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映画「東京オリンピック」を観て

半世紀前の東京オリンピック (2014年1月記)

東京オリンピック

  正月休暇中、市川昆が総監督を務めた1964年の東京オリンピック大会の記録映画を観た。
 170分の大作である。 公開当時、確か、学校で配られた割引券をつかって地元の映画館で観た記憶だけがあるのだけど内容はすっかり忘れ、後年、昭和を回顧するTVのドキュメントなどで放映される東京大会の記録映像が混在してしまい映画そのものの記憶は希釈されてしまった。それを今回、50年ぶりに再確認したのだった。半世紀ぶり、となるのかぁ、とわが身の老いを自覚する。
 高田馬場に早稲田松竹という名画座がある。今日、絶命貴種に登録されている数少ない名画座のひとつだが、小生は飯田橋のギンレイホール、池袋の文芸坐とともに密かに熱く支持している。
 その早稲田松竹で突然(という感じだ!)、旧作オリンピック映画、しかも170分を休息時間なく、公開当時のまま一挙上映されたのだ。2020年、東京五輪の祝賀行事ならぬ、五輪に関心が向いている最中に企画されたものだろう早稲田松竹のスタッフの企画立案に敬意を表したい。
 しかしながら、170分、とクレジットを読んで、正直、怯(ひる)んだ。退屈なら退場する、という消極性で臨み入場した。飲食十分、用意して・・・。
 これが面白かった! 関心した。実によくできている映画だった。市川昆監督を敬愛する私だが、五輪映画は長尺ということもあって、DVDでもみることがなかった。観るなら大きなスクリーンでと思っていた。
 同大会開催時、私は15歳だった。試合を観に連れて行ってくれるような気の利いた両親をもたなかったので、自転車を転がして、ボート競技が行なわれている戸田のボート場まで行ったことを思い出す。当時、小生は生まれ育ちの埼玉県川口市に住んでいた。いまはもう面影もほとんどない“鋳物の町”といわれた当時の川口で、国立競技場のアノ聖火を燃やした器は川口の鋳物職人が苦心惨憺、試行錯誤を繰り返して製造したものであったから、オリンピックは"俺たちの自慢”という意識が川口市民にあった。いまはないが当時、駅前に川口産業会館というのがあって、そのロビーに聖火台のレプリカが誇らしげに飾られてあった。ついでにいえば、戸田のボート場は戦中、ベルリンにつづいて開催される予定だった東京オリンピックの準備過程で建設されたもので、そのとき大量に出た土砂は現在の蕨市、戸田の隣町だが、その新興住宅地の土台となった。 この住宅地は東京の田園調布とおなじように機能的に整備されたモデル住宅地として昭和の建築史に記載され、いまも面影を残す。
 映像で記録される日本はまだまだ貧しかった。
 東京の街はとてもゴミゴミしているし、国立競技場の聴衆の顔もどことなく貧しい。マラソン沿道の光景は軒並み低い、農家の庭先からレースを眺めるシーンまであった。そのあたりも新鮮だった。
 復帰前の沖縄、広島、富士山を背景に走る聖火。その聖火も、はじめてアジアにやってくる、通過する火ということでアジア各国で熱く歓迎されていたことも了解された。映像資料の雄弁性をあらためて認識する。
 競技は少々、陸上競技に特化したところがあるものの、それは瑕疵としか思えないほど、選手の個性を浮き立たせている。市川監督はマラソンを五輪の華としてアベベ選手を誠実に描きだし、チェコスロヴァキアのチャフラフスカ選手を五輪の名花として描き出す。
 記録映画として偏りがあるだろう。満遍なく各競技を“記録”していればとんでもない長尺になる。興行を目的して制作され、かつ現代日本の記録、そして映画人としての芸術的表現のプライド……実に多彩な要素を持つ映画であった。
 公開当時、「記録か芸術か」という論争もあった。批判者はいつの時代にもいる。愚かな批評は世評の高いものにより集まる。
 古典となったいま、映画は自立して光輝に満ちている、あのナチ五輪映画『民 族の祭典』を制作したレニ・リーフェンシュタール監督がいくらナチ協力者として轟々たる批判に晒されようと、映画の完成度は揺るぎないのと同じようなものだ。
 出場参加国の行進をみているだけで、この半世紀の生々流転を思う。
 ソ連邦は大選手団を送り込み、そのなかに連邦解体後、20幾つかの国が独立することになるが、当時誰が共産党独裁国家の解体を予測しただろう。それはユーゴスラビアが一国として(当たり前だが)参加していること。あるいは、エジプト、シリアはアラブ連合として参加し、東西ドイツは国旗に五輪マークを染め抜いての参加で、金メダリストを称えるのはベートーヴェンの「喜びの歌」の一節、中国は参加しておらず中華民国が行進する。サッカーの強豪国となったアフリカのカメルーンは当時、たった二人の選手団しか送り出せていなかったこと……行進だけみていて何か切々と訴えかけてくるものがある。
 アベベ選手の祖国エチオピアはハイネセラシエ皇帝の治世下にあった。その世界最古の王朝も費え去り、その後、エチオピアは沿岸州ソマリアが独立標榜、内戦などで疲弊することになる。チャフラフスカ選手は、その後、ソ連の戦車につぶされた“プラハの春”の署名者として名誉の屈従を受け入れ、不遇の歳月を送ることになる。
 五輪は記録はされるべきである。愚かな人類の未来のためにも……。

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