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[ライナー・ノーツ] セリア・クルス『魂の贈り物』 レガロ・デル・アルマ その1

セリア・クルス『魂の贈り物~レガロ・デル・アルマ』
 EPIC EICP 291『REGALO DEL ALMA』のライナー・ノーツ
セリア・クルス

 セリア・クルスに涙は似合わない。
 太陽の光によって輝く月ではなく、太陽そのものであったセリア。カリブの海を一点の翳りもなく染め抜く熱帯の旺盛な太陽そのものであったセリア。その太陽が永遠に水平線の彼方に没したのだった。7月16日のこと・・・。セリアにふさわしい盛夏のその日に。享年78歳。
 セリアの追悼に涙はいらない。友人をあつめロンを用意し、クーバリブレをつくってグラスに注ぎ、彼女の歌で踊るか談笑を活気づかせているほうがふさわしい。笑顔で送り出そう。「ご苦労さまでした。これからパライソ(天国)の椰子の木陰にハンモックを吊ってユア~ンユオ~ンと休んで欲しい」と、グラスを鳴らそう。

 ・・・・・とは言っても、死は粛然たる事実。セリアの太陽を追うことが永遠に閉ざされてしまった大きな欠落感。けれど、セリアは78年の歳月をかけ国境を政治を、民族、そして世代を超えて無数の人びとの胸を熱しつづけてきた、その熱はそれぞれの胸のなかにいましばらく熱度を失わずに生きていくのだろう。その焔(ほむら)は一人ひとりがそれぞれの生を終えるまで鮮やかな明度を保ちつづけるように思う。それを心火(しんか)という。
 セリアが私たちに遺贈してくれた作品の総量は圧倒的なものだ。そのカリブ音楽の遺産は稀代の放蕩息子といえども消費尽くせないもののはずだ。セリア自身がいささかも出し惜しみせず放射してきた歌に込めた熱量の総体は月へと反照射できるほどのものだ。

AZUCAR!
 アスカール! セリアの必殺フレーズだ。
 「砂糖」、転じて甘味や美味といった意味も。しかし、セリアがそれをキューバ訛スペイン語特有の撥舌音とともに発するとき、彼女自身の万感の思いも込められている。歌の調子の良さで、出来の良さ、あるいは共演者たちの巧みや充実した演奏への賞賛として、リズムを活気づかせるフレーズとして直球型で投擲されるものだが、同時に祖国キューバへの愛着がどうしようもなく息づいているものなのだ。
 首都ハバナから少し郊外へ車を飛ばせばよい。そこは一面のサトウキビ畑。革命は、砂糖の量産をエルネスト・チェ・ゲバラが率先してマチェテ(農民の小刀)を振り鼓舞することによって前進したようなものだ。キューバの銘酒ロンがサトウキビから誕生したように、セリアにとってアスカール! は出自のキューバそのものも象徴する。
 しかし、セリアは1959年のキューバ革命後、祖国へ一度も戻らなかった。当時のメキシコで汎ラテン圏音楽の美点を音楽のマチェテで貪欲に刈り込み、独自の世界を構築していたソノラ・マタンセーラたちとともに充実した活動を行なっていたのだった。その時から、セリアは亡命音楽家の道を歩むことになった。
 当時、メキシコは中南米諸国の大半が米国の圧力に屈して革命キューバとの国交を断つなかにあっても友好関係を維持していた。ラテンアメリカの盟主という自覚からだったが、同時に米国もメキシコをキューバの窓としておくことを容認していたのだ。
 革命キューバを信任したメキシコだが同時に、反革命派のキューバ人の滞在も認め、音楽家たちの就労も黙認した。そのなかにはマンボ王のペレス・プラードのようにメキシコ国籍を収得するものが出てきた。セリアもまた米国に安住の地を見い出すまでメキシコを一時的に活動の拠点とした。
 セリアとソノラ・マタンセーラのメキシコの活躍は、やがてメキシコ直産のキューバ音楽グループ、ラ・ソノラ・サンタネーラを生み出してゆく。セリアもサンタネーラとの録音をメキシコに数多く残している。
 セリアにとってメキシコは、人生の転機を無事にやり過ごすことを暖かく許容してくれた土地であった。セリアは生涯、そのことを忘れなかった。8月19日にはメキシコ市内の教会で、メキシコに住むセリアの友人たちがあつまって特別ミサを捧げたことは銘記されて良いだろう。 

 ハバナの一角にで生を受け、音楽を育み、スター街道に送り出してくれた母国キューバに別れを告げたセリアにとって、アスカール! は望郷のキーワードであったかも知れない。しかし、そこには故郷喪失の悲哀の通奏低音はない。湿っぽさはまったく乾いている。遠くの離れた故郷を思う心は高音でなければ届かない、と主張してようだった。それは同時に、革命キューバから逃れ米国、メキシコ、中米・カリブ諸国に離散したいった同胞たちに向かって、異邦での暮しを少しでも風通しのよいものにすることを使命と考えたセリアの呼びかけにもなった。といって、筆者は革命キューバを否定するつもりはまったくない。しかし、いかなる政治体制も完璧ではありえないし、共産主義という統治・経済システムを嫌う人たちの自由は尊重されるべきだと思う。もし、セリアが革命直後のキューバに戻れば、その歌の力は革命プロバカンダの道具と使われ、反米を唱える広告塔になったかもしれない。
 一芸人に徹したセリアは公に革命キューバを語ることはなかった。ただ行動、亡命という終極の選択でそれを示しただけだ。
 日本でよく言われることだが、サルサとは、革命後、リアルタイムでキューバ音楽の前衛が米国に流入していかなくなった時代に在米のプエルトリコ人たちは創造し発展させていったもの、という見解はある側面を語っているに過ぎない。
 メキシコはリアルタイムでキューバ音楽は流入していたし、メキシコから陸続きに北上することも可能だった。米国には昔もいまも多くのチカーノ(メキシコ系米国人)がヒスパニック社会の主要民族集団として存在している。
 革命後もキューバ音楽家たちは西欧諸国への巡業をつづけていたし、各地に録音も残していた。その音を米国で入手することは可能だった。問題は、革命後のキューバ音楽に大きな変化が生じたことだ。時の勢いは避けられない。革命の息吹きを吸い込んだ若いキューバ人たちが、あらたな時代の音楽の担い手となってゆくのは必然だった。ヌエバ・トローバを名乗る一群の若い才能が出てきた。そして、キューバの新しい顔になり、汎ラテン圏で愛唱される名歌も生まれていった。革命後もキューバ音楽は相変わらずスペイン語圏で愛好され、尊重もされてきた。キューバの音楽的嗜好は革命後、変質したのだ。その変質・変容を米国のラテン音楽愛好家たちは許容できず、キューバ音楽の多様性を取り込んだサルサに伝統と新しさを見い出していった、ということだ。
 そして、そのサルサの黎明期から完成期、さらに現在の熟成期問わず、その中心にセリア・クルスという大輪が、いつも瑞々しい芳香を放ちながら君臨していたのだ。
 セリアの死の少し前から米国で彼女の伝記映画の制作が準備中だった。彼女の死によってシナリオの見直しが行なわれているはずだ。セリア役には、彼女の友人であった名優ウーピー・ゴールドバーグが演じることになっている。その脚本のために、セリアは長時間インタビューに応じていた。もし可能なら、そのインタビューの全容が活字化されるとラテン音楽史における貴重な資料となるずだが、もしかしたら、そこに亡命の真の動機も語られているかも知れない。 (つづく) 

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