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『エル・トポ』 アレハンドロ・ホドロフスキー監督

エル・トポ
『エル・トポ』 アレハンドロ・ホドロフスキー監督

 伝説的なカルト映画の再公開。といっても実質、初公開に等しい。メキシコ映画の秘宝”的存在のフィルムだから、そうそう拝観できなのだ。
本作が日本で公開されたのは、1972年に開催されたメキシコ映画祭と、1986年の東京国際ファンタスティク映画祭における特別上映だけで終わるところだったが、何を血迷ったか、止せばよいのに87年に一般公開された。世はバブルのイケイケドンドンの時代。その一般公開が1971年の制作から16年後ということになる。
……しかし、だ……スクリーンに横溢する猥雑さと暴力、神秘主義的な難解性、宗教的な無常観まで漂う前衛性は当時まだ敷居が高かったようで、観客に広く受け入れところとはならず、不評で3日で打ち切られた。要するに名のみ高名だが日本のスクリーンにはなかなか馴染まず、コアなファンがDVDを探してひそかに楽しんでいるというのが現状だった。それが単館といえ再公開されることになった。
 40年前の旧作には違いないが、メキシコ時代のルイス・ブニュエルの猥雑性、荒唐無稽の嫡子のようなシュールさ、これに1971年の制作当時、世界を席巻していたイタリア版西部劇(マカロニウエスタン)の容赦ない暴力性がメキシコのモレ・ソースのように溶かされ、血の臭いを醸し出す。ひさしぶりにみればまったく古臭はなくカビの気配もなく、流れる血の鉄分は凝固せずトロトロと生臭い。   
 物語は前半と後半では趣を一変する。
 序章はマカロニウエスタン風のノリ。しかし、そこにエン二オ・モリコーネの乾いた叙情の旋律はない。メキシコのガンマンたちはみな神の視線から逃れられない。ヒーローも悪漢も神の僕(しもべ)だ。対して、マカロニウエスタンは本国から米墨国境地帯へ国籍をワープしてイタリアのカトリシズムから解放され、やりたい悪逆、荒唐無稽を獲得したおもしろさだった。マカロニウエスタンの主舞台は砂漠の乾いた光景である。それはメキシコ北部のものであった。『エル・トポ』の舞台でもある。
エル・トポというガンマンが素っ裸の息子を連れ、村びとが皆殺しになった僻村にたどり着く。ガンマンのいでたちは黒装束(この辺りもマカロニウエスタンのフランコ・ネロのノリ)であらわれ、村びとを殺した無法者たちをなぎ倒す。その無法者たちの頭領の女を手に入れたエル・トポ、その女の甘言を受け入れ、息子を非情に捨て、旅に出る。その女が砂漠に4人の最強のガンマンがいるから、アタシへの愛の証しに皆倒せ、と強要する。
その4人のガンマンたちの決闘の挿話はガルシア=マルケス的ともいえるし、ボルヘスのものと言ってよいかも知れない。映画はこの辺りから神秘的な呪術性を帯びてくる。冒頭の酸鼻な皆殺しの村の光景でただならぬ予感を覚えた観客は決闘譚の下りにくれば酩酊してくるはずだ。
 4つの決闘……いろいろありましてと秘儀的な流血を終えるとエル・トポはガンマンとしての自己に嫌悪感を抱くのだ。宗教的用語でいうところの〈回心〉だ。
人間の強さとは何か? 力を力で制することの虚しさを覚える。この辺り、そしてラストの焼身自殺のシーンなどはまだ冷戦下の政治状況の反映を感じるし、ベトナム戦争の影響を想起しても間違いないと思う。制作時からはるかな歳月を経て見えてくるものは確かにあると思う。
 映画の後半はエル・トポが銃を捨ててからの物語となる。
 洞窟に閉じ込められた異形の者たち、カルト映画では「フリークス」との名を与えられる特権者たち。さまざまな身体障害者たちを光の世界へ誘おうとするエル・トポの宗教的な献身の物語となる。エル・トポの姿はかつての虚勢の黒装束ではなく、赤貧の修道僧をおもわせる粗衣となっている。メキシコの広大な大地はかつて幾多の修道僧が徘徊したところだ。おびただしい逸話はそのまま口碑となって伝えられた。
 洞窟から地上へ至るトンネルを掘り、「フリークス」たちを解放しようと、五体満足のエル・トポは誓う。頼れるのは自分ひとり、そして実践する。しかし、トンネルを掘るには道具がいる、激しい肉体労働を保つ健康も必要だ。喰わなければならない。資金がいる。そこで町へ出て道化となって大道芸で投げ銭をあつめる。そんな日々のなかで成長したわが子と邂逅する。かつて捨てられた息子は、父親への復讐を誓ってガンマンとしての苦闘の修行を積んできたようだ。エル・トポはいう、トンネルが完成するまで復讐の時を延ばしてくれ、と懇願する。やがて、「復讐を早くしたいなら、手伝ったどうか」と息子に提案する。このあたりは菊池寛の「恩讐の彼方に」を髣髴とさせる、いわゆる青の洞門のくだりとそっくりだ。メキシコで映画を撮る前、フランスで戯曲を書いていたホドロフスキーが「恩讐の彼方に」と出合っていたとしても不思議はないだろう。
 この後半部にさまざまな隠喩、暗喩がそこかしこに象嵌されていて、それを読み解く楽しさは本作を永年にわたって現役の映画としていきつづけてきた力だろう。   
 

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