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バルカン  戦争・民族・宗教   ~旧ユーゴスラビア諸国の旅から その1

第一回
 クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ紀行  

3月下旬(2013)、中欧ハンガリーの首都ブタペストにパリ経由のエール・フランス機で入った。日本からの直行便はない。東欧諸国や旧ソ連圏のスラブ諸国、コーカサス諸国もまた、冷戦時代の不便さは解消されたものの日本からの直行便は数カ国で実現しているぐらいで現在もアクセスは悪い。
 ブタペストは季節外れの大雪に見舞われていた。中央ヨーロッパ諸国を厚く覆ったその降雪は、やがて5月下旬にドナウ河で急激な数位の上昇を招き、流域に洪水をもたらした。
 そのブタペストから南下、旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア、ボニスア・ヘルツェゴビナを地元でレンタカーを借りて走りまわってきた。
 陸路で国境を越える旅はラテンアメリカで暮らした筆者にとっては当たり前のことだったが、国境を幾つ越えても基本的に聞こえてくる言葉は同じスペイン語、町の作りもカトリック聖堂を中心に置き、広場を設け周囲に官公庁を配置する佇まいも変わらず、ほとんど違和感なく溶け込めるものだった。カーラジオで聴くヒット曲も共有されていた。
 しかし、クロアチアはカトリック、ボスニア・ヘルツェゴビアに入ればイスラム寺院のモスクが、コーランを朗誦して聴かせる塔ミナレットで所在を主張するイスラム圏となる。ややこしいことに現在のボスニアのなかには、内戦の拡大、それが隣国へ飛び火することを恐れたユーロ諸国、NATO軍によって強引だが、民族浄化など戦争犯罪を止めるためには必要であった停戦交渉のなかで、東方正教会系のセルビア人居住区に高度な自治権を与える「スルプスカ共和国」というのが並立することになった。首都のサラエボもまた目にみえない境界線で分割されているのだ。

 極端でもなんでもなく1日車を飛ばせば3つの宗教圏を横断できてしまう。それがかつて旧ユーゴスラビアを、“五つの民族、四 つの言語、三つの宗教、二つの文字”から成る国とわれた錯綜を象徴するものだろう。チトー大統領戴いたユーゴは、六つの共和国と二つの自治州からなる連邦制度のもとで結合していた。しかし、民族的にはみな同じ「南スラブ人」なのである。ユーゴスラビアとは、「南のスラブ人の国」という意味なのだ。この同じ民族が何故、バベルの塔を作りつづける人間の驕りをいさめるように神は破壊し、話す言葉をばらばらにして離散させたという神話のごとき状況になってしまったか、それが本連載の主要テーマである。
 しかし、第一回は旅の見聞を中心に現状報告して連載の序章としたいと思った。
 
 クロアチアの旅は同国第二の都市スプリトからはじまった。この町の旧市街がアドリア海に突き出た小半島に古代ギリシャ、ローマの遺構があり、その上にカトリック教会を中心に市街が広がる要塞都市を持つ。ユネスコの世界遺産に登録されているところだ。
 このスプリトを含む沿岸地方をダルマチアという。ディズニー映画『101匹わんちゃん』でおなじみのダルマチア犬の原産地である。また、モンゴル帝国を歩き『東方見聞録』を遺したマルコ・ポーロはこの沿岸沖に浮かぶ小さな島で生まれた。彼はヴェネチア人(イタリア)であったが、当時のダルマチアはヴェネチア共和国の直轄領であったため、この地にカトリック文化が根付いた。現在、東京を拠点に世界各地で音楽活動をつづけている女性歌手ヤドランカさんはユーゴ解体前のボスニアの首都サラエボで生まれスプリトを含むダルマチアで幼少期を過ごした。そして、ユーゴ人として日本で活動中、母国は崩壊、パスポートは無効になり、そしてボスニア内戦が勃発して帰国するができなくなった 人だ。
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 アドリア海はほんとうに美しい。スプリトから海岸線に沿って往復二百キロほど走ったと思うが、水面の美しさだけでなく、沿岸の町、車道にけばけばしい広告看板は一切なく、美しい自然の景観はそのまま残され、大気はまったく清涼で、日本の臨海道路を走らせて感じる湿度のある潮臭さというものには無縁であった。
 西欧諸国の観光客でにぎわうスプリットから車で早朝、出発すれば、その日の夕方にはボスニアの首都サラエボのモスクに詣でることも可能な距離であった。第2次大戦後、欧州でもっとも激しい戦争となった旧ユーゴ諸国の内戦はほんとうに狭い地域で起きたことを知る。クロアチアは九州より一回り広い程度、ボスニアは北海道と岩手県を合わせた程度である。いまも紛争 がつづくコソボに至っては、岐阜県とほぼ同じ国土面積だ。そうした領土の狭さは戦闘に巻き込まれる一般市民の犠牲者が多く出るということでもあった。筆者がかつて暮らした中米グァテマラ、そして隣国のエル・サルバドルの2カ国は深刻な内戦に苦しんだが、それは国土の狭さもあったからだと思う。   
  
 70年アンポ世代というものがあった。アンポは日米安全保障条約の「安」と「保」を貼り合わせた略語だが、すっかり歴史用語となってしまった。その時代、既成左翼のカビ、滓を徹底的に排したいと多くの「新」左翼組織が誕生した。
 既成の政治組織を超えた運動の在り方といってもモデルがいる。スターリンに追われメキシコに亡命し謀殺されたトロツキーの思想に学ぼうという若者が現れる。中国の文化大革命のバーバリズムの実相もしらず、毛沢東派なのる輩も出てくる。そんななかでソ連とも中国とも距離をおいた社会主義の道を実現していた(と見えた)ユーゴに模範と光輝を見い出そうという若者が出てくる。しかし、チトーが死去し、ユーゴが解体しみれば膨大な対外債務が遺されていた。チトーはソ連に加わらないとういう西側諸国との“約束”によって、繁栄する西欧からの経済援助を受けつづけ、借金が膨らむと、またさらなる援助を求める、という豊満財政下にあったことが解体後、明らかになった。ただし、西側諸国への窓を開きつづけたお陰でロシア 東欧圏より工業化は進み、観光客の誘致に励んだおかげで潤った。その最大の恩恵地はアドリア沿岸地方だった。
 クロアチアとスロベニアがもっとも経済発展したが、むろんチトーの手腕によるものではなく、西側諸国に国境を接していた地の利、この二ヵ国のみ西欧と文化的な価値観を共有しやすいカトリック国であったからだ。
 日本の付け焼刃的な「新」左翼活動家たちはバルカン諸国とオスマン・トルコ帝国との攻防史を学ぶことはなかった。彼らにとってユーゴとはチトーの時代から始まるものであった。それではボスニア内戦の内実は何もみえない。
 第二次大戦下、ナチ・ドイツ、ファシスト・イタリア軍と果敢に戦ったチトー将軍指揮下のパルチザン勢力が、戦後、ベオグラードを首都とする ユーゴスラビア連邦共和国を成立させた。初期にはソ連の援助で、後には西側の経済援助によって他の東欧諸国とはまったく異なる経済発展を遂げた。表現の自由、外国人観光客の出入りもオープンな、それは現在の社会主義キューバ並みの開放性をもつものだった。
 1991年6月、スロベニアが独立宣言をした。ユーゴ解体の始まりだ。スロベニア独立に対してセルビアの「連邦軍」が武力介入し、小規模な内戦がはじまった。この時、セルビアが独立を力づくで抑え込もうとしなければ、その後にはじまる旧ユーゴの悲惨な内戦はなかっただろう。独立を志向する他の旧ユーゴ諸国は、ベオグラードのセルビア政府が武力で「独立」を阻止しよというなら、それに抵抗できる武器・兵力を持とうと、まずクロアチアが動いた。スロベニアの武力介入が悪例をつくったといえる。クロアチアとセルビアとの内戦がはじまる。ボスニアの少数派であったセルビア人は勢力圏の拡大を狙って武装蜂起し内戦がはじまる。現在もこう着状態にあるコソボの内戦も惹起した。
 
 1994年2月、ノルウェーのリレハンメルで冬季オリンピックの開会式が行なわれた当日、筆者は熱帯のカリブ沿岸の小国ベリーズの首都ベルモパンのホテルでクーラーの効いた部屋にいた。ベットに横たわりながらTVで華やかな開会セレモニーを眺めていた。
 その開会式が行なわれたスタジアムの電光スクリーンにサラエボの荒廃したオリンピック元会場が映し出された。1984年、社会主義国としてはじめて冬季オリンピックの主会場となったスタジアムである。そこは仮設の墓地となっていた。
 内戦中、多くの市民が市街戦、射殺、爆殺、そして虐殺によって殺された。市内の墓地は飽和状態となり、郊外の墓地に行くにはセルビア人武装勢力の支配地域を通過しなければならなかったボスニア人は、“空き地”となっていたスタジアムの土を掘り起こし仮設墓地とした。サラエボの平和の祭典は、リレハンメル大会からわずか10年前のことに過ぎない。そのとき五輪のはなやぎのなかでサラエボ市民はおろか世界中でTV中継を視聴していた者、誰がオリンピック競技場がまもとな墓標もない 無惨・荒涼とした墓地に変貌してしまうことを想像できただろうか? 
 先に紹介したヤドランカさんは、サラエボ大会の開会式で、クロアチア生まれのマルコ・ポーロの遥かな旅に託し、平和はひとびとを時空を超えて繋ぐと朗唱したのだった。

 リレハンメル大会から数年後、中米エル・サルバドルで人権・平和活動に献身した人(団体)を顕彰しようと「オスカル・ロメロ賞」が創設された。同国は12年の激しい内戦で多くの犠牲者を出した。その内戦の初期、首都サン・サルバドル大司教がミサの最中に暗殺された。政府軍右派の青年将校のテロだった。大司教は、食事もままならないスラム民衆によりそって献身的な活動をつづけた。そして、教会放送を通じて政府軍の暴力を諌め、独裁政権を批 判することもためらわなかった。大司教の善意は、右派政権から左派的な社会改革活動とにらまれ、“赤い聖職者”として再三、暴力による威嚇を受けていた。しかし、神の導きによって困窮する民衆に寄り添い、民の声を代弁しつづけると不退転の姿勢を崩さなかった。そうして暗殺された。賞の名は、その大司教の名を冠したものだ。
 12年のエル・サルバドル内戦が終結し、社会が平穏化した時期、同国の人権団体などがロメロ大司教の志を汲むように、その名を冠した平和賞を創設したのだ。その第一回目の受賞者がサラエボで、戦火のなかでも一つの民族に偏しない報道をつづけていた新聞社オスロボジェーネに贈られたのだ。
 ラテンアメリカで13年生活しているあいだに私がもっとも鮮明に思い出すことができるボスニアの話題はその二つだ。そのボスニアに行くことなど、当時、考えも及ばないことだった。オリンピック競技場が墓場に変わることなど誰も想像できなかったように。

 ボスニアはただ、車で走っているだけで内戦の〈傷〉が露出しているのを散見できた。
 たとえば、道路の分岐点の前にたつ地名標識はボスニア語とセルビア語で書かれている。ボスニア語はローマ字で示され、セルビア語はキール文字で示される。そのキール文字のほとんどが黒々とした乱暴な線で消されていたり、なかにはガスバーナーで焼かれたと思える焦げ痕があるのだった。内戦時代の古いものではない。あきらかに新しく立てられたと思われる標識も損傷されているのだった。そんな〈傷〉を舐めるように車を走らせた。ネレト バ川に沿って走り峠の道を昇り降りしてサラエボに入った。
 かつてスナイパー通りといわれた見晴らしのよい道路のすぐそばに内戦中、世界中のジャーナリストを宿泊させたホテル・ホリディーインがある。映画にも幾度か登場したホテルだ。砲撃を受けながらも営業を続けていた。限られた食材を工夫しながら記者たちをもてなしていたが、デザートはしなびた林檎であった。
 スナイパー通りとは、セルビア人武装組織の射撃手がサラエボ市民を狙い撃ちし、多くの犠牲者を出した通りの俗称だ。その通りにはおしゃれな路面電車が走っていた。内戦中、路面電車の車輌は焼け爛れ鉄さびをさらしていた。いまは2両編成の路面電車として復興して滑るように走っていた。その電車の横を走り抜けてサラ エボの旧市街へ向った。

 サラエボはミリャツカ川いう小さな川沿いに発展した町だ。第一世界大戦開戦の導火線は、この川の畔、川に架かる石畳の橋の袂で起きた。オーストリアからの独立を求めるセルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を射殺した事件が発端だ。その事件現場はいまも保存され、サラエボ観光のランドマークとなっている。
 モスタルの石橋
そのミチャツカ川はやがてネレトバ川に吸収され、アドリア海に注ぐ。そのネレトバ川に沿ってサラエボから車で3時間ほど西へ走らせると古都モスタルに着く。オスマン・トルコ時代の名残りを色濃くとどめた町で、ネレトバ川に架かるスターリ・モストと呼ばれる美しい石の橋の両岸に発展した。トルコ人がつくった橋で、その周辺の景観は世界遺産に指定されている。橋は第2次 大戦の戦火にあっても落ちなかったが、ボスニア内戦の爆撃で破壊された。対外戦争で破壊を免れた橋が、昨日までの友人であった者との戦いのなかで無惨に落ちた。それほどボスニア内戦は烈しかった。
 スターリ・モストの近くに小さなイスラム寺院に抱かれる墓地があった。墓標がみな新しく、しかも形状がほとんど同じだった。ふと思い当たることがあって、墓地に入っていた。白い墓標群に汚れはまったくなかった。墓標の記しをみると「1994」、ほとんどが同じ没年を記しているのだった。20~30代の夭折が無惨に林立していた。 ボスニア現代史から1994年の項目を探す。
 NATO軍がボスニア内戦に武力介入しセルビア軍に対して空爆を繰り返した時期だった。この空爆に対しセルビア軍は中立的立場で活動していた国連保護軍の兵士を人質にとってNATO諸国に揺さぶりを掛けるなど、戦況は泥沼化していた。墓に眠る若き兵士たちはこの時期に戦死していた。
 同じような墓の仕様、没年がほぼ同じ若者の墓の林立というのを数年前にみたことを思い出した。
 中央アジアのウズベキスタンを訪れた時のこと、大戦の敗戦で満州などに展開していた日本人将兵はシベリアに抑留された。その将兵たちの多くが労働力としてウズベキスタンで運河作りに動員された。そこで横死した日本将兵たちは国内数カ所にまとめて埋葬された。その墓地の一角に必ず若い青年たちの墓が林立し、その没年が ほぼ同じだった。
 アフガニスタンの戦場で斃れた将兵たちであった。ソ連時代、赤軍は作戦行動を容易にするためアフガニスタンの主要言語であるタジク語を理解できる中央アジアの連邦諸国から多くの若者を狩りだし戦地に送ったのだ。日本ではロシア人兵士とアフガニスタン・ゲリラとの戦いと思われているようだが内実は違う。ソ連時代、中央アジア5カ国の多くの青年たちがソ連兵士として前線で戦い死んでいるのだ。ソ連解体後、ロシアからの独立を求めて戦ったチェチェンからも多くの若者がアフガニスタンに派遣された。チェチェン内戦は、かつてアフガニスタンで戦友であった兵士たちが、敵味方に分かれて凄惨な戦いを展開したのだった。北京オリンピック開催中に起きたグルジア戦争もまた同じような状況を呈した のだ。
 ウズベキスタンはソ連解体後、民族的伝統を復興させ、イスラム寺院の多くを再興させ、聖職者などを育成する教育施設マドラサも建てられた。墓の多くもイスラム仕様になっていただろう。ボスニアも同じような宗教化が起きている。サラエボでは広壮なイスラム寺院が内戦後に建てられている。

 冷たい雨の降る古都モスタルの墓地の前を、ヒジャブで頭部を覆った若い女性たちの一群が通った。ヒジャブとはイスラム教徒の女性たちが頭髪を覆うスカーフの名である。さまざまな色のヒジャブだったが、みな淡いパステルカラーでとてもおしゃれな印象。それはごく自然な光景として町に溶け込んでいた。
 ボスニア内戦下、ボスニア人はイスラム回帰、宗教性を深めたといわれる。原理主義に民族性を求める若者も増えた。一方、クロアチア各地で訪れたカトリック聖堂はどこも日曜礼拝に多くの老若男女が集っていた。ハンガリーのブラペストでも。ポーランドから東欧圏出身の初の法王としてヨハネ・パブロ二世が選出され、同国のカトリック教会は豊かになった。ロシアでは正教会が次々と復活し、旧ユーゴ諸国の各地の内戦では欧米諸国から“悪者”と指弾されたセルビア軍、武装勢力を精神的に支えたのはロシアと同じ正教会への信仰でもあっただろう。世界でもっとも古くキリスト教を国教と定めたコーカサスの小国アルメニアは、世界中に四散した同胞たちの精神的な支柱の位置を獲得した。
 冷戦後、イスラム原理主義の台頭ばかりがいわれるが、キリスト教圏でも原理主義的な組織の台頭を含め、多くの能動的な活動が生じたことは忘れてならないだろう。

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