スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

オマル・シャリフ、逝く

 映画「アラビアのロレンス」は70ミリとシネラマ・サイズで、ともに1度づつ観ている他、通常のシネマスコープサイズやビデオを観ている。「ドクトル・ジバゴ」も70ミリの公開時にみている。ともに英国の名匠デヴィド・リーン監督作品だ。都内に70ミリサイズの映画を上映できる映画館が複数あった時代の映画人、それが故オマル・シャリフの全盛期となるか・・・。
 yjimage (1)

 (恣意的な余談を書くことができる場が、ブログだから、いま、思い出すままに都内にあった70ミリ上映可能だった今は無き映画館を記憶にたどって書いてみよう。すべて70ミリ映画を観たところだ。
 有楽町駅周辺に、丸の内松竹、丸の内ピカデリー、有楽座、築地にむかって松竹セントラル、東劇、京橋方面へいくとシネラマ専門館、テアトル東京があった。松竹セントラルもシネラマ対応劇場で、ここでシネラマ版の「風と共に去りぬ」などを観ている。テアトル東京は約1年間、「ウエストサイド物語」を上映したところだ。ここの最終上映作品がマイケル・チミノ監督の「天国の門」だった。「ディア・ハンター」後の大作として期待されながらも大コケした作品だ。新宿にはミラノ座があった。渋谷、池袋にはなかった。渋谷パンティオンが上映可能だったか? 映画館とは違うが、いまはホテルとなってしまった浅草国際劇場もレビューの間に松竹映画の新作を上映することがあったが、あのステージは十分、シネラマを公開できる大きさがあった。・・・・私も古い時代の人だな、とつくづく思ってしまう。
 余談の余談だが、松竹セントラル内に日本ではじめての公式のビートルズ・ファンクラブが作られた。そこを連絡所としていた時期は短かったはずだが、当時の同劇場支配人が熱心な女子校生たちの熱意におされるようにして設けたものだった。余談の余談だが、その最初のファンクラブのメンバーの一人が私の最初の妻だった。ビートルズの東京公演をファンクラブ幹部の特権だろうか、なんと2度参加している。彼女は詳しく語ることはなかったが、なんらかのコネクションがあったはずだ!)

 「アラビアのロレンス」(1962)を70ミリの大スクリーンで最初にみたときのアノ冒頭近くの広大な砂漠の光景、3分の長回しの有名なシーンを忘れがたい。その3分と独占したのが砂漠と太陽と、そしてオマル・シャリフだった。砂丘の稜線から点となって登場し、やがて蜃気楼のゆらぎのなから姿をあらわすベドウィンの若き酋長アリ、それがオマル・シャリフだった。ロレンスを演じたピーター・オトゥールより、オマル・シャリフの方があざやかな印象を遺した映画だった。
 3年後、リーン監督の代表作のひとつとなる「ドクトル・ジバゴ」に主演する。オマル・シャリフが出演した映画のなかでもっとも好きな作品だ。
 ノーベル文学賞を受賞しながら授賞式に参加することがゆるされなかったソ連の作家パステナークの原作を映画化したものだ。ロシア革命の否定的要素が濃厚に綴られていたためソ連国内では発禁、ひそかにイタリアに持ち出されて出版された小説だった。ソルジェニーツィンの「ガン病棟」が現れる前のソ連時代という政情だ、パステルナークは当局に「受賞辞退」の信書を書かされている。「ドクトル・ジバゴ」がロシアで刊行されるのは彼の死後27年を経てからだ。
 青年医師で詩人であったユーリー・ジバゴの愛の物語がロシア革命の動乱期のなかで展開される。アリ酋長とはまったく異質な心の内を沈黙で語る演技を要求される役をオマル・シャリフは見事に演じた。

 「ドクトル・ジバゴ」から4年後、オマル・シャリフはアルゼンチン人を演じる。
 エルネスト・チェ・ゲバラである。名優ジャック・パラスがカストロを演じ、当時のハリウッドにあって社会派の一角を担っていたリチャード・フライシャーがメガフォンを撮った。この映画「ゲバラ!」は、日本のゲバラ・ファンにはすこぶる評判が悪い。
 シャリフ
 チェ・ゲバラがボリビアの山中で敗走中捕縛され、射殺されたのが1967年10月だ。つまり、映画「ゲバラ」は彼の死から、さほど経っていない時期に映画化が机上にあがっていたということだ。資料がまだ十分に揃わない時期にこれだけの映画が制作されたということで注目される。この映画の後、数本のゲバラ映画が制作されるが、オマル・シャリフはチェ・ゲバラを最初に演じた俳優としても記憶されてゆくだろう。
 革命戦争の非情さを体現したコマンダンテとして描かれている。けっして英雄的に描いているわけではない。後年のゲバラ映画が踏み込まなかった領域、たとえば、革命直後、バチスタ独裁政権の残党、人権犯罪を犯したとされる元兵士、秘密警察官を容赦なく粛清していくシーンがある。革命直後の混迷期の悲劇として描かれるわけだが、革命事業を維持し継続させ、大国米国からの圧力を跳ね返すため、ソ連に要請してミサイル基地を建設させる計画を立案したのもゲバラだが、そうした事情も描かれている。
 ゲバラがソ連にもとめた賭けは、やがて「キューバ危機」へと発展するのは周知の通りだ。後年のゲバラ映画は描いていないところだ。
 従軍医師として参加し、やがて有能な兵士、またたく間に軍事指導者となり、カストロの片腕になっていき、革命成功後に閣僚として参画した推移、そしてボリビアでの失敗。そのボリビアでの負け戦が、ゲバラの自著「ゲリラ戦争」にもあったことも、また史実。ボリビアの将校が語る、「俺たちはあんたの書いた本に学びながら、あんたをおいつめたんだ」。あんたは自分で自分の首をしめたようなものだ、と。歳月は自分の書いて本すら“敵”となる。それを慫慂とうけいれるゲバラを演じた。
 オマル・シャリフが造形したゲバラ像は、その後のゲバラ俳優に大きな示唆を与えずにはいられなかっただろう。

 晩年、オマル・シャリフはパリ在住のトルコ人として、再び元気な姿をみせる。
 2003年のフランス映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」。71歳のオマルにとって、この映画が最後の秀作となった。
 善意あふれる映画だが、ここには映画に関わった人たちがけっして声高く訴えるのではなく、ヒューマニズムのなかに溶け込まし、現在の中東地域の紛争のなかで“宿敵”のように図式化されているイスラム教徒とユダヤ教徒の軋轢をこんなふうに希釈したいという思いが伝わってくる。
 舞台はパリの下町、娼婦たちが白昼から徘徊するような界隈を中心に描かれる。そこに住む、ユダヤ人の父子。頑迷偏屈な父はいつも一人息子を疎んじ、やがて仕事がうまくいかなくなった父は出奔し、鉄道に飛び込んでします。遺されたモモ少年を養子に迎え入れるのが万(よろず)屋といった小商いの初老のトルコ人イブラヒム叔父さん。叔父さんはパリでは身寄りがないようだ。彼は幼いときから少年を付かず離れずと見守っていた。その少年の父が死ぬと、外国籍であるために難行しながら、やがて少年を養子に迎える。そして、店を処分してトルコの田舎に車で帰還する。
 旅の過程スイス、バルカン半島を南下し、ギリシャからトルコへと車はひた走る。その道程でイブラヒム叔父さんの社会観、世界観がうかがえる短い台詞が印象的だ。
 叔父さんが帰依しているらしいのだが、コンヤ市でイスラム神秘主義を象徴するスーフィイズムの旋回舞踊の祈りの場に出て行くシーンなどがあって興味深い。日本でも世界各地の民俗舞踊を紹介する公演などで演じられたことがあるが、基本的に宗教儀礼であるのだからステージ、というのはいただけないと思いながら接したことがある。この映画はその意味では親しく旋回舞踊を見物できる貴重な映像でもある。
 かつてコーカサスの神秘主義思想家グルジェフの思想をテーマにした映画が紹介されたことがあるが、そこでも旋回舞踊が登場した。スクリーンでは私には2回目の見物となった。・・・と雑駁だが、そういう映画だ。補記すれば、本作のBGMには60年代後半のポップスが頻繁に登場する。ビートルズやローリング・ストーンズのヒット曲ではなく、その周辺、たとえば米国西海岸で活動し、日本でも一曲だけヒットしたウィリー・ゴメスとサムジャシャムの曲も聞ける。日本でヒットした当時、米国のポップスという紹介だけだったが、実は彼らはチカーノ、メキシコ系米国人で、メキシコのロック史ではメキシコ人アーティストとして紹介されている。1篇の映画からほんとうに多様なメッセージを受け取れるものだ。
 
 ジンギスカンも演じた。そう、歴史上の人物を演じつづけてきたという意味では米国のチャールトン・ヘストンに比較できるだろう。しかし、ヘストンのように男ぶりが強調されるようなマッチョな役柄は自ら排していた。ゲバラの役作りもまた喘息もちでありながら、それを気力で乗り越えようとした男として演じている。  合掌。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。