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バルカン  戦争・民族・宗教   ~旧ユーゴスラビア諸国の旅から その3

 今年6月、サッカー・ワールドカップのブラジル大会が行なわれる。大会に旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ(以下、ボスニア)が参加する。クロアチアは2大会ぶり2度目、ボスニアは初出場になる。
  旧ユーゴスラビア、ボスニアのサッカー事情を知らなくても、前日本代表チームの監督だったイヴァン・オシムの名はサッカー・ファンならずとも記憶されていることと思う。オシム氏はボスニアの首都サラエボ出身で、ユーゴスラビア解体前、最後のナショナルチームの監督であった人だ。そして、オシム氏が生まれ育ったサラエボのグルヴァヴィッア地区は内戦中、もっとも破壊的な悲劇を生みだしたところだった。民族浄化という 惨劇も繰り返された場所であった。
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オシム氏は内戦後、こんなふうに語っていた。
 「グルバヴィッツァで20世紀、人類として恥じるべき、また運命的な悲劇が繰り広げられた物語を語るなかで、人類は二度と決してこのような悲劇をいっときも、如何なる場所においても繰り返してはならないというメッセージを発している。グルヴァヴィッァは、20世紀、人類の良心モラルがかき消され、憎悪心にあやつられた武装兵士たちによって計画的に組織された民間へのレイプ行為が繰り広げられたことで、この紛争の一大悲劇の舞台となり、世界史上においても類なく稀な場所となってしまった」と。
 これはボスニア内戦がもたらした母と娘の悲劇を描いた映画『サラエボの花』の日本公開に先 立って、映画を上映する岩波ホール作成のプログラムに寄せたものだ。
 オシム監督に率いられたユーゴスラビア・ナショナルチームは1990年イタリアW杯で準々決勝まで進出、南米の強豪国で同大会で準優勝国となったアルゼンチンと互角に渡り合い延長戦となるも0-0に決着せずPK戦にもつれ破れている。そのアルゼンチンには国民的英雄ディエゴ・マラドーナを擁していたのだ。つまりオシム監督のユーゴ代表は決勝戦までいける可能性があり、優勝さえ狙える実力国であった。
 1992年、サラエボがユーゴスラビア連邦軍に包囲され砲撃を受けているとき、皮肉にもオシム監督はまだユーゴスラビア代表監督であり、国内にあってはセルビアの名門チーム、パルチザン・ベオグラードの監 督であったのだ。つまりオシム監督は“敵国”の首都ベオグラードの真っ只中にいて、“敵国”の最強チームの監督を務めていたのだ。オシム自身の存在がユーゴスラビア解体後の坂道を転がり落ちるように激化した内戦の悲劇を象徴する存在であった。
 オシム監督指揮下にあったチーム・パルチザンとは元々、故チトー大統領が第二次大戦下、ナチ・ドイツ、イタリア・ファシスト軍と戦うために創設されたユーゴスラビア人民軍のクラブであった。
 サラエボが包囲されているとき、オシム監督の妻と娘は、その「人民軍」の砲撃に曝されていたのだ。
 オシム氏は自らクラブ監督、代表監督を辞任し以後、ギリシャ、オーストリア、そして日本と国外生活を強いられることになった。< /div>
 1994年のアメリカ大会にはユーゴ「セルビア」代表は国内紛争で国連の制裁を受けていて国際試合を禁じられ予選すら戦えなかった。この時代、代表チームのキャプテンを務めていたのがサッカー史に名を残すドラガン・ストイコビッチ選手であった。日本のサッカー・ファンならこの選手のことを知らないものはない。1994~2001年まで名古屋グランパスで活躍したからだった。本来なら欧州の名門チームに厚遇で迎えられ活躍できる選手であったはずだ。しかし、彼の母国セルビアはユーゴスラビア連邦解体後、対スロベニア、対クロアチア、対ボスニア、さらにコソボ紛争への加担で国際的な制裁を受けたため、スロイコヴィッチ選手だけでなく多くの名選手が名門欧州リーグから締め出され、欧州 で の活動を阻まれていた 。いわば日本サッカーはユーゴの悲劇という“漁夫の利”で平時なら獲得できるはずもない名手を迎えることができたのだ。1992年から開幕したJリーグの黎明期、あきらかに格オチの環境のなかで真剣にプレーをつづけ日本サッカーの実力を高めるのに貢献したのだ。その92年、オシム監督は約2年ぶりに内戦を生き延びた妻と長女と再会することになった。
 日本と旧ユーゴスラビア連邦、特にセルビア、ボスニアとの関わりはかくも強いだの。

 オシム氏のサッカー人生はそのままユーゴスラビア連邦の歴史と重なるし、第1次大戦後に発足したサッカーW杯の歴史とも重なる。サッカー話題ついでに、もう少し付き合って欲しい。
 W杯の第一回大会は1930年、南米ウルグ アイの首都モンテビデオを開催された。ウルグアイ建国100周年を祝う国家事業として行なわれた。この大会にユーゴスラビアは参加し、同大会で優勝したウルグアイと準決勝で戦い3-1で敗れている。
 当時のウルグアイは英国の伝統的サッカーを学び、ブラジルを凌ぐ力があった。第2回大会は1934年、イタリアで開催された。1936年のドイツ・ベルリン五輪がナチ五輪、ヒトラーのオリンピックといわるように、W杯イタリア大会は独裁者ムッソリーニの国威発揚大会となった。イタリアが優勝してムッソリーニの政治的プロバカンダの成果もあがった。この大会にユーゴスラビアは参加していない。
 1936年、日独防共協定が締結されている。欧州でファシズムの嵐が吹きは じめたとき、強風はたちまち小国の政治、経済、そして民族問題に火を点ける。後年、民族的英雄となるチトーことヨシップ・ブローズは有能で活動的なユーゴ共産党組織局書記でしかない。ユーゴはムッソリー二のためにW杯に参加していない。38年のW杯フランス大会も見送っている。国内事情がそれをゆるさなかった。
 ユーゴスラビアがW杯に復帰するの戦後、1950年に開催されたブラジル大会からであった。チトー大統領の政権がスターリンのソ連政府からたえず“異端”と批判され政治的、経済的な圧迫を受けていた時代だ。
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このブラジル大会で予選リーグを2勝1敗の好成績を残しながら予選敗退する。1敗とはブラジル戦であった。その試合直前、ユーゴの中心選手が怪 我を負い、一人欠いたまま試合に臨んでの敗戦であった。以後、W杯出場の常連国となりバルカンの強豪国として名を馳せるようになる。
 
 本連載の第1回目で、旧ユーゴスラビア連邦の前史をバルカン半島で展開した周辺強国の盛衰ともに記し、第2回目で連邦解体後に勃発した内戦について書いた。
 今回は、7カ国(コソボも含め)に分裂してしまった旧連邦諸国の近未来を予見するなりして短い連載を締めるべきなのだろう。しかし、正直言って、それは天に向かって唾するような行為で、いくら高らかにそれを晴天の空にむかってあげようとも、やがて自らの顔に塵あくたをともなって落ちてくるを受け止めるようなことなのだと思う。
 いち早くEU入りしたイタリアに面したスロベニア、昨年、加盟を果たしたクロアチア、この両国は歳月を経るごとに脱ユーゴをはかってゆくことは確かだ。旧ユーゴにあって両国はカトリック国として独自の習俗を残し、経済活動も西欧を向いて展開していた。特に、クロアチアはアドリア海に面した世界遺産都市ドブロブニク、スピリットの歴史的遺構を含め、穏やかな海に面してリゾート地を開発、ドイツをはじめ北欧からの観光客を集め外貨を稼いでいた。観光はクロアチアの重要な産業だった。ユーゴ連邦解体後の内戦下にあってもアドリア海沿岸地は、一時的にセルビア軍の砲撃を受けるなどして停滞した短い時間を除いて観光産業は持続されていた。陸路でドイツなどから車を飛ばしてくる観光客を迎えるため、入り組 んだ沿岸道路も快適に整備されていた。それはまったく快適な景観の優れた道路であって現在も、トンネルを建造している箇所がいくつもあり、海岸道路特有の入り組んだ道をできるだけ快適な直線コースにかえようとしている。そして、各主要都市をつなぐ高速道路も整備された。鉄道はここでも大量貨物輸送を除けば衰退しつつあるように思えた。
 旧ユーゴ時代、スロベニアとクロアチアは域内の 先進地域であった。両国で稼いだ金はベオグラードの中央政府に吸い上げられていた、とみなしていた両国の民族主義者が多かったが、それも一理ある。
 スロベニア、クロアチア両国がふたたびベオグラードのセルビア政府と“ユーゴ人”同胞として一体化することはもはやないだろう。
 もともと歴史的概念の曖昧なユーゴ人というだけで連邦形成したこと自体が間違いであったのかも知れないが、偏狭な民族主義を抑えるためにチトー政権はときに力の行使もためらうことなく実行し、これを抑えてきた。戦後、スターリンの指示ひとつで軍事侵攻を招きかねない政治状況のなかにあって、ユーゴスラビアは一体である必要があったし、大戦を戦ったチトー元帥指揮下のパルチザンの精鋭はそのまま新生国家の国軍として残った。その軍隊は、西側諸国との戦闘のためでなく、スターリンの赤軍との戦いに備えるためだった、ことを明記しておく必要があるだろう。1956年、ハンガリー動乱、68年、チェコ事件はソ連軍のあからさまな武力介入によって民主化が逼塞された事件だったが、戦後東欧史の年譜はそうした大きな事件だけで なく無数のソ連介入史の歴史である。チトーの評伝一冊を読んだだけで 、東欧各国の戦前からアクティブであった活動家、クレムリンの意向にあわない政治家が次々と粛清されていったことが分かる。そうしたソ連の意に逆らう活動家、政治家が政権の中枢に君臨していたのがユーゴスラビアという国であった。そして、その政府は連邦の分裂を招きかねない民族主義の芽を摘み取りつづけたことも確かだ。ソ連の力の行使が現実に展開する光景を国境の向こうにみてきたチトー政権にとって、それは国の政体を守るための要諦であった。
 その象徴として国民的スポーツ、サッカーのナショナル・チームは他民族出身の選手が混在するまさに連邦チームであった。サッカーは民族主義の偏狭な垣根を取り払っていた。
 ここに東欧のサッカー事情に詳しいサッカ ー評論家・木村元彦氏が作成した「旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国及び出身選手たち」という表がある。木村氏が選んだ名選手となるが、かつてユーゴ代表としてW杯に出場も多数含まれる。セルビア、クロアチア、ボスニアといったユーゴ・サッカーを牽引した強国だけでなく、マケドニア、モンテネグロ、そしてコソボ自治州から満遍なく有能な選手が輩出していることがわかる。
 今年はW杯ブラジル大会が開催される。そこに旧ユーゴ諸国から2チームも出場する(それだけも旧ユーゴの実力が知れるわけだが)こともあって、サッカーの話題から入った。

 内戦終結から12年を経た。
 内戦で拗(こじ)れきった旧ユーゴの諸民族、諸国家である。家族から内戦の犠牲者をだした 人たちにはまだ記憶がなまなましいだろう。その憎悪の深さを第1回目のボスニアの旅のなかでの見物、道路標識の焼き焦げ跡に象徴して書いた。スロベニア、クロアチアはEUに加盟し、すでに独自の経済活動で国づくりをしている。旧ユーゴ諸国の経済格差はますます広がっているのが現実だ。歴史はどんな奇跡を引き起こすかわからないが、21世紀初頭のリアリズムでいえば、今後、歴史が風化しない限りはチトー時代のように非同盟諸国を統合したかつての栄光をユーゴスラビア連邦として取り戻すことはありえない。しかし、連邦時代の栄光の記憶のなかにサッカー代表の華々しい活躍の歴史があるだろう。そこには、ユーゴ人の心の記憶として長島や王、大鵬がいたようなものだ。彼らはユーゴ人で活動していたの だ。もし、旧ユーゴスラビア諸民族の和解が訪れるとしたらサッカーにその芽があるように思う。それが糸口となって憎悪はほころびていきそうな気がする。
 おそらく、W杯ブラジル大会に地区予選で敗退してしまったサルビア、スロベニア、モンテネグロ、マケドニアの人たちも大会中、密かに、あるいはおおぴらにクロアチア、ボスニアを応援するように思うからだ。そのためには参加2国は大会でできるだけ勝ち進み、ユーゴ紛争の和解のために健闘しなければならない。FIFA(国際サッカー連盟)はW杯はもとより競技場での政治的活動を禁じ、抵触しかねない行為に厳格に対応するが、ユーゴ諸民族の和解がそれで促進されるなら、W杯そのものが政治的に有効な平和的活動というものだろう 。


★3回にわたる連載中、時に引用し、また参照、参考資料として活用させて戴いた主要資料は下記の通りです。引用した書籍以外にもDVD、VHS、CD、画集等も参考にしました。
☆東欧史及びバルカン諸国史関係
 梅田良忠・編『東欧史』(昭和45年・山川出版社)
 木戸蓊・編『バルカン現代史』(昭和52年・山川出版社)
 F・フェイト『スターリン以後の東欧』(熊田亨・訳/1978年・岩波書店)
 南塚信吾・編著『東欧の民族と文化』(1989年・彩流社)
☆ユーゴスラビア連邦史
 H・F・アームストログ『チトー評伝~ユーゴの巨星』(鎌田光昇・訳/1956年・国際文化研究所)
 V・ヴィンテルハルテル『チトー伝~ユーゴスラヴィア社会主義の道』(田中一生・訳/1972年・恒文社)
 マルセル・ドゥ・ヴォス『ユーゴスラヴィア史』(山本俊朗・訳/1973年・白水社)
 ライコ・ポポト『ユーゴスラヴィア~社会と文化』(山崎洋・訳/1983年・恒文社)
☆連邦解体後の内戦関係
 千田善『ユーゴ紛争~多民族・モザイク国家の悲劇』(1993年/講談社)
 今井克、三浦元博『バルカン危機の構図』(1993年・恒文社)
 スラヴェンカ・ドラクリック『バルカン・エクスプレス~女心とユーゴ戦争』(三谷恵子・訳/1995年・三省堂)
 小川和男『東欧 再生への構築』(1995年・岩波書店)
西川長夫、宮島喬・編著『ヨーロッパ統合と文化・民族問題~ポスト国民国家時代の可能性を問う』(1995年・人文書院)
 イヴォ・サナーデル、アンテ・スタマッチ『この苦難のときに~クロアチア平和祈念詩集』(藤村博之・訳/1996年・第一書林)
 スラヴェンカ・ドラクリック『カフェ・ヨーロッパ』(長場真砂子・訳/1998年・恒文社)
 高木徹『ドキュメント戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争』(2002年・講談社)
 ヤドランカ、長原啓子『アドリア海のおはよう波』(2009年・ポプラ社)
☆サッカー関係書
 木村元彦『悪者見参~ユーゴスラビアサッカー戦記』(2000年・集英社)
 後藤健生『ワールドカップ』(2001年・中公文庫)
 宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール~国家権力とロシア・東欧のサッカー』(2002年・みすず書房)

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