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花もつ女たち №36 津村紀三子(能楽師)

津村紀三子 (能楽師*1902~1974)
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 世阿弥を開祖とする能楽は600年間掛けて女人禁制の高い壁を築き上げた。その禁制を自らの芸の深さで解いたのが津村紀三子である。
 その生涯はまさに荒蕪地を地を這うようにして道を切り拓いた血の滲むような悪戦苦闘の歩みだった。
 もっとも紀三子には既成の能楽界に対抗する気はなかった。自分自身の能をやりたいみせたいという私的な欲求があっただけだ。しかし伝統の鎖は彼女を始終、締め上げつづけた。
 男性の演者しか想定しなかった能楽は、その衣裳ひとつ能面ひとつみな男性の肢体を平準にして作られている。現在でもそうだ。身の丈150cmにも満たない紀三子が従来の衣裳をまとえば皆、自分の肢体にあわせる工夫をしなければならなかった。能面もしかり、そのままつけても面はずり下がり、視界を閉ざされた闇のなかで舞台を勤めたこともあった。
 
 紀三子の年譜には無数の「初」が付く。彼女がひとつ演じればたいてい女性で初の、ということになった。女性を受け付けない能楽界に対し、自らが演じようとすれば囃子方、謡もまた女性で固めなければならない。彼女は自ら演じる必要から自ら「緑泉会」という組織を作る。そこで弟子たちを育てる。彼女は優れた師範でもあった。そして、能のなかに女性が演じ
ることの蓋然性を謳うべく、自ら創作にも手を染めた。老いさばらえた小野小町を描いた「文がら」。

 いま、女性に門扉を開いた能楽界だが紀三子のほどの技量をもつ才能はまだ出ていない。 
 かつて三島由紀夫は女能楽師の舞台などみたくないと言った。それは彼の女性差別意識といった次元の低いところから出た言葉ではなく、彼独自の審美眼がいわせたものだ。それは、歌舞伎に女性が不在であることによる審美眼が育まれた、ということと同じ意味だ。だから、津村の苦闘があった。差別は闘えるが、伝統が育んだ「審美眼」とは容易に闘えない。能衣装は身の丈に合わせられる。能面づくりもできるだろう。しかし、あたらしい「審美眼」を生み出すことは至難だ。おなじ能楽に、もうひとつの「美」を造形して並存させるということだからだ。観阿弥、世阿弥父子もそんなことは一語半句、書いていない。津村の苦闘は世阿弥の時代まで遡らなければない命題だったのだ。津村の後継者が容易に育ちにくいのは、先達の苦闘がまだ記憶の時代にあるからでもある。

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