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花もつ女たち №66 マイヤ・プリセツカヤ(バレリーナ*ロシア)

花もつ女たち №66 マイヤ・プリセツカヤ (バレリーナ*ロシア 1925~2015)
マイヤ・プリセツカヤ

 もし「ロシア革命」なるものの美点をあげるとすれば、まず第一義にアジア、アフリカ、ラテンアメリカ地域において民衆の自立自尊、独立への機運などを誘発したことだろう。これにつづくのはヒトラーのファシズムの浸透を東の壁となって防ぎ、押し返し崩壊させたことだろう。そして、逆説的な美点となるがロシア・バレエの豊穣を世界各地に放散したということだ。むろん、日本も例外ではない。日本のバレエの基礎は革命を逃れた白系ロシア人のバレリーナ、または講師によってつくられた。革命前からフランスを中心に活動していたディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の精華は革命によって西側に拡散した。冷戦下ではルドルフ・ヌレエフがパリに、バリシニコフが米国に亡命してバレエ芸術をさらなる高みへと導いた。しかし、マイヤ・プリセツカヤはモスクワ・ボリショイに留まった。
 審美眼の欠片ももちあわせていない党官僚からさまざまな嫌がらせ、抑圧を受けながらマイヤは“鉄のカーテン”を越えようとはしなかった。スターリン時代に父親は政治犯として処刑され、母親も禁固刑を受け、その母親とともに僻遠の地にもじ通り流刑されるという辛酸をなめながらも最後までソ連市民のパスポートを捨てなかった。しかも、彼女は帝政ロシア時代も革命ロシア下でも差別され、時には血の弾圧も受けてきたユダヤ系ロシア人であった。
 むろん理由はある。もし、海外公演中に外国公館にでも駆け込めば、当該国ではみなもろ手をあげてマイヤを受け入れただろう。しかし、それをしなかった。亡命すればモスクワに残った母親(すでに政治犯として前科がある)や親族に生命が脅かされることは確かだろう。ただし、マイヤがそれを選べば家族はそれなりの覚悟はしたと思う。その後、作曲家の男性と結婚したことがきっかけで亡命の意思は遠のいただろう、マイヤが外国公演中、夫は“人質”となってロシアで仕事していたから・・・。だが、筆者はマイヤが一度も亡命の意思をもたなかったのはバレエのデーモン、悪魔の存在だと思う。
 マイヤを育てると同時に抑圧もしたボリショイ・バレエ団。その劇場の舞台そのものが彼女を外に向かわせなかったのだと思う。ボリショイの広いステージはゆるやかな傾斜がある。高低差70センチ。マイヤの舞踏芸術はボリショイのステージから生まれたのだ。たとえば、マイヤの代名詞というべき「瀕死の白鳥」は、闇・・・観客席から見て左奥隅に悄然と佇んでいる光景からはじまる。つまり傾斜のいちばん上から下降しながら舞うのである。マイヤの「白鳥の湖」「ドン・キホーテ」「スパルタカス」「アンナ・カレーニナ」「カルメン組曲」もみなボリショイのステージで熟成されたのだ。
 作曲家のプロコフィエフ、ショスタコーヴィッチらが冷遇されながらもロシアの大地を捨てることがなかったのは、その地に彼らの音楽の源泉があったからだ。ラフマニノフが亡命後、生彩を欠いてしまったのは、ロシアの大地から切り離されたからだ。パステルナークやソルジェニツィンが亡命しなかったのも同じことだ。言霊も大地に宿るのだ。そして、マイヤの舞踏も・・・。
 「瀕死の白鳥」・・・マイヤのそれは“瀕死”にみえない。どっこい生きているぞ、という強い意思が漲っている。表題を逆説的に捉えることで、マイヤはステージから雄弁に、ロシアの良心は共産党独裁下で息たえだえだがまだ死んだわけではない、と自己主張していたようにも思える。その瀕死の白鳥はベルリンの壁の崩壊を鳥瞰し、ソ連邦の解体も見届けたのだ。

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