っているからだ。それは曰くいいがたいもので他者に説明しようとして失語状態に陥る領域である。1945年8月15日の〈敗戦〉を境とする日本映画の状況を語ろうとするとき「昭和」として意識しないと書けない。
 その当時の日本映画はほとんどモノクロだ。そして、米軍占領下の時代には厳しい検閲も受けていて表現の自由ということではそうとうな規制があったことは確かだが、戦中の治安維持法下の時代には考えられない「民主的」な自由への渇望と讃歌が容易に読み取れる。俳優たちはホンモノの汗を流し、涙し、ときに飢えてもいた。男優も女優もたいてい痩せていた。痩せてはいたが動きは機敏であり躍動していた。男優たちの兵隊の演技は数年前まで軍隊でしこまれたホンモノの動きであり、女優さんたちも空襲下、焼夷弾に脅え、防空壕に飛び込んでいった体験者であった。命の軽さと重さを日々、切実に反芻した生活者たちであった。演技であって演技ではない気配がスクリーンに満ちていた。そういう敗戦から数年のあいだの日本映画をみるたびに、現在のニッポンはずいぶんと理想や志と違う地平まで歩んでしまったのではないかと思ったりする。
 アルゼンチン映画『瞳の奥の秘密』(ファン・ホセ・カンパネラ監督)に心動かされたひとつの大きな要因は、俳優も制作スタッフもみな1970年からはじまった軍政、軍事独裁下で「民主的良心」を押し潰した“汚い戦争”、そして対英国戦争となったマルビナス(フォークランド)紛争、そして1983年の民政移管……という故国の厳しいドラマを多感な青春期に遭遇した世代か、暗褐色の世相のなかで幼少期を過ごした人たちが丁寧に彫り込んだ作品であるとの認識がまずある。
 どんな時代でも青春の火照りは、愛の輝きに身を焦がすことをやめない。そんな個人的な体験をもつスタッフ・キャストたちがひとつの目的に向ってつくり上げているという臨場感を覚えた。1980年代、“神の手”をもったマラドーナの活躍という慰安がアルゼンチン人にもたらされたけれど、〈愛〉を残忍に断ち切られた青春の悲劇はそんなことでは癒されはしないのだ。
 そう……愛の物語である。愛の昂揚を造型するのはむずかしい。下手をすれば性愛に流れてしまう。しかし、この映画は〈心〉と〈時代〉を繋げて愛の聖性化に成功している。オスカーで外国語映画賞を獲ったことは商業的な成功へのステップにちがいないが、本作にとっては外縁のトピックにすぎない。
 推理小説の趣向もあるのでストーリーを説明的に書く愚はおかしたくないが、25年間、愛の発芽を抑えていた男と女の物語は、こんなふうにはじまる、と書いてもゆるされるはずだ。
 長年務めた刑事裁判所を定年退職したベンハミン(リカルド・ダリン)は、25年前に担当した殺人事件を発端する自分自身の物語を書こうと思案する。1974年、ブエノスアイレスで結婚間もない美貌の女性が暴行され残忍な手口で殺された。
 事件はベンハミンの執念、同僚の飲んだくれの補佐パブロ(ギレルモ・フランチェラ)の推理によって犯人を割り出し逮捕に漕ぎつける。しかし、その猟奇的殺人犯イシドロ(ハビエル・ゴディーノ)は間もなく釈放されてしまう。そればかりかイサベル・ペロン大統領の警備担当を務めるほどに出世しているのだった。(ここで話の流れを中断させてもイサベル・ペロンについて書いておかねばいけない。彼女はまずアメリカ大陸諸国における最初の女性大統領として歴史にその名をとどめる。それは栄誉であると言ってよいが、政治的にはまったく無能であった。夫ファン・ペロン大統領下、副大統領職にあったイサベルは法的な後継者として選挙を経ずに夫の死によって最高権力者の地位を手にする。しかし、イサベルには、かつてファン・ペロンを支えたエビータの民衆愛もなければ情熱も見識もなかった。指導力の欠如は軍事クーデターを誘引し、以降ながくつづく同国の政治的混乱の揺籃になった)。
 殺人者パブロは殺人事件を引き起こす前からこの国の暗部にはびこる権力の闇で働く男だった、と暗示される。釈放しないと、権力を支える蝶つがいに亀裂が走りかねないのだ。それでもベンハミンは不正を許すことができないと思った。そんなベンハミンを疎ましく思う“闇”は彼を圧殺しようとする。そのベンハミンの身代わりとなって、死を受け入れてしまうパブロがいた。やがて、ベンハミンは米国の大学にも留学した美貌の才媛、若き上司であったイレーネ(ソレダ・ビジャミル)によって安全な地方へと“左遷”させられ、そこで定年を迎えるのだ。
 そして、すっかり髪が白くなったベンハミンはまだ現役ではたらくイレーネのもとに定年の挨拶と、25年前の事件を自分の良心の証しとして追求したいと申し出るのだ。二人のあいだには25年前に秘めた、そう言葉として語られることのなかった〈愛〉の追憶があった。イレーネもすっかり老け込んでいるが仕事への情熱はうしなっていない。それが彼女の美しさも支えていよう。そして、ベンハミンが25年前の事件を思い出させたことによって、彼女もまた癒されぬ良心の疼きを甦られせる。その〈疼き〉こそ〈愛〉の再生であった。
 もうひとり……愛しい新妻を奪われたリカルド(パブロ・ラゴ)の25年間はどういうものであったか。彼は〈愛〉を封殺し、復讐の煉獄のなかで個を殺しながら生きながらえていた。妻を殺害したパブロを私刑に処した。殺しはしない。「終身刑」として家の別棟にに檻をつくり閉じ込めていた……。 
 ドストエフスキーの小説『未成年』のなかに、「愛は無からつくることはできません。無からつくれるのは、神だけです」という一節がある。
 映画『瞳の奥の秘密』には二つの〈愛〉の物語がある。それは「無」からつくられていはいない。アルゼンチンという国の現代史のなかの惨酷な政治の起伏を背景として出てきたものだ。だから、本作がかつての時代の大気を知るアルゼンチン国民に広く受入れられ空前のヒット作となったのだ。
 昭和20年代の日本映画は、戦争という個人の力ではどうにも防ぎようのない時流という波頭に呑み込まれた〈愛〉の悲劇が繰り返し映し出されていた。娯楽が少なかったから映画は大衆娯楽の王様になったことも事実だが、観客のひとりびとりが映画の物語に没我できる生身の記憶が生きていたからだ。
 〈愛〉に涙し、その苦渋を知る人には「瞳」で語られる象徴的で静謐な、そして余韻に真実を秘めたな掌(たなごころ)の会話を読み取ることができるだろう。そんな映画である。そして、愛おしさと尊さでも胸を熱くさせてくれるだろう。 愛は時代を選ばない。
 時代の波頭に翻弄されても生き抜く愛こそ真実の〈愛〉と語る。

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