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バルカン  戦争・民族・宗教   ~旧ユーゴスラビア諸国の旅から その2

バルカン 戦争・民族・宗教 第2回 
 バルカン史のなかの旧ユーゴスラビア諸国


 チェコ・プラハ生まれのドイツ人で大学卒業後、米国に移住、著名な政治学者となったカール・ドイッチェの著書『ナショナリズムとそれに代わるもの』のなかに、次のような言葉がある。ヨーロッパに伝わる巷説として引用しているものだ。
 「民族とは、自分たちの先祖に対して抱く共通の誤解と、自分たちの隣人に対して抱く共通の嫌悪感とによって結びつけられた人びとの集団である」(勝村茂・星野昭吉訳)
 この巷説ほど旧ユーゴスラビアという国の「民族」の内実を言い当てたものはないだろう。

 ドイッチェが世界的に知られるようになったのは、1957年に提唱した「安全保障共同体」で、主義主張の対立を武力に頼らず、さまざまなに表象されている相違も、歴史、地域、言語、宗教など共同体感覚、相互の共感、信頼、共通利益などによって結びつけようという概念を提言し、現実的に実現可能な政治理念として注目された。
 実は、このドイッチェの著書は、今回、バルカン史及びユーゴスラビア史などさまざまな文献を漁(あさ)っている過程で手にしたものだ。1977年に刊行された大部な『バルカン現代史』(木戸蓊著・山川出版社刊)の冒頭で引用されていた。むろん、チトー大統領下のユーゴスラビアは安泰で亀裂の気配はまだみえていない時代だ。そればかりか1984年のサラエボ冬季五輪へ立候補の準備をしていた頃で、大いに“国威”が発揚していた時期にあたる。
 それでも著者の木戸氏は、バルカン史を精密にたどりながら当時の現状を客観視しつつ、歴史の真実に「平和」はいつまで保たれるのかと示唆している。しかし、木戸氏の先見性に気づいた読者は少ないだろう。
 そして、いまボスニア=ヘルツェゴヴィナやクロアチア、さらにバルカン半島南下の拠点としてハンガリーの首都ブタペストで現代史を旅し、車を走らせ、散策し、市民と接触してきた後日談として、これを書いているわけだが、木戸氏がその著書の冒頭で記したドイッチェの引用が、そのまま使えてしまう現実に暗澹たる思いがする。
 旧ユーゴスラビアの諸民族のなかに内在していた「共通の誤解」と「共通の嫌悪感」が内戦をかくも凄惨にしたものであったことを今更ながらに認識するのである。
 木戸氏は、旧ユーゴスラビアをドイッチェ提唱の「安全保障共同体」のひとつの変形として見なしもしただろう、がしかしという保留をつけて歴史を検証していた。その著書の刊行から15年ほどで「共同体」は炎に包まれて、燎原の火となってチトーが築いた母屋も土台ごと崩れた。
 ドイッチェの死は1992年11月であった。ボスニア内戦が始まったのは、その年の4月であり、その前にスロベニア独立紛争、つづいてクロアチア紛争をドイッチェは最晩年の日々に望見していたのだ。
 ヨーロッパの巷説が硝煙と血の臭気とともに浮上した。そのことを、あたらめて確認しながら、一介の政治学者が現実政治に有効に関われることなんて実際、たいしたことはないと諦観しつつ現世に別れをつげたのではあるまいか。

▽和平交渉の場で
 1995年12月14日、パリでボスニア内戦を終結に導くため当該国首脳を参集して交渉が行なわれ、和平のための調印式まで漕ぎつけた。
 この調印式にはボスニア、セルビア、クロアチア三カ国の首脳に加え、クリントン米国大統領、シラク仏大統領、メイジャー英国首相、コール独首相、そしてゴンザレス・スペイン首相がEU議長の資格で参加した。
 調印式の後、旧ユーゴスラビアの三カ国首脳の挨拶が行なわれたが、それはセレモニーとして勤めなければならないもので、不承不承、求めに応じて仕方なしに演台に立ったというものだった。
 三カ国首脳は誰も納得していず、こんな調印書一片でバルカンの和平が長続きすると思ったら間違いだぞ、と内外にあらためて宣言しているようなものだった。しかし、内心はそうであっても、3カ国とも内戦に倦み、疲弊していた。とりあえず、矛をおさめよう、という消極的なものだった。したがって、「調印書」で旧ユーゴスラビアの諸処の紛争すべてが解決するものではなく、あくまでボスニア内戦に関する和平であって、コソボ紛争への関与はいっさい除外されていた。
 さて、その演台にあがったボスニア、クロアチア、そしてセルビアの三カ国首脳たちの挨拶を記しておかねばならない。それは以下のごとき寒風吹き込むような荒涼としたものだった。
 ボスニアのアリア・イゼトベゴヴィッチ幹部会議長は、
 「私の政府はこの協定に参加 するに当たって、如何なる熱意をもっていず、苦(にが)いけれども効果のある一服の薬を飲む者として参加しています」と言い切ったものだ。
 小国の苦々しい悲哀がそこに表出されているとともに、こんな調印“一服”で完治するような軽い疾患ではない、と言い切っているようなものだ。
 クロアチアのフラニョ・トゥジマン大統領は、
 「(旧ユーゴスラビアの)危機はまことに根深い理由によって生じた。本質的には(第一次大戦後の)ヴェルサイユ平和条約によって拍車をかけられたものでありますが、もっと遡ればローマ帝国が西と東の両帝国に分解したことに因があります。オスマン・トルコ帝国の侵入のことはいまは申しますまい」と語った。
 内戦の根本たる原因、その責任は自分たちにありません。近隣の超大国の覇権争い、そう貪欲な帝国主義によって翻弄されてきた私たち小民族の歴史のなかにこそ主因があるのです。よって責任は大国の横暴にある、と宣言しているようなものだ。
 後に戦争犯罪の罪に問われ、ハーグ(オランダ)に収監中に独房で死亡したセルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は、それまでボスニアで組織的と思える人権犯罪に手を染めていたことなどなかったかのように、
 「和平協定の施行と和平維持軍隊(NATO)の役割に関しては、いずれも公平さが成功の鍵であり、偏向は失敗の鍵であります」とシラッと述べたものだ。
 セルビア一国を責めるのは将来にわたって周辺諸国もろとも禍根を残すことになりますぞ、と脅しているようものだ。
 要するに、三者三様、まったく和平協定に調印はしても、いささかも尊重する気配はない。しかし、国際的に約束することは事実だから、昨日までの敵が協定違反を犯さない限り守りましょう、と消極的選択したに過ぎないとも語っているのだ。
 それぞれの不信の念は根強いわけだから、和平後も武力は放棄せず、近い将来起きるかも知れない紛争に備え、冷戦終結後のあらたなパワーポリティカルを考慮しつつ“味方”をそれぞれ選択した。
 スロベニアははやばやとEU入りし、つづいてクロアチアが加盟した。セルビアはロシアに接近し、ボスニアはあきらかにトルコなどイスラム穏健派ばかりでなく、内戦下で原理主義の影響も受けた。
 いまは静穏にそれぞれの国づくりに励んでいる。クロアチアの美しい沿岸地方は北欧からの観光客を迎えて潤っているし快適な高速道路が国土を縦断する。内戦で荒廃したサラエボの復興も著しい。

 しかし、内戦はつい昨日の記憶だ。内戦中に噴き出した「共通の嫌悪感」は、親兄弟姉妹の犠牲の記憶とともに世代を超えて生きつづけることは確かだろう。
 パレスチナ民衆や、イスラム原理主義の対イスラエル、対米国対英国などへの自爆攻撃は、愛する家族が犠牲になった子、兄弟姉妹、あるいは妻たちが率先して自らが生ける爆弾となったことによって大きな破壊力をもった。「共通の嫌悪感」を現在ただいまシンボライズするものとして、本連載の第1回目のボスニア紀行のなかに書いた。道路標識の焼け焦げ痕を……。

▽紛争につぐ紛争の歴史
 クロアチアのトゥジマン大統領はパリの調印式での挨拶のなかで、欧州史を紀元前まで遡(さかのぼ)ってバルカン諸国の矛盾、係争の根の深さを語ろうした。古代ローマ帝国の盛衰まで言及したら、以後、無数に変遷した国境のことを書くだけでたちまち紙幅が尽きる。
 同大統領は、「オスマン・トルコ帝国の侵入」に触れた。ボスニア内戦でもっとも悲惨な状況におかれたムスリム系市民のことを思えば、この地を深く喰(は)んだオスマン・トルコの征服時代から書くのが妥当かと思う。
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オスマン・トルコがこの地をほぼ占領し終えたのは15世紀だが、それより遥か以前、紀元前の古代ギリシア・ローマ帝国時代以来、ヨーロッパ文明だけでなくアジア・中近東の諸文明、諸帝国が武力を先頭に仕立ててバルカンの地で衝突を繰り返していた。ここは諸文明が交差する天然の通路であった。
 バルカン半島には、征服を困難にするアルプス、ピレネー山脈のような天然の要害が存在しない。海からも陸路からも侵入しやすい地勢だ。そして、バルカンの地にさまざまな文化が並存することになったのは、各地域が隣接地域とは山で隔てられていたことによる。対外的には開放的であったが、対内的には閉鎖的な空間が無数に林立するという特異な地勢であることも問題を複雑化した。そして、その閉鎖的な空間のなかで、それぞれ異なる宗教共同体を生み出した。サラエボはそうした諸地域の住民が交流する都市であったため、それぞれの宗教を信奉する人たちがおおまかな居住地空間をつくっていた。したがって、平和な時代は国際的融和を謳うオリンピックの開催地として、これほどふさわし い町はないが、一端、民族的紛争が勃発すれば銃弾飛び交う凄惨な地となってしまった。
 オスマン・トルコ軍が武力でバルカンの地に入ったのは1354年のことで、現在のセルビアに入ったのは1385年のことだ。1463年には現在のボスニアに侵入し、支配を開始する。この支配の当初にボスニアの古いカトリック共同体であったボゴミール派と呼ばれる住民の多くがトルコ人との交流によって生み出される経済的利益を考慮してイスラム教に改宗したといわれる。
 このオスマン・トルコの侵入はバルカン半島各地に血縁的共同体として結束していた土着領主・貴族たちを一掃した。トルコ軍は、辛酸を舐めていた(南スラブ人)農民たちにとっては解放軍であった。そこから改宗も容易に起こった。トルコの支配がバルカン全土に比較的早く覇を唱えることができたのも、当時の社会的条件がトルコ軍に幸いしたからだ。そして、その占領上昇期に統治機構が完成、熟成されて4世紀にわたる支配が持続することになった。
 この時代のバルカン諸民族を、かつてエンゲルスは、「歴史なき民族」と言わしめた。4世紀の占領時代は、民族固有の歴史が剥奪された空白期となった。
 17世紀はオスマン・トルコ帝国の絶頂期であり、1683年にはオーストリアの首都ウィーンを攻囲するまでに勢力を拡大した。
 モーツァルトの有名なピアノ曲「トルコ行進曲」は、トルコ軍楽隊の打楽器の音色を模倣したものといわれるが、ウィーン攻囲から約百年を経た西欧社会にトルコ文化が深甚な影響を与えていたことが、それで分かる。
 オスマン・トルコ帝国の衰退は1565年、スレイマン大帝の死去とともに顕著になる。帝国の形成期には帝位継承権も実力主義でもぎ取られていったが、安定期に入ると王家の最年長者の男子が器量に関係なく帝位につくことになった。そのため凡庸な皇帝を取り込んで権勢をふるうようになる高官がでてくるのは世の常、その高官たちが派閥争いをはじめるようになると、大帝国の行政機関への監視も疎かになり、伸びきった国境線から侵食されてゆくようになる。
 18世紀には入ると独立を求めるナショナリズムがバルカン各地に芽生え、19世紀に入ると武力でトルコ占領軍と戦う独立戦争が各地で起きる。そして、1914年6月、サラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビアの青年によって暗殺され第一次大戦の引き金となり、この大戦でトルコは敗戦国となるのだが、これによって現在のような国境線に区切られたバルカン諸国が誕生する。
 巨大なトルコ占領軍と戦うため、指導者たちは同朋を糾合し戦闘員を集め、シンパを広く確保するために共通の理念、共同体意識を模索した。4世紀の歴史の空白期に範を求めることができない指導者たちは、各民族の最盛期、過去の古(いにしえ)、もっとも勢力を誇っていた時代に憧憬を見出した。それは必然の成り行きというものだった。
 各民族はオスマン・トルコ占領時代前の歴史において、それぞれ“栄光”の時代を持っていた。しかし、過去の栄光史は近隣諸国を従属・隷属した歴史でもあった。独立闘争を求めるに急で、独立後の近隣諸国との共存共栄まで配慮することはなかった。あまりにも民族主義を拙速に謳(うた)いあげた。トルコからの独立はそのまま国境紛争の火種となった。そこに西欧諸国やロシアなど覇権国家が権益を求めて影響力を行使する機会を与えてしまった。
 今日の旧ユーゴスラビア諸国の紛争にことどく関与するセルビアの民族主義は、この時代に芽生えた「大セルビア主義」を根とする。
 コソボ紛争はまだ終結していない。コソボの現在の最大人口はアルバニア系だ。セルビアがコソボの独立を認めようとしないのは、その地はセルビア正教会の発祥の地だからだ。セルビア人が少数派になったのはトルコ占領時代における抑圧からだ。ベオグラードのセルビア政府は西欧社会からの非難にも関わらずコソボに執着するのは民族の精神的な揺籃の地とみるからだ。と同じように、ボスニア・ヘルツェコヴィナの地も、セルビア人が総人口の30%を占めるとして、その独立ないしはセルビアとの融合を企図して内戦を苛烈なものにしたのだ。
 ……と簡略、駆け足そのものというべき歴史を俯瞰するだけでも、パリでの和平交渉における各首脳の熱意のない挨拶ぶりが理解できると思う。

 ここまで2回分の原稿を書いてきて気づかれた方もいると思うが女性の名が登場しない。「女性」と書くとき、それは内戦
における無名の被害者としての存在だけだった。むろん、女性も内戦に加担してきた。「民族浄化」が行なわれていることを知りながら沈黙した女性たちも多かったし、セルビアの独裁者ミロシェヴィチ大統領の夫人ミラは、夫の“勇断”を支持して止まなかった。
 旧ユーゴ解体後の社会を冷徹に見据えたルポを書いた女性作家もいたし、女性の視点で内戦をルポしたジャーナリストもいた。そうした著作は筆者の知見を豊かにしたことは確かだが、引用する機会はなかった。しかし、今回は最後に女性たちの真摯な活動を記しておきたい。
 現在、クロアチアのアドリア海沿岸に浮かぶブラック島にSekaと呼ばれる保養施設がある。セルボ(セルビア)・クロアチア語で「姉妹」を意味する。内戦下、性暴力の被害にあった女性、精神的障害を負った女性やこどもを救済する目的で作
られた施設だ。民族や宗教の違いを超えて運営されている。欧米諸国のアーティストたちも支援活動を行なっていて、先年、アルバム『SEKA』を作成、収益を全額寄贈している。
 運営の主体は旧ユーゴ諸国出身の女性、西欧諸国の女性たち。内戦でもっとも傷ついたのは女性であ り子どもたちだ。戦火はいつも弱者をいちばんの被害者とする。そして、まっさきに救助に手を染めるのも無名の女性たちだ。真の勇者はそうした女性たちだ。その人たちの名を上げる機会はないが、ここに記憶にとどめておきたい。

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