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映画『パンチャママの贈りもの』と、監督の松下俊文さん

ボリビア先住民への限りなく美しいオマージュ
  映画『パンチャママの贈りもの』と、監督の松下俊文さん
パチャママ

 天然自然の空はかくまで蒼い。青いでは凡庸なので、あえて「蒼い」と書く。そして、アンデス山脈の雪解け水がもたらした塩も限りなく白い。純白、きらめき透き通るような白。スクリーンに光が投射されると一瞬、眩いばかりの蒼と白のコントラストに射すくめられる。
 圧倒的な美しさだった。地球の始原の美しさとはかくあろうかという輝き。映画『パチャママの贈りもの』は標高3600メートルのアンデス高地にひろがるウユニ塩湖、そして塩湖の恵みで生きるケチュア族の物語だ。
 「私自身、その美しさ広大さ、どこまでも果てしなくつづく純白の大地、太陽がすぐ真上にあって何もかもが驚異であるような光景、それはまったく圧倒的なものでした」
 松下監督がウユニ塩湖をはじめて訪れ、その出会いの感動は、そのままフィルムに焼き付けられた。
 塩湖という名のあるように、おの湖には無限の天然自然、ミネラルたっぷりの塩が堆積する。この塩をレンガ状に削り取り、小山を作って乾燥させて消費地を運ばれる。はるばる日本にも輸出されているそうだ。一度、賞味したいものだが。
 面積12000キロメートル、琵琶湖の12倍という広大な塩湖とその周囲の自然、そして遥かな神代の昔からそこに生きるケチュア族の暮らしをありのままに写して見飽きないドキュメント映画を制作できるだろう。
 「いやぁ私も最初は新藤兼人監督の初期の名作『裸の島』のようなドラマらしいドラマもなく、演出の痕跡がかき消されたような映画を撮りたいと思っていました。映像作家ならあの光景をみていれば誰だって、そう思いますよ。それぐらい圧倒的な強さをもっている驚異的な自然ですから」
 『裸の島』とは瀬戸内の孤島に生きる夫婦と子どもたち、痩せた土地と闘うようにして暮らす貧しい一家の物語をセリフなしで描いた新藤監督の代表的な作品で、戦後日本映画の秀作の一編だ。切り詰められるまで切り詰めたまったく贅肉のない映像詩であった。 
 「『裸の島』を私はドキュメントのようでいて劇映画、私はドキフィクションと呼んでいますが、そんな映画を撮りたいと思っていました。けれどシナリオ作成のため取材をするなかで、塩のブロックをリャマの背に結わえ付けて僻村の村までとどけるキャラバンがあることを知りました。それも是非、撮りたいと思った。そうすると塩湖周辺で暮らすケチュア族の生活だけを撮るという最初のもくろみは消え、映画は劇映画らしく撮らざるえなくなったわけです」
 映画はほぼ全編ケチュア語である。わずかにスペイン語とアイマラ語が語られるに過ぎない。その意味でも稀有な作品だ。
 「劇映画であるから俳優さんが必要なわけですね。それで私は首都のラ・パスで映画やテレビなどをみてケチュア語を話せる俳優さんを探しました。母語のように話せる俳優さんにしかやれない役ですからね。しかし、そういう俳優さんはボリビアには存在しないことを知りました。ですから、この映画にはプロの俳優さんはひとりも出ていません」
 カメラの入ったウユニ塩湖周辺の先住民共同体に住むケチュア族は誰も映画を見たこともなかったという。テレビすら見たことがなかったそうだ。そもそも電化されていないのだ。松下監督は、そんな質朴な村民を“俳優”として採用して劇映画を撮ったのだ。それも見事なケチュア族の叙事詩ともいうべき美しい映画を……それは奇跡的といっても良いでいごとに違いない。
 物語はすこぶるシンプルだ。ゆえに古典的な叙事詩の世界として普遍性をもつことになった。
 主人公のコンドリ少年(クリスチャン・ワイグア)の父サウシ(フランシスコ・グティエレス)は塩湖で塩のブロックを削り取る労働者である。素朴な村の日常は来る日も来る日もおなじことの繰り返しのように思える。けれど、なんと牧歌的で平和な光景だろう。貧しいけれど充実した営みがあり、自然と共生する日常は慰安そのもののようにみえる。
 「私は日常ふだんの生活のなかにこそ人間の真実があると思っています。あるいは人間の幸福と言い換えてもいいでしょう。それを象徴的に描き出したいと念じたのです」
 塩を運ぶキャラバンはおよそ3ヶ月の長旅となる。コンドリ少年の父親はその準備をはじめる、映画の序章部だ。そこで父親は、野宿のつづくキャラバンに少年を連れて行くことに決めた。それは先住民共同体にとって少年が大人になるための通過儀礼、元服の儀式のようなものだろう。旅の日々そのものが少年の成長の物語となっているのだ。そして、旅の終点となる村で美しいケチュア族の少女ウララ(ファニー・モスケス)と出会う。初恋である。穢れない神話の世界の愛の叙情だ。
 映画は塩湖周辺での労働の実態を日常的な添景として映し出し、旅の途上で訪れたポトシ鉱山での苛酷な現実も描く。そうした営みのなかでケチュア族たちは自分たちの文化を守りながら植民地時代から今日まで生きのびてきた民族の矜持も描きだす。
 「ケチュア族の現実をまったく知らなかった私はラ・パスの国立自然博物館に通って、そこにライブラリーとなっている記録フィルムを見つづけて勉強しました。それから制作に入ったわけですが丸3年かかりました。しかし、映画の編集につかったフィルムはほとんど3年目になって撮ったものばかりです。約2年間はケチュア族の人たちとの勉強会、それは心の交流のドラマだったと思います」
 そうして完成した映画はそれこそ手づくりの味のするの質朴でかつ堅実なドラマとなった。圧倒的な美しさを誇る光景も「観光」的にはならず生活の背景としてとらえられている。だからこそ美しい。それは松下監督が3年の歳月を掛けて「風景」を先住民とおなじような共有レベルで見えることができるようになったからだ。
 映画は国立のシネマテークで昨年、2週間公開され賞賛された。ボリビアの映画人も撮れなかったすばらしいケチュア語映画の出現に同国政府も驚嘆し感動した。かけがえのない文化財として政府の手によってDVD化された。そして、すべての公立学校に配ることが決まったという。世界各地の映画祭に招待され、すでに多くの賞を獲得している。
 「ボリビア国内の上映による収益は、すべてポトシ鉱山で親を亡くした子の学資資金に充てることにしています」
 松下監督は現在、米国のニューヨークを拠点にして活動する。日本を離れて30年が経つという。時どき仕事で帰国するたびに、「腹だが立つ」という。何故?
 「東京、ここは人間の匂いが消えていますよ。若者に覇気が感じられない。いっけん豊かそうには見えるけど幸福そうには思えない。何かを喪失している。私はこの映画から、人間の幸福とはなんなのか、と考えて欲しいと思う。日常の繰り返しそのもののに静かだが堅実な幸福があることを知って欲しい。自分の足元を見つめて欲しい。貧しい、それは否定できない。しかし、ケチュア族には人間の匂い、生きているという充足感が濃厚にあります」
 松下監督は小柄で温和な人だが眼力は強靭で巨(おお)きい。仕事の充実、創りあげた作品への自信がそこにあると思った。   2009年10月記

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