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花もつ女たち №42  奥原晴湖 (南画家*1837~1913)

花もつ女たち №42
 奥原晴湖 (南画家*1837~1913)

 今ではほとんど忘れられた南画家 。正確には大衆的な支持を失って久しいということで、美術史的にはそれなりの位置を占め、幕末から明治初年代の記述においては異彩を放っている。晴湖の画業そのものが軽んじられているわけではないが、大衆的な支持を失うと必然、画廊の扱いも減り、マスコミで取り上げられる機会も失う。

 しかし、晴湖の作品は一時的な“不遇”にあると解釈したいし、その画業の大きさを畏敬する在野の研究者も存在する。
 晩年、東京の画房を引き払い、北埼玉の熊谷に移った。その地で約20年余を過ごす。中央画壇の喧騒、いや、明治初年代の新東京の喧騒から逃れ、田園に囲まれた静穏のなか南画本来の理想を求めて精進をはじめる。爽やかな画境に達する。

 晩年の秀作は熊谷、故郷の古河(茨城県)に遺されたということ、東京ではなかなかまとまって観られないということで、晴湖の復権を遅らせているのだろう。しかし、近代日本が生んだ代表的な南画家として、男性が圧倒的に優越的な位置を占めていた南画檀(今日でも状況は変わらないが)のなかで晴湖ほど研鑽(けんさん)を積み、奮闘努力した人もいないだろう。それは起伏に富んだ一編の物語となる。

 『月瀬梅渓図巻』という晩年の秀作がある。
tukigase 奥原 古河歴史博物館所蔵

 東京から熊谷に転住して数年後に描かれたものだ。奥行きの深い山容を描き、初春の澄んだ陽射しのなかに山麓の梅林を望んだ気持ちのよい眺望図。晴湖のひとつの到達をみる思いがする。
 その初春美を眺めていると、士族の娘に生まれ、幼い頃から薙刀(なぎなた)、剣道、柔術に親しみ、長じて断髪、男装で画壇を睨睥(へいげい)した時代もあった晴湖のことなど、どうでもいいように思えてくる。

 明治初年代、晴湖の画塾は現在の山手線・御徒町駅付近にあり、そうとうな屋敷であったと記録にある。なにせ、その最盛期には門人300人を従えていた、そんな勢いのあった晴湖である。女性の身で、である。これだけでも美術史に刻印すべきことだろう。
 その画塾には明治の元勲も訪れていたといわれる。

 晴湖や、南画の衰退は、維新政府のお雇教師であったフェノロサの美術嗜好、ある意味、偏愛でもあったが、それにはじまった。フェノロサは画幅に漢詩を詠い込み記す東洋の審美眼を嫌った。晴湖は漢詩にも親しんだ詩人でもあった。

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