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映画『神の子どもたちはみな踊る』 ロバート・ログバル監督

映画『神の子どもたちはみな踊る』 ロバート・ログバル監督


神の子どもら


 人は誰もが祝福された愛の交歓の果実として生を受けるわけではない。
 望まれぬ生を享(う)ける子たちはあまりにも多い。不倫のなかでも受胎するし、バースコントロールの失敗であったり、強姦の不幸な結果として生誕の時を迎える子だっている。子は親を選べないし、環境、貧富の差まで丸ごと背負って人生の出発のときを迎える。その生の日々も切ないほど可憐な花のようにしか咲かせず鬼籍に入ってしまう子たちも多い。〈子〉と認識されるまま人知れず消えってしまう小さな〈生命体〉の多さ……。
 もし、人がみな「神の子」であるならば世の不公平にさいなまれることもないはずだが、そんなユートピアは願っても、「ここには存在しない」世界だ。と書いてしまえば厭世感しか残らない。それを救うのが信仰であり、芸術であり、そしてあたたかな体感をともなう「愛」ではないだろうか。現代の作家・村上春樹が造形する世界は「愛」による救いの物語に満ちている。多くの読者をかちえているのは、そうした「愛」の神話がいまを生きる切実な言霊でつづられているからだと思う。映画の原作になったのは村上の同名の短編集のなかの一篇。その短編集はすべて阪神・淡路大震災を触媒として書かれたものだ。
 原作はむろん日本が舞台だが、映画は多民族都市ロスアンジェルスの一角。シノプシスからストーリーを紹介すると……ロスに住む青年ケンゴ(ジェイソン・リュウ)は、日本的な名を持つがチャイニーズ。住まいは韓国系市民が多く住む一角。仕事も初老の韓国系男性グレン(ツィ・マー)が営むアパート管理事務所の職員。新興宗教の布教にエキセントリックな美貌の母イブリン(ジョアン・チェン)との二人暮らしで、その宗教団体の地区責任者がグレンである。ケンゴには恋人サンドラ(ソニア・キンスキー)がいて、彼女は彼に結婚を求めている。けれどケンゴは自分を「神の子」だと言い、拒絶する。むろん、サンドラはそんな「世迷言」に納得するはずはない。
 あるとき母はケンゴに出生の秘密に関わる話を告白するも、「ケンゴ、アナタは神のご意思で生を享けたのだ」と主張する。母は本気で信じている。それは彼女が生を全うしていくための支えのごときものだ。当時、母が親しくつき合っていた男性は、ベトナム戦争で耳を損傷した医師だけだった。ケンゴはある日、その男を発見するがけっきょく話しかけず、身元もわからない。
 原作の日本から多民族都市ロスへ舞台が移され、ケンゴを巡る周辺にたちあらわれるセリフをもつ配役だけで中国系、韓国系、アングロサクソン、チカーノ、そしてポーランド系市民が登場する。ソニア・キンスキーは、あの往年の美少女ナスターシャ・キンスキーの娘だからドイツ系となる。(映画にはなぜか日系人はいない)……というわけでまさに人種のルツボ。こうした国境が溶解したような世界こそ普遍的なる存在としての「神の子」を説き語るにはふさわしい。原作を換骨奪胎したシナリオは良く練られている。
 監督もスウェーデンの生まれ育ちハリウッドにやってきた才能だ。そして本作が長編映画のデビュー作となる。繊細な心のゆらぎを語り下ろす演出の冴えは手練の技と思える。
 クリスマス前にはベトナム出身のトラン・アン・ユウ監督が日本人俳優を演出した『ノルウェーの森』が公開される予定だ。村上原作の映画がたてつづけに公開されることも異例なら、その両作とも外国人監督の作品なのだ。いま海外で読者を獲得しつつある村上文学は映像言語にのってさらなる信奉者を生み出していくのだろう。村上と同世代のひとりとして、彼のような才能をもち、自分が生きた時代のアヤを真摯に語り下ろす“語り部”をもったことを同世代として尊重したと思っている。   

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