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イランの監督がジョージア(グルジア)で撮った『独裁者と小さな孫』

 独裁者と小さな孫
紛争の連鎖は止まらない。負の連鎖はより凄惨さを増して泥沼化していく。
 本作はひとつの寓話だ。老いた独裁者が一瞬のうちに奈落つきおとされ、小さな孫と陸路、国境をもとめ自業自得の逃避行をつづける話だ。そして幼い孫にはなんの罪もない。あるとすれば、たまさか民衆の怨嗟の声を真率に聞けなかった独裁者の血を受けたということだけ。
 確かに、こんなの独裁者はいただろう。歴史はヒトラーやスターリンという巨悪に目を奪われ、小物の、あるいは国際政治のうえではひとつの駒でしかない小国の独裁者のことは、その権力の座から叩き出されればたちまち忘れ去れる。
 本作の監督はイラン出身だが、映画の舞台はジョージア(旧グルジア)だが、無論、いまの同国の政治を暗喩しているわけではない。ジョージアほどロシアの引力から離脱するために血を流し、領土を奪われた国はない。それがコーカサス地方の小国の現代史だ。しかし、ロシアの引力圏から離脱できたことは確かだ。チェチェインはあれほどの犠牲を出しながら、いまだロシアの銃火の下で統治されている。
 アフガニスタンの国際社会から見捨てられた人々を描いた名作『カンダハル』を撮ったマフマルバフ監督は、独裁という強権のなかの秩序、そして赦し、という問題がみすえらる風土としてジョージアの自然と首府の光景を借りた。ジョージアのたまに書いておくけど、その首府トリビシアは美しい町だ。この町で過ごした4日ほどの日々は忘れがたい。マフマツバフ監督がジョージアを舞台にしようと傾斜した、ひとつの理由にこの国が生んだ20世紀を代表する独裁者スターリンを念頭においているだろうし、映画をみる者はだれだって、かつてのクレムリンの主を想い出す。映画で語らずともスターリンの存在は浮びあがってくる。そういう隠喩の効果も考慮すればジョージアという地は重要な構成要素となるだろう。
 ジョージアにはまた、有能な映画人、それは俳優だけでなく、技術面でもソ連時代からモスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルグ)の二大映画スタジオから離脱した独自のノーハウが育まれていたからだ。同じコーカサス諸国でもアルメニア、アゼルバイジャンにはそれはなかった。
 本作の主人公の独裁者を演じたミシャ・ゴミアシュウィリはグルジア映画界におけるベテランの名優。日本で公開された近作には、北京オリンピックの最中に起きた、ロシア軍によるグルジア侵攻を描いた米国映画『5デイズ』で、コーカサスの複雑な民族問題を体現する父親役と いう難役を演じていた。

 映画の冒頭、礼装の軍服姿の大統領が孫を膝にして、電話一本で首府の明かりを点けたり消したりして、権力とはこのようなものだ、と語るシーンから始まる。その一席の座興が終わった途端、反大統領派による軍事クーデターが起こり、大統領はその座を追われる。それからはじまる苦難の逃避行。映画の大半がこの逃避行を描くのに費やされる。
 そして、安住の家すらない老いてあわれな老人として物貰いのように変装し、孫はその連れ子という役柄を強いられる。その逃避行で否応もなく突きつけられる自身の独裁下のみじめな民衆の暮し。独裁時代の罪と罰。それは法の支配ではなく、独裁者の恣意的な政策によって犠牲となった人の群れだ。
 クーデターの成功によって釈放された元政治犯が故郷に帰る旅と同行することになった。自分が犯した罪のため障害をおった元政治犯たちと逃避行をつづけなれけばいけなくなった。晩年に迎えたひとりの人間として、これほど過酷な旅はない。しかも、その旅も完遂することなく正体はばれ、農民たちの私刑(リンチ)を受けそうになる。その先は書くまい。そこに監督の思いが凝縮しているからだ。約2時間のフィルムの逃避行につきあってから知るべき“事実”であろうと思う。

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