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当世江戸界隈寄席模様

当世江戸界隈寄席模様

 江戸庶民が育てた落語、その時どきのご時勢、庶民哀歓の世相を反映し、浮沈を繰り返しながら連綿とつづく大衆芸能。外題は世につれ千変万化、融通無碍に伸縮自在とゴムみたいな使い勝手がよいところが真骨頂。厚顔無恥でもあり、それに赤面しないところが他の伝統芸能と違う。限りなく増殖していく話芸でもある。先の大戦での負け戦にもめげず、焼け跡の娯楽施設として建ったのも寄席が一番だった。映画のようにたいそうな映写機もいらず、芝居のように役者をあつめて稽古する手間もない。
 「師匠、凸凹亭△白黒師匠がまた泥酔して不忍池にはまって風邪引き込んで寝込んじまったとかで、ここはひとつ、師匠に・・・」
 「そうかい、そまた席亭さんも難儀なことですな。まぁ、肥溜めにはまんなかったのが幸いってとこだ。馬鹿に効く薬はねぇってことよ、よござす、あいつの馬鹿をネタにしてやろうじゃねえか」
 とプログラムは当日、変わることはいまでも頻繁にある。入場料を返せ、割引きしろとねじ込む無粋な観客もいない。

 今、東京の寄席を拠点とする噺家は約四百五十人で落語史上、最多! しかし定席四というのは過去最低! お寒さ。

 新宿末広亭は場所柄、客層がもっとも若い寄席。左右に桟敷、畳敷の客席があるのはここだけだ。筆者はその桟敷、背を柱に持たせ掛け、足を伸ばして聞き入るのが好きだ。
 その末広亭を立ち上げたのが一代の道楽者・北村銀太郎。晩年、大衆芸能史に欠かせない聞書きを遺した。それによれば明治末期の寄席最盛期には二百席以上あったと語る。末広亭は敗戦後、焼け野原の新宿で一等最初に再建された娯楽施設だった。

 では現在の噺家は定席が激減するなか何故、生き延びているかといえばTVのバラエティー番組、地方への出前寄席、自主公演、歌謡ショーや結婚式の司会などで糊口をしのぐ。
 噺家の大半は落語協会と落語芸術協会の二大派閥に属す。一度、東北地方の市民寄席の巡業に同行取材したことのある三笑亭笑三師匠は現在、芸術協会お偉いさん。その笑三師匠が毎号、プログラムに挿絵や短文を寄せているのが浅草の演芸ホール。ここに筆者は良く行く。理由は、同じビルの上階に漫才を中心とする東洋館があってハシゴができ、かつて殷賑をきわめた浅草六区のど真ん中にあって借景が良い。

 寄席通いの愉楽を語るのは粋じゃないが、まだ敷居が高いと敬遠する読者に向けに書くとすれば、小さな小屋のなかに日本話芸の小宇宙がぐるぐると旋回していることだ。
 明治の粋を遺す三味線片手で都都逸などを盛り込んだ小話芸の巧み、かつて上野にあった講談の定席・本牧亭が閉場してから講談師の出演も多くなり、奇術や紙きり、曲芸師たちの当意即妙な話芸も見逃せない。それらの芸は、落語と分けて「色物」という。艶芸の意味ではない。また花柳界の色香をただよわせる芸人が観られるのは浅草がいちばんだろう。

 先に都内の定席四席と書いたが、これに某不動産会社が運営する貸席四席と、最高裁判所裏にたいよう立派な国立演芸場があるが、ここは日本でいちばん無粋な寄席だろう。寄席がはね、出てきたら街頭に照らし出される裁判所しか視界に収まらないというのは興ざめもはなはだしい。某不動産会社の貸席のなかでは両国駅にほど近い仮設寄席には幾度か通った。大相撲を観戦した足でいけば完璧ジャパネスクとなる。

 寄席は艶(えん)やな賑わいが似合う。
 思えば定席四席はみな日本の猥雑を象徴する歓楽街を後背地とする。
 野暮を承知で書けば木戸銭三千円前後で約四時間、二十前後の話芸を楽しめる廉価な娯楽場が寄席である。浅草はどうも年金暮しのお年寄りがおおく、噺家も“昭和”を語りすぎるところがある。
 年末、寄席で年忘れの笑いを受け、年始は笑いで福を迎えたい。その意味でも目と鼻の先に浅草寺がある浅草演芸ホールは一石二鳥だ。…別に演芸ホールから金を貰っているわけではないが、贔屓の延長での悪ノリでした・・・。

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