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映画「リアリティのダンス」 アレハンドロ・ホドロフスキー監督

映画「リアリティのダンス」 
  アレハンドロ・ホドロフスキー監督
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 展開されていくイメージの一つひとつが珠玉の輝きだ。
そのひとつのシーン、一場の豊穣にもう少し酔わしてくれと思いまもなく監督は無慈悲にページを捲ってしまう。
ホドロフスキーは惜しみなくイメージを消費しながら少年時代を回顧するのだ。そう自伝的な作品だ。しかも撮影の地は自分が生まれ育ったチリの小さな港町トコピージャ、といってもにわかに特定することもできない小さな田舎町。そこに固執して描かれたという意味でもリアリティを追求しているのだが、そのリアリティは少年の日々の幻想、歳月とともに変形し、微小な出来事は肥大し、真実が虚構に墜ち、夢想が現実の比重を持つようになって混在のステップが踊られる。
 ガルシア=マルケスをはじめラテンアメリカの20世紀文学を「魔術的リアリズム」という言葉で要約するが、この映画は映像の力でよりあざやかにソレを開示しているのだった。
 少年アレハンドロ(イェレミアス・ハースコヴィッツ)の父ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)はロシア革命の重鎮にしてソ連邦の独裁者となったスターリンを畏敬する自称コミュニスト。日常的にスターリン愛用の擬人民服を着用してすごすが、スターリンの光背を受けたハイメは、その権威を嵩にしたラテン男性特有のマチズモの体現者となっている。
 アレハンドロの母サラ(パメラ・フローレス)は敬虔なカトリック信者だが、夫の前では発言権も希薄な僕(しもべ)として描き出される。物語は、この親子3人のドラマとして展開するが、狂言回しはハイメで、その直情的な行動が引き起こす事件によって紡いでいかれる。
 その時代、チリは右派の軍事独裁下にあった。そこで共産主義を標榜し活動するのは地下活動となるが、少年の目からみれば、それは秘儀性を帯びた結社像。だから、今年85歳、映画制作時84歳のホドロフスキー監督の記憶は、その秘儀性を濃厚に、しかし現実政治にダイレクトに結びつかないという意味において、それはそこかしこに滑稽さがうかがえる。ハイメはやがてテロリストとして独裁者を暗殺しようと試みるも、失敗し、同志を落命させる。そうした“事件”の推移はむろん監督の創作であるが、そうした虚と実がからみあって魔術的リアリズムが結晶化されてゆくのだ。
 少年ハイメの両性具有的な美少年ぶり、父ハイメのマチズモと女性崇拝、母サラの慈母性と巫女性……それぞれ対極的な二面性を持った存在として描き出される。そして、おのおのの役に呪術的にのめり込んで神がかり的な演技を魅せているのだ。むろん、そこには監督の演出の力だろうが、俳優もまた自ら没入しているようにすら思える。
 たとえば、母サラのセリフはすべてオペラ調の歌、それも即興として歌わされる。そのソプラノの声が実に生きている。サラを演じた女優は本職のオペラ歌手だから、その即興歌そのものが芸になっている。他の俳優はむろん、普通の話し言葉だから、それは異様な効果を上げている。その即興の歌に、映画ではコミュニストのテロリストとして出演しているアダン・ホドロフスキーが編集段階で見事な伴奏音楽を書いた。そう主演のブロンティスもアダンも監督の息子たちである。
 監督は父母を懐古し、監督の息子たちは祖父母を追想する映画となっているのだ。その意味では類いまれな親密的なアットホームな穏やかさをもっているのだった。
 観客をどこへ誘(いざな)っていくのはまったく見当つけがたい出だしだが、そのイメージの連鎖に呑み込まれてゆくなかで、物語が魂の救済にたどり着くことができる。そして、何かしらぬ至福の時間を過ごしたことを観客は知ることだろう。 

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