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文庫化されない本のために 7~8 モーツァルト関係書

文庫化されない本のために 7~8
 ★いつの間にか消えて行く本がほとんどだが、それでいい。適当に消えてもらわなければ書店は雪崩を起こす。
文庫化されずに絶版となる本はもともと発行部数が少ないわけだから古書店でも入手困難となる。そういう本に限って、ブックオフの書棚を飾ることはなく、従来、扱うべき街の古書店は激減しているから、なおさら手にする機会は激減する。無論、消えてもいさかかも差し支えない本もまた無数にある。そんな本に未練はないわけだが、これは遺しておきたい、とも思うし、できたら文庫化して欲しいと思うものもある。そんな本を少しづつ自分のためにも書き残しておきたいと思うようになった。極私的読書ノートかも知れないが・・・。★

☆007 高階 秀爾『モーツァルトの肖像をめぐる15章』
☆008 H・キュング『モーツァルト/超越性の痕跡』

▽高階 秀爾『モーツァルトの肖像をめぐる15章』

 小林秀雄の「モーツァルト」論で語られる作曲家の像はヨーゼフ・ランゲの筆になる、あの未完成の肖像画である。
 小林がどこから引用したものかは知らないが、小林がモーツァルトの音楽を聴き、その芸術について語るとき、彼の脳裏にあったのはランゲ筆の像であることはまちがいないだろう。1789年頃の肖像といわれるからモーツァルトの死の3~4年前の像ということになる。
 ややうつむき加減で大きく眼を見開いたモーツァルトの横顔はほぼ完成し、胸から下部が余白のままに残された未完成作品だが、肖像画としてはほぼ完成しているものだ。下部はクラヴィィーアに向かって弾奏しているか、作曲している最中を描いたものと推定される作品だ。
 現在、このランゲ筆の肖像を含めて、真正といわれるモーツァルト肖像画が14点遺されている。そして、その肖像画はみな美術史にほとんど無視されている画家か、アマチュアによるものだ。

 本書は、その14点を巡って「肖像画」論を展開する。14章プラス1章で、その追加の1章は肖像ではなく音楽に触発されて描かれた絵をかたるエッセイ的文章となっている。
 著者は音楽研究家でないから、取っ掛かりとしてモーツァルトを語りながら、美術評論家としての筆が各章で自在に進み、たちまちモーツァルトとも音楽とも無縁なところで美術論が展開される。
 本書は、モーツァルトの音楽を常識的に知り、その幾つかのフレーズを口ずさむことができる美術愛好家といったあたりの人がもっとも良く味わえるものだと思う。

 私自身、本書つうじて、いろいろ確認できて面白かった。
 たとえば、作曲家としての創作が充実していた時期の肖像画としてドラクロアの「ショパン像」や、アングルのデッサン「パガニーニの肖像」があったことをあらためて確認した。ショパン像は音楽のイメージから想像するものに大変、近いと思う。パガニーニの超絶技巧の演奏ということで、映画などではすこぶる個性的に描かれたりするけど、アングルのそれからは、かなり全うな常識人という印象を受ける。音楽史的には小さな存在かもしれないがケルビーニの肖像もアングルが描いている。女性画家による作曲家像として好きな作品にバラドン(ユトリロの母)の「エリック・サティ像」も忘れがたい。

 あるいはドル紙幣など、米国にあふれる建国の英雄にして初代大統領のワシントン像が流布した縁起なども教えられて面白かった。ギルバート・ステュアートという、画家としては三流の売り絵、注文絵描きが、生活のために売れるワシントン像を大量に描いた。しかも、同じような肖像画。画家は、オリジナルとしてまず描き、注文はすべて、その模写、レプリカを描きつづけた結果、極めつけのワシントン像になってしまったという話など・・・そんな話がふだんに収められている。文庫にしても面白いと思うのだが。(小学館刊*1996年)

▽H・キュング著『モーツァルト/超越性の痕跡』(内藤道雄・訳)

 数多(あまた)あるモーツァルト書のなかで、これは日本人には容易に書けない類いの論集だと納得させるのが本書。少々、乱暴に概要を書けば、モーツァルトの音楽、その芸術のなかにカトリックもプロテスタントも超越した「神への理性的な信頼に支えられた現実的な人間存在」への信頼、あるいは賛歌の内実に迫ろうというものだろう。

 モーツァルトの父レオポルトは青年期、イエズス会士から約12年間、教育を受けている人で、子ヴォルフガングにもカトリック教育を熱心に施している事実を著者は語ってゆく。そうした文脈からモーツァルトの作品を取り上げて、彼の信仰の姿勢を語る。
 また、モーツァルトのカトリック信徒としての生活を認めながらも、それは教条主義的なカトリシズムではなく、「プロテスタント的ではない啓蒙化されたカトリック性」と書く。
 おそらく宗教改革以降のキリスト教圏の作曲家あるいは音楽家にとって、その音楽性に対して、このような本がそれぞれ書かれているものだと思う。ただ、邦訳までされるのは、その極一部でしかないということだろう。“売れる”モーツァルトだから邦訳が出たということだろう。
 本書がプロテスタント系の宗教書の刊行を生業とする出版社から出されたことも示唆的だ。一般の出版社が容易に手をつけかねるモーツァルト論を出してくれたことに感謝したい。同じ出版社からはカール・バトルの『モーツァルト』も出版されているが共に少部数の刊行である。

 本書を正確に論評できる立場ではないが、一読書子としてモーツァルトの聴き方にあたらしいベクトルが与えられたことは確かだ。訳注や解説ページを除けばB6判で80ページにも満たない論考だが、その実質は大変、深い。(新教出版社刊*1993)

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