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3・11への断章 ~自らの記憶として

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 あの日、あの時、筆者は都内大田区の11階のマンションの一室にいた。尋常でない揺れは2度目の方が感覚として大きかったように思う。タンスや食器棚のバタン! といっせいに開き、手の施しようもなくガラスコップなどが叩き出され砕けた。慌てて、物干し場を兼ねたテラスに続くガラス戸を全開にした。そこからどうするのだという当てもないまま外への逃げ場を確保しようとした。万が一の場合、雨どいをつかっても地上に降りてやろうという覚悟だ。マンションのどこかで火でもつけば、そんなこともあるだろうという思いがあったかどうか・・・。つづいて玄関のドアを半開きにして、そこに立った。そうして揺れをやり過ごした。揺れが収まってもしばらくそこを動けなかった。エレベーターは止まった。外付けの非常階段へのドアが開くことを確認した。その階段を使って屋外に出ようと思わなかった。階段を降りているときに、また大きな揺れがきた時、どうなるのか、という心配があったからだ。玄関のドアが閉じないようにものをおいてテ レビをつけた。自衛隊のヘリコプターが上空から撮った津波が襲うリアルタイムの映像をみたのは何時だったか・・・。
 それからの時間、それからの日々・・・日本人、強いて言えば東日本人、つまりあの大きな揺れを体験した人、被災、非被災を問わず、恐怖を共有したのだ。後日、筆者の79歳(当時)母は「空襲のときより怖かった」と言った。アノ東京大空襲を荒川区で受けた母がそういうのだ。B29爆撃機から放り出された焼夷弾のため火の海を逃げ惑った体験より怖かった、という母の心性はにわかに理解できないが、遠い日の体験より、肉体に実感として残る「恐怖」に重きをおいたのだろう。
 3・11以降の日々、TVからCMが一切消えていた日々とも言って良いかと思うが、その日々は、日本人をある意味、一体化しただろうし、筆者自身は「日本」を愛すべき国だと再確認したのだった。その時期、日本では一般犯罪は激減していたと思う。戦時下、犯罪減ったように。

 13年、海外で暮らした筆者にとって、その歳月は日々、「日本」、あるいは「日本人」を自覚する日々であったと思う。外から、日本語社会から遠ざけられ環境下、日本の当たり前の味に枯渇する日々のなかで、あらためて日本という国は良い国であり、良い民族だと思った。
 語弊があるかも知れないが、3・11を、海外生活を終え帰国してから体験できたことに感謝したいと思っている。
 津波の被害を受け、急死に一生をえた人々の姿は素晴らしいものだった。節度と忍耐、人を思いやる美徳、自らの生命を顧みず行動した人びとのヒロイズムの気取りもなく、とっさの行動として危険のなかに飛び込んでいった人びと。なんて、被災者は美しかっただろうか。
 
 2011年8月、米国南部メキシコ湾沿いの都市がハリケーンの襲われ居住区が大きな被害にあった。行方不明をふくめ2500人以上の犠牲者が出た。米国政府、州政府、当該自治体も未曾有の水害のなかで採れるべき方法で対応したと思う。衣食住をいっぺんに失った被災者は救助を待っていた。それは日本の被災者と同じ状況である。
 しかし、米国の被災者はやっと届いた援助物資をわれ先に暴力を行使して奪い合った。それは醜い光景だった。そういう光景は、内乱のつづくアフリカや中東諸国などで目にするものだった。米国のような豊かな国で現出すべき光景ではなかった。被災地がアフロ系住民の多く住む貧困地帯であったということもあるが、彼らは餓鬼の様相を示した。ハリケーンの季節だから、被災者を凍えさせることもない。ものの腐敗はより早く進むだろうが、それでも3月の東北の地よりはるかに生き延びるのは容易なはずだ。しかし、被災者に節度も忍耐もなかった。米国社会の矛盾、この国には民族的一体感がやはり欠如しているとしか思えない光景だった。それは他宗教、他民族に対する偏見を煽り、人種的差別発現を繰り返す大統領候補が多くの支持を得ている風土を支えているところにつながってゆくように思う。

 東北の被災地では一件の暴動も発生しなかった。暴動どころか、援助物資を待つ人々は互いをいたわり合って列をいささかも乱さなかった。寒風のなか、ときに雪混じりの風が吹くなかで耐えた。東北人の我慢強さかも知れない。それは美しい光景であった。日本人として誇りとすべき雅な光景ですらあった。
 諸外国のメディアは、そうした東北の被災者たちの態度を賞賛した。それは物思う種としての人類の叡智そのものを象徴する行為であったからだ。こうした被災者こそノーベル平和賞にふさわしい。スペインの高名な人道賞が震災直後、東電の福島原発事件で勇敢な作業にあたった消防士たちを顕彰し称えたが、日本ではいまだそういうことが行なわれていない。日本政府政府は目先の「観光立国」の施策から、ユネスコの「世界遺産」の登録には熱心だが、5年経った今、いまも仮説住宅に取り残されている被災者たちのためにも、ノーベル平和賞候補として推薦すべきだ。少なくともそういう発想があっても良いではないか。

 その夜から直接的な被害を受けなかった東日本に住む人々は間歇的に襲ってくるかのような地震にうながされるように買いだめに走った。食糧など日用雑貨を確保しておこうというのはそれぞれが身を守るための行動ともいえるが、しかし、その時、市民の多くはそれなりの節度をもって買いだめしたと思う。
 筆者の居住地である埼玉県蕨市、自宅周辺にはあるいていける場所に6軒ほどのコンビニ、そして大型のスーパーマーケットが散在する。品数も豊富で、常時、棚は充実していた。通常の買い溜め、数日の生活が確保できる程度の買いだめなら商品棚から品物が消えるはずはなのだ。ところが消えた。
 蕨という町は全国でいちばん小さな市である。しかし、たとえばクルド系トルコ人がもっとも多く住む町であるように多くの外国人が住む町である。ここ一年ほどのあいだに知り合った外国人のなかにはルーマニア人親子、シリアからの留学生がいた。娘が通っていた小学校のクラスメートには中国、韓国、イラン、フィリピン国籍の子がいた。ロシアやウクライナから来ていると思われるスラブ系住民も多い。
 このなかで、3・11直後から買い溜めしたのは中国人たちだ。いまでこそ、日本経済に貢献するとかで中国人観光客たちの“爆買い”が話題になっているが、3・11直後も“他人をまったく思いやらない“爆買い”に走ったのだ。それは記憶されなければいけない。
 中国人観光客たちの日本における消費行動の基底には自国の製品に対する根強い不信感がある。それは自国政府を、その政府が発効させている法律を信用していな いということだ。マクドナルドの食材を加工していた中国の工場が腐った鶏肉を出荷したり、溝河から油を救って煮炊きに利用していたりといった風土、企業の倫理観の欠如があることをしっているから、旅行に来て「観光」の合い間に精力的に日本の家電を買い、薬品を“神薬”と崇め、化粧品を買いあさっているのだ。それは中国人のふだんの生活を律する行動規範となっている。
 そんな中国人が日本に住みだし、職を得て、都内より格安な価格で住める蕨市内に住むようになってから3・11に遭遇したとき、彼らは中国人として当然な行動に出た。それが買い溜めだ。3・11直後の彼らの行動を別に観察していたわけではない。こちらもそんな余裕のある日々を過ごしていたわけではない。しかし、震災直後から無数に起こる揺れ、そのなかにはかなり大きなものがあったことは読者諸氏も体験しておられるだろうが、そんな地震が起きた直後にたまさかコンビニなどで見かけた光景のなかで、「今更、なんでそんなに買いだめする」と思われる消費行動をしていたのが中国人ばかりだった。彼らが3・11直後、どのような消費行動に走ったかは容易に想像できるし、親しくなったコンビニのレジ打ちの店員からも聞いている。
 中国人の“爆買い”はいまでこそ、日本経済を押し上げる効果があるとして、どこか大目に見られているところがあるが、しかし、醜い光景であることは間違いない。彼らは日本でばかり“爆買い”しているわけではない。
 先年、パリのシャンゼリゼ大通りに本店を構えるルイヴィトン。春の某日某時間、店内は中国人観光客、否買い物客で賑わっていた。内装の優雅さに似合わない猥雑さがそこにあった。店では金離れの良い中国人客を見込んで中国系の店員に応対させていた。その店員がどこから来て、どこの国籍を持つ人かしらないが、その物腰し、声も控えめ、客の求めがない限り、自分から客に接近することもなく、できるだけ店内の猥雑さを中和させるために静寂の孤塁を守るという態度のエレガントさに感心した。
 そういうエレガントな中国人を少なくとも、わが蕨市ではみたこともない。

 被災地で小さな紡績工場であったか津波の被害を受けた。そこには中国から来た女工さんたちが大勢、働いていた。彼女たちを逃がすために、その経営者は犠牲となった。女工さんたちはみな無事だった。
 中国からも救援活動のために政府派遣のレスキュー隊が駆けつけた。その人員規模は、遠く太平洋を越えてやってきたメキシコのそれより少なかった。派遣したとアリバイ作りのために来たようなものだ。そのことも記憶に留めておきたい。

 ふだん付き合っている革新系無所属の若い市会議員がある会合で、「明日、津波で出たゴミを焼却するために北埼玉の焼却場に持ち込まれる予定で、それに反対する市民組織を応援するために出かける」と朗らかに語リ出した。
 筆者は、「何故、市民組織は反対しているのか」と聞いた。
 彼は、「放射能に汚染されているかも知れないからだ」と言った。
「きみもそう思っているのか?」
「いや、確信はないけれど、要請されたからだ」
「それはどこのゴミなのか?」
「宮城県から運ばれてくるものらしい」
「福島から運ばれてくるものじゃないだ」
「宮城です」
「では、何故、反対する」
「汚染の恐れがあるからだ」
「宮城県から排出されるものは心配ないのでは」
「恐れがあれば反対しないわけにはいかない」
「そんなことを言っていたら被災地の厖大なゴミはいつまでも片付かないじゃないか」
「地元での処理が原則だ、とその市民組織は反対している」
「きみは、そのことに賛同しているのだな」
「・・・・」
「地元での処理が原則というのはわかる。しかし、まだ行方不明者の捜索が行なわれている状況のなかで、ゴミの片付けも急務だろう。復興事業は厖大なゴミをなんとかしなければ始まらないだろう」
「しかし、もし放射能汚染されていたら、汚染の拡散になる」
「じゃ、聞くがその汚染されているかも知れないという厖大なゴミを被災地に放置しておけというのか、その被災地にも生き残った子どもや老人が暮らしているだろうし、そのゴミを整理している市民、ボランティアは汚染被害を受けても良いということか?」
「・・・・・」
「そんなの市民組織でもなんでもないよ、そんな運動を得意気にやって反原発運動を参加しているというのは、自尊心だけ満足させている似非ヒロイズムの集団だ。きみはそれに加担しようというのか?」
 筆者はそのとき、そうとう腹を立てていた。そして、当の市会議員クンは沈黙してしまった。
 
 当時の民主党政権のだらしなさはいまさらいうまでもないが、いわゆる左翼といわれる人たちの運動の偏頗性はまったくうんざりするものだ。彼らの“連帯”というのは、悪しき自己完結型で世界、東アジア、そして日本をトータルにみていない。彼らも被災者たちへの連帯を声にするし、それなりのボランティア活動にも献身しているのだろう。しかし、それが自分たちの居住区に及ぶとき、近視眼的な対応しかしない。
 筆者は地元での反対が起こることも予期しながら、ゴミの焼却という援助をしたいと決断した自治体長の立場に賛同する。たとえ疲弊している自治体の収入確保のためのゴミの受け入れを決断した自治体長の立場に賛同する。わが蕨の共産党系市長は、あおの時期、なにか行動したのだろうか? 駅前商店街がどんどんシャッター街となってゆく現状にまったくの無策であるように、なにもしなかった、市民の目に映るような行動はいっさいなかった。
 くだんの市会議員クンに筆者は言った。
「もし汚染されていたとしても、そのゴミを早期に処理するために宮城県レベルの汚染を分かち合うのが本当の連帯ではないのか? 絆、ということではないのか?」
「・・・」

 被災から2ヶ月ほど経ってから三陸海岸沿いに車を走らせた。一関駅前でレンタカーを借りて走らせた。最初は仙台駅に降りて駅周辺のレンタカー屋に軒並みあたったが一台の余裕もなかった。ある店で一関駅前の支店に一台空きがあると聞き、すぐ予約を取って向かった。
 気仙沼、陸前高田、大船渡というコースだった。限りある日程のなかで地元との人たちと触れ合うなかで多くの「3・11」を聞いた。
 筆者の20代前半、某商事会社の営業マンだった。担当地域が長いこと東北六県であった。三陸地方にも繰り返し訪れて、当時の筆者の稼ぎの何分の一かは東北地方からあがる利益から出ていた。その金で子どもたちも養育できたのだった。
 陸前高田の荒廃には言葉を失った。唖然とか悄然とか・・・そんな形容が喉のなかで砕け散るような光景を前にただ沈黙するしかなかった。ただ、海から吹き寄せる風を背に受けながら、遠くの里山までまっ平らになってしまった市街地、その廃墟。思いでもなにもまったく拒絶する荒景であった。きょうまたTVで陸前高田が映し出された。復興などまったく感じられない。むろん、地元では血のにじむような努力があるはずだが、それがなかなか見えないほど大きな被害にあったということだ。
 この夏、三陸をふたたび訪れてみようと思っている。

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