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死を見つめることのリアリティ*日本・コロンビア映画『死化粧師 オロスコ』

死を見つめることのリアリティ
 日本・コロンビア映画『死化粧師 オロスコ』釣崎清隆監督
 
オロスコ2

 「自爆テロ」という言葉はいま、時事用語から国際社会の矛盾を語る際のひとつの常套句のようになってしまった。しかし、ひとが「自縛テロ」と語るとき、そこにどれだけ死の様相を想像しているのだろうか? 人は「自縛テロ」と言えても、その死の在り様を語ってはいない。あるいは「死」そのものがまったく希薄に語るニュースキャスターがいる。彼らは「死」をなにも語っていない。
 「自縛テロ」を主題に扱った映画がハリウッドや欧州諸国、そしてイスラム諸国でも制作されている。しかし、その自縛テロを決行した者たちの死体というものはけっして映像化されない。リアリティを重視する監督でもせいぜい血にまみれた身体の一部、腕とか手首、片足を偽造して示すだけだ。むろん、テロの犠牲者もそんなふうに描かれる。テロ実行犯の最後の表情を留めているはずの頭部というのはけっして描かれない。もし、頭部が描かれるとすれば、それはホラー映画の領域に国際政治が侵入するときだけだろう。
 あるいは現在、メキシコ北部 州で展開される「麻薬戦争」の犠牲者たちの遺体、それは凄まじいものだ。自縛テロの死は一瞬に訪れるかもしれないが、「麻薬戦争」の犠牲者は、おそらく激しい拷問の末に迎えた無残な死の姿が留められている。そうした死体が発見された直後の写真というものが、これでもかとみせるサイトがある。英語かスペイン語を少し理解できればすぐみれる。そこには、たとえば美少女の頭部はむろん、手足が切り離された全裸の死体というのまである。猟奇的とはいうまい。それが、この世の現実なのだ。
 死の臨場感を知ることは、いま、この社会に生きる成人の義務であると思う。メメント・モリ・・・死を見つめることなくして現代社会の矛盾をリアリティをもって窺うことはできないのではないか? ましてや今、市民が三番完成度の下で証拠写真なるものを見なければいけない時代になっている。そこには非日常性の光景がある。それを平常心で見つめることの必要を市民に強いながら、その実、この市民社会は平然と「死体」を見つめることの忌避している。それはおかしいと思う。人の罪を問い、罰を強いる立場の人間が死を直視しなければ情緒で、それを問うことになる。ましてや、裁判につらなった者が、そんな写真はみれないと忌避するのは、それこそ怠慢である以上の罪だろう。
 
 日本のマスコミは“死”を見せない。
 日本国内の事犯に関する死体であれば、遺族への配慮、ということはあるだろう。しかし、国際的に注視され る犯罪、戦争であるならば“死”を見つめるべきだと思う。世界の現実は過酷だ、苛烈な業火があちこちで噴き出している。それは認識されなければいけない。
 日本でも18歳以上の選挙権が認められた。当然だと思う。18という年齢はいま、紛争地で銃を握って戦っている世代だ。日本の経済的な豊かさは、途上国の貧困、とくに鉱物資源でしか外貨を稼げない国、不当な市場によって価格操作されている換金作物しか輸出できない国の貧しさの上で成立しているところがあるだろう。そうした国で少年・少女たちが戦っているのであれば、日本の少年・少女たちも選挙権を行使するのは当然であり、その責任を全うすべきだ。そして、死を見つめよ、と言いたい。

 私は、約6年、内戦時代の中米グァテ マラに暮らしていた。無残な死はいたるところにあった。
 それは毎朝、新聞の一面に掲載されるかたちで家のなかに入り込んできた。「身元不明」の死体、その顔写真が週に幾度も掲載された。それは個人的な特徴がわかるようなおおきな写真であった。そんな死顔が大きく掲載される理由は幾つもあっただろう。
 警察・あるいは軍当局が、政府に逆らうとこんな目に合うぞという脅しとしての効果、あるいは黙秘したまま拷問死してしまった“政治犯”の身元の洗い出し。
 そうした写真を掲載することで新聞社は政府に協力の姿勢を示すと同時に、読者に現在の政府とはかくも非人道的であるとも語れる。けっして名乗りでてはこない遺族に、父や子、孫の「死」を告 知する効果もあったのだ。
 そして、そうした死顔はまちがなくエンバーマーによって修復されているのだった。内戦国には手練のエンバーマーが数多く働いていた。私の住んでいたグァテマラのアンティグア市にもいた。その仕事ぶりも身近にみた。
 1980~90年代、ラテンアメリカ諸国を旅した日本人バックパッカーたちのあいだで伝説的な存在でもあった青年に大阪出身の“ユキさん”がいた。アンティグア市で唯一の日本レストラン「禅」を経営し、そこは日本人バックパッカーの溜まり場となり、情報交換の場として機能していた貴重な存在であった。
 その“ユキさん”が隣町の安酒場で地元のチンピラたちに嬲り殺された。全身、くまなく強打されての憤死である。し かし、棺に納められレストラン「禅」に戻ってきた“ユキさん”の顔は穏やかであった。確かに顔の腫れは退いていなかったが、腫れているぶん、少し痩せ気味で尖った印象のあった“ユキさん”は穏やかな青年の死顔に変身していた。つまり、見事な死化粧が施されていたのだ。

 映画『オロスコ』は南米コロンビアのエンバーマー、死化粧師の手練の技をあますところなく描いている。仕事でエンバーミングされる死体が幾体も登場する。男も女も・・・。人間の皮膚の強さとか、顔の皮膚もペロリとめくれ上がって、元に戻るものだということも教えてくれる。内臓が鷲づかみにされ洗浄される。映画に出演した時点で約5万体に向き合ってきた仕事師の手際がみれる。といっても、この映画を正視できる者だけが理解できるものだろうが。
 オロスコの手際はまったく見事としかいいようがない。5万体の遺体と向き合ってきた実績と経験がよどみなく流れる“処理”に表象されている。そして、エンバーミングされた遺体の仕上げは、女性ならできるだけ生前のいちばん見姿にしようと化粧ほどこす。男性ならその地位に相応しい威厳を再生しようと試みる。遺族はエンバーミングの過程を知る必要はない。哀しみを深めてはいけない。死者が遺族に微笑みかけるように“蘇生”させなければいけない。オロスコという職人はそういう人だ。アルチザンだが、死を“造形”するアーティストであったかも知れない。彼が映画の完成をまたずに癌で死去したという。それもまた彼の人生であったのだろう。

 社会には、できたら見たくない忌避したいとされる事を請け負う人たちがいる。そういう人が存在するから社会は機能していく。エンバーマーはその典型だろう。
 そして、紛争地では欠くことのできない人材なのだ。社会の暗部を見つめることも人間には時に必要なことだ。その意味では本作は類例を見出せない貴重な映画なのだが・・・といって推薦しているわけではない。気の弱い人は忌避したほうがやはり良いから。でも、こうした仕事も人間社会には必要だということは知る必要があるだろう。

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