スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

花もつ女 №26 ビオレッタ・パラ(チリ 歌手・1917~1967) 

花持つ女
 ビオレッタ・パラ (チリ 歌手・1917~1967) 

 ラテンアメリカの革命は歌とともにやってくる、といわれる。
 日本でも同じみのメキシコ俗謡「ラ・クカラチャ」はメキシコ革命で活躍した女性兵士たちへの讃歌であり、情宣歌であった。キューバ革命も歌があり、そのキューバから支援されたニカラグアのサンディニスタ革命戦争当時には「ギターをもったゲリラ」という言葉も生まれた。エル・サルバドルのファラブンド・マティ革命軍の秘密放送は「カサス・デ・カルトン」というフォークロックではじまった。チリで初めて社会主義政権が誕生する前にも多くのフォークローレ、民衆の歌が生まれた。その歌が豊潤に生まれるようにチリの音楽畑を耕し、肥沃な地にしたのがパラだ。もっともパラが社会主義者であったかというとそうではない、強いて言えば社会的公正を求める民衆派。

 パラは歌いながらチリ全土を歩いた。民衆のあいだに歌い継がれている楽譜のない歌を採譜して回った。実践的音楽学者ともいえる。
 パラによって発掘され記録されることになった多くの歌はチリの無形文化財となった。
 その宝を滋養にしてアジェンデが指導する学生たギターや民族楽器をもって人民戦線の周りにあつまり地方キャラバンを開始した。多くの学生が地方から辺境へとギターをもって長足の旅をつづけた。電化されない地方でも歌えるアコースティック・サウンドで。パンチョ・ビジャやサパタが活躍したメキシコ革命当時と変わらない。そこにパラの歌、彼女が採譜した民謡があったのはいうまでもない。

 パラはそうした民謡を聴かせるライブハウス、チリではベーニャと呼ばれる飲食できるテント小屋を作り経営した。しかし、ビジネス向きの才能は持ち合わせていなかった。立地条件を考慮するまえに自分が気にいった景観のある不便な場所にベーニャを作った。最初のものめずらしさが過ぎれば客足は遠のく。経営は頓挫、どうじに恋人も失い、絶望して頭部をピストルで打ち抜いた。……と書けば、いかにもありそう、ということになるが、もっと複雑な思いもあったかも知れないし、そうした激情性もあったことは確か。 パラの葬儀にアジェンデも参加した。
 
 パラはまず歌手であったが、表現欲求は烈しく、内なる声にうながされるまま手芸、刺繍、とくにタペストリーを創作していった。特に独創性に富んだタペストリーはパリ・ルーブル美術館に買い上げられ収蔵されている。絵画や彫刻にも手を染めた。生きるほど表現活動を拡張した。
パラの歌は自殺で完結しなかった。子どもたちが継承した。ピノチェット軍事独裁下では、その子どもたちはメキシコに政治亡命、メキシコ市にベーニャを建て、母国で闘う民衆をために母パラの歌を演奏した。
 パラ、それはラテンアメリカ女の熱情の在り方を象徴するような、その生き様そのものが一篇の叙事詩であった。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。