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映画『あえかなる部屋 ~内藤礼と、光たち』中村佑子監督

映画『あえかなる部屋 ~内藤礼と、光たち』中村佑子監督
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 ひとは慰安の最良のときをたとえば「母胎のなかにいるような安心感」と表現したりする。
 詩の雅趣ではなく、平易で説得力のある比喩として使われる。
 けれど、それは果たしていかなる慰安なのだろうか? 
 ひとはみな等しく母胎のなかに10月10日、もっとも早い成長をそこで体験しているはずなのに、それを語れる者はかつてひとりも存在しなかった。母胎をもった母すら語れない。母胎の意識をもっとも多くもったと思われるイエス・キリストでさえ、それを語っていない。

 内藤礼という創作家が瀬戸内の小島・豊島(てしま)の海を望む棚田の一角に作った「母型」は、そうした人間が等しく確認したいと思うであろう母胎を感得できる空間のように思える。その安らぎの至福に魅せられた映像作家が造形したのが本作だ。

 一枚の絵、彫刻、あるいは音楽から啓示をうけて映画にするという行為はおそらく映画が第4の芸術となった時点で試みられたことだ。だから、本作の発現する場は珍しいことではない。しかし、監督は自分が魅了された場「母型」を他の女性たちは、どう感じるのであろうかと思ったに違いない。そこに5人の女性を誘う。

 真っ白い楕円形、明るい洞窟、天井に開かれた空間から緑の梢、その揺れ、青空、そして床のそこかしこから島の地下水が水滴となって表出し、やがて自らの重量に耐えかね、微かな傾斜を伝わって 集まっていく。自然と融合する「母型」。
 そこに誘われた女性たちの行動は意思的なものではない。監督に誘われた他動的なものだ。
 映画では、豊島に行く前の道程として、スケッチ風に彼女たちの仕事、日常性など示唆的に暗示する。世代も環境もまったく異なる彼女たちが、・・・しかし、そこに入ったときの表情、それぞれの鑑賞の態度、みな、その空間に同化しようとするかのような動き、その姿態そのもは雄弁に彼女たちの内面を語り出す。

 言葉が無化され、湧き上がってくる体験、そのものをみせる映画だ。
 それは、評者をして、そこに向かわせたいと誘引する強さをもつものだ。
 たぶん、監督は、〈魂の浄化〉といった至高の体験、象徴的ななにかを映像化したかったのであるまいか。
 宗教的秘儀性がいっさい存在しない場で、そうした奇蹟は起こるだろうか? とまで作為したのではないだろうか? 
 なかなか適切な言葉は見つからない。しかし、母胎の慰安というものの実在感をアプローチする何か手ごたえのようなものを感得できる作品にはまちがいない。
 しかし、「母型」を造形した内藤礼という寡黙な創作家がそのイメージを発現する場とはいったいどんなところなのだろうと思う。中村監督もそれを問いたいと思ってカメラを回しはじめ内藤の拒絶にあう。「撮られると“つくること”が失われてしまう」という内藤は遮断する。
 その遮断にあってから映像は監督のものになった。作者が語らなくなった「母型」を思索することで映画が独歩しはじめたのだ。

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