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シルクロードのキムチの話

シルクロードのキムチの話

 地元、蕨市で月一回、自由参加の読書会をやっている。私が支援する市会議員の肝いりではじめたものだが、そのメンバーのひとりに福島は会津若松出身の在日二世、朝鮮籍の金さんがいる。金さんの息子さんたちは、せでに日本国籍を取得、苗字も替えている。
 金さんはある日、自家製のキムチを読書会に持参、小袋にわけたキムチを参加者にわけた。とがったところのない、まろやかな辛味のじつに品のいいキムチだった。
 私自身、韓国につごう4度訪問している。特段、韓国がすきというわけではないが、中米グァテラマに住んでいるとき一時帰国の際、割安な大韓航空やアシアナ航空を利用する機会が多く、日本に入る前にちょっと韓国に立ち寄ってみようという感じでの訪問だった。値段は同じでソウルはもとより国内旅行してプサンから日本国内に戻ることも可能だった。だから、韓国各地でキムチを食べている。でも、それほどの感銘は受けていない。当時、中米諸国にも韓国系企業はたくさん進出していて、韓国料理の食材店が各地にあってキムチを安く買うことができた。金さんのキムチは一世のおかあさんの味だろう。・・・で最近、金さん家(ち)のキムチととんとご無沙汰なので、それとなくオネダリするために今回は遠く中央アジア、イスラム国にキムチの話を。

 先年、シルクロードの国ウズベキスタンを10日ほど旅した。かつてサマルカンドに勃興したチムール朝が栄えたイスラム国家だ。インドのタジマハール廟は、このチムール朝の末裔が建立したもので、その最盛期は現在のトルコ、イスタンブールまで勢力を広げた。モンゴル以来、世界史的にみて二番目に大きな帝国だろう。
 しかし、この国はソ連邦の支配下に入ってから民族性を奪われた。現在、市の中心部にチムールの巨大な像が建つが、かつてそこにはレーニン像があったのだ。社会主義モンゴルでジンギスカンが貶められたように、ここウズベキスタンでもチムールの偉業は“帝国主義の歴史的体現者”として、共産主義帝国主義(チェ・ゲバラ)のソ連によって貶められた。
 
 ソ連崩壊後、ウズベキスタンは他の中央アジア5カ国とどうよう独立し、スンニ派のイスラム教を国是とする新興国となった。北のカザフスタンとどうよう資源大国で外資の浸透は目覚しい。特に韓国系企業の存在が目につく。むろん、理由がある。
 その理由を探るために首都タシケントから同国西部の町ヌクスに飛ぶ。双発プロペラ機で1時間ほどの距離だ。
 ヌクスといっても日本からまったくみえない町だが、ユーラシア大陸の大湖アラル海の湖岸にアクセスする町といえば少しはわかってくれるだろうか。もし、20世紀美術に興味がある読者ならロシア革命前後、活火山のマグマのように噴き上げたロシア・アヴァンギャルドのことを知るだろう。レーニンが死去し、権力闘争の末、独裁者となったスターリンの時代に弾圧され、迫害され夥しい作品が破棄された。この時代、ひとりのロシア人が自ら蒐集していたロシア・アヴァンギャルドの絵画や彫刻などを、ここにヌクスに送り秘匿した。そして、その存在はソ連崩壊後に明らかになった。その作品をヌクスの国立美術館で観ること、そして、ソ連の計画経済とやらの誤謬で革命前の約半分の湖面に縮小してしまったアラル海の無惨をみることだった。アラル海については、これまでも長い報告を書いていてブログには馴染まないと思い掲載していないが、そのうち時間をみてここに載せるつもりだ。いま、沖縄・辺野古の海が破壊されようとしている。近視眼的な政治が力を振るうとき、自然は抵抗できない。その20世紀の象徴がアラル海の荒廃だ。辺野古でも、その愚をおかしてはいけない。

 いまヌクスの美術館を「国立」と書いた。誤解を生むので慌てて注釈を加えると、正確には「カラカルパクスタン国立美術館」だ。エッ、そんな国があったのかい、と思われるのは当然、ソ連崩壊後、一時“独立”を標榜したが、すぐウズベキスタンの自治共和国となったから、日本からなかなか見えにくい。ヌクスの郊外に華麗、広壮なモスクが建設中だった。その偉容はとても印象深いものだったが、どうじに、そのモスクは半時間ほどの距離にいまも墓守の老夫婦がすむゾロアスター教信徒たちの墓苑があることには感銘深かった。私にとって、その老夫婦は私が親しく話すことができた唯一の信徒であったからだ。
 ヌクスに戻る。町の中心に自治共和国の政庁があり、その周辺に各公的機関が固まっている。しかし、その政庁前の道をラクダがのらりくらりと散歩している長閑さ。しかし、その長閑さにめくらましされてはいけない。くすんだ色の役所の建物は、この地にクレムリンの力が及んだとき、モスク、イスラム教の各施設が解体され、その建材を使って無宗教施設としての役所が建てられたのだ。郊外で建造中の華麗なモスクはヌクスのイスラム教徒たちの歴史への意匠返しのようなものだ。
 政庁から徒歩数分の距離に大きなバザール(市場)があった。夕方の喧騒はじつに活気に満ちていた。人口希薄なヌクスのどこから、いったいこの人たちは集まってくるのだろう、と思うほどの賑わいだった。
 そのバザールの一角にキムチを山と積んで売る露天商がいた。顔立ちは北朝鮮で密かに撮られた市場でモノ売るおばさんにそっくりな感じ。後日、ウズベキスタンの首都タシケントの市場でもおなじようなキムチを売る朝鮮族の女性たちを何組かみることになる。
 キムチは中央アジアのイスラム国に定着した庶民の味になって、すでに久しい歳月を重ねている。

 スターリン時代の1937年、極東の沿岸部に暮らす朝鮮人17万1800人がウズベキスタンとカザフスタンに放逐されるように追いやられた。日本の関東軍の諜報活動に朝鮮族が使われていることを知ったスターリンは、来るべき対日戦争に備え、災いの根は事前に取り除こうと内陸部へ強制移住させたのだ。
 「日本の敗戦で抑留された兵士たちは屋根のついたラーゲリに収監されたが、わたしたちはなにもない荒野に打ち捨てられた。生きた者はかつてに生き延びよ、と放置された。わたしたちは寒さの凌(しの)ぐため地面に穴を掘り、そのなかで生活しはじめたんだ」
 往時の悲劇を生き延びた朝鮮人の古老たちは、そう証言する。
 彼らは生き延びるために懸命に働いた。荒蕪地を耕し畑に替え、白菜を栽培し、やがてキムチを作った。そのキムチがトルコ系のウズベキスタンの民衆に受け入れられた。
 スターリンの犯罪はキムチの伝播をうながし中央アジアの食卓を豊かにしたが、朝鮮族にたいする人権犯罪はまったく償(つぐな)われていない。
 
 独立国家になったウズベキスタンに韓国系企業が進出してきた。そこで現地採用される朝鮮族の人がいた。自然の成り行きだろう。やがてタシケントに赴任した韓国のサラリーマンたちがウズベキスタンの朝鮮族と親しく交わるようなって、「ここの朝鮮族の娘さんたちは、韓国のイマドキの娘と比べたら純粋無垢、純朴そのものである」と語り、噂となって韓国に伝わった。
 ほんとうかどうか知らないが、「ならばウチの息子の嫁に、そのナントカスタンの娘を。なんでもキムチもみな手づくりするというではないか」と言い出す人が出てきた。若い男性も、「嫁探しに観光を兼ねて乗り込もう」となったらしい。そんな話をテーマに韓国ではウズベキスタンにロケを刊行、コメディ映画が制作された。

 ウズベキスタンの朝鮮族は、自分たちを「高麗人」と自称しているらしい。
 スターリンに生活を根こそぎ奪われたとき、彼に手を差し延べてくる国、組織、国際機関は絶無だった。それはそうだろう厳しい報道管制のなかで、それが行なわれたからだ・
 第二次大戦後、朝鮮半島にふたつの朝鮮族の国家が独立しても、中央アジアの朝鮮族は一顧にされなかった。そんな寄る辺なきシルクロードの彼らは朝鮮族ではなく、やがて誰いうともなく「高麗人」と自称するようになった。半島の同朋と一線を引いた。キムチの味はおれたちのほうが上だと思っているだろう。
 「韓国のキムチの多くが中国から輸入されたものだという。そんな安ければどこのものでもいい。保存のため色付けのためと化学薬品てんこ盛りのキムチなんかより、おれたちの自家製キムチの方がずっと美味いはずだ」と。
 韓国男性のウズベキスタンでの嫁探した不首尾に終り、美味しいキムチに舌鼓を打って帰国することになった。

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