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アラル海  20世紀最大の環境破壊  …ウズベキスタン紀行抄

アラル海の激しい後退
  20世紀最大の環境破壊の現場  ……ウズベキスタン紀行抄

 
 ヒロシマの「原爆ドーム」を核戦争の象徴としてユネスコが世界遺産とするなら、今またアフガニスタンのバーミヤン石仏の破壊跡を人間愚行の証しとするなら、消滅しつつあるアラル海の荒廃そのものも収奪的経済がもたらした環境破壊の最大の現場として世界遺産とすべきだ、と思った。

アラル海

 想像を絶する光景だった。
 「ここは激しい波が打ち寄せる断崖絶壁だった」とタクシーの運転手が言った。
 しかし、見渡すかぎり広漠とした無彩色の空間がはるか彼方、地平線まで果てしなくつづいていた。
 第二次世界大戦の巨大な戦勝記念塔がそこに建つ。おそらく、戦勝塔は、ナチドイツの鉄の暴風によく耐え、戦い抜いたソ連人民の不屈の精神を象徴するのだろう。絶えず吹き寄せる海風を受け止める、そんな苛烈な場所に建てられた意図はそういうものだと思う。
 そう、戦勝碑が建立された当時、アラル海の波頭はその岸壁を洗い、豊かな魚影は近在の村を潤していた。しかし、岸辺ははるか彼方、二〇〇キロも後退してしまったのだ。
 「アラル海がここから去って、冬は厳しく、夏は過酷になった。ひどいもんだよ。美味い魚は食えなくなるし」とも運転手は言った。
 彼はカラカルパクスタン人、モンゴル族の末裔となる。母語はウズベク語の縁戚にあたるカラカルパック語だからロシア語が拙いのは仕方がない。文法はもとより時制もいい加減で、みな現在形で処理していると通訳してくれた在タシケントの日本大使館職員が言った。
 まだ四十年にも満たない前の話。タクシー運転手の幼少期には、アラル海は世界第四位、琵琶湖の約一〇〇倍の巨大湖であった。それが一九六〇年代から急激に水位を下げはじめ八〇年代には水面が一五メートルも下降し、湖面積で六二%、水量で八四%も減少し、現在は中洲が露呈して三つに分断されてしまった。涸れた湖底ではそこかしこで塩が凝固し、やがて風に削られ、微粒子となって宙に舞い上がる。そして、近在の農地に降り注ぎ、土壌を荒廃させているのだった。破壊の連鎖は止まらない。
 戦勝塔の建つ岸壁から三キロほど下ったところに漁港があった。かつて沿岸最大の水産加工工場をもったムイナクである。すでに岸と湖の境い目は消滅し、打ち捨てられた漁船、輸送船、そして沿岸の町をつないで航行していた小型客船の残骸があちこちに点在し、かつてそこが湖であったことを教えているだけだ。廃船は赤錆を晒して無惨である。甲板は指で押せばポロポロと剥離してしまうほど脆くなっている。
 アラル海はムイナクを見捨てたが、町はまだ生き延びている。しかし、ゴーストタウンといってもおかしくないほどの過疎状態だ。異様な静寂にみちている。映画館の扉が打ち付けられている。四、五階建ての公団住宅もあるが、人の気配がない。町の佇まいは立派だが荒廃感が著しい。子どもの姿がみえない。生活臭がまったく希薄なのだ。
 アジアやラテンアメリカのスラムは住民の過剰がその体臭とともに荒廃感を漂わせているものだが、ムイナクは住民の過少が町を“スラム”化し、冷たい風が人いきれを凍りつかせている感じだ。
 水産加工工場へ行った。かつて地域経済を支える柱であったところだ。正門の鉄扉には、湖から魚を捕獲する漁民の姿が描かれていた。絵具がまだ剥落せず残っている。つい最近まで操業していた、という印象だ。しかし、誰もいない。施設を管理する者もいない。
 最盛期には、年間四万トンの水揚げがあったアラル海の漁業はほぼ壊滅した。湖面積が縮小するのに比例して、残った湖水は塩分濃度を高めた。そして、カザフスタン側に分離して残された小アラル海でわずかに魚影をみるだけで、南の大アラル海側では魚影は消えたといわれる。
 ムイナクの町の入り口にたつ案内塔には、魚の絵が波の象徴とともに描き込まれていた。繁栄する漁港の面影は、住民たちの心にまだ生きている。アラル海はそれほど急激に衰退したということだ。


 アラル海は城壁をもたない遊牧国家スキタイの昔から中央アジアの人と自然を潤してきた。
 モンゴル族の侵出、ティムール帝国の盛衰、ロシア帝国の南進、そしてソ連邦に併呑され、やがて独立へと……人間社会の興亡に寄り添い、数千年のあいだワガママな人間社会に豊かな富を分け与えていた。人間たちもアラル海を畏敬し、さまざまな祈りの言葉ともに崇めてきた。仏教、ゾロアスター教、そしてイスラム教……祈りの言葉が貶められ、宗教をアヘンと見なした“労働者”の政府がはるか北方に誕生したときアラル海は荒廃へと助走しはじめた。
 ウズベキスタンの首都タシケントからティムール帝国のかつての王都サマルカンドを車で訪ねた。その道沿い、その左右にはてしなく綿花畑がひろがっていた。
 その大半が大戦後、クレムリンの命令型計画経済によって強制された土地改良、不毛の砂漠や荒蕪地を綿花畑に変える一大プロジェクトによって生まれたものだ。
 綿花栽培には多くの水を必要とする。
 ウイグル語で天山山脈をテンリ・タグというが、ここを源流とするのがシルダリア川。そして、七〇〇〇メートル級の高峰がつらなるヒンドゥークシュ山脈から流れ出す大河アムダリア川、この二大河川の豊かな水量をソ連政府は無限のものとみなした。そして、両大河から乾いた大地に水を引き込む運河を通し、四通八達させて綿花栽培地を拡大しつづけた。
 この運河建設に大きな足跡を残したのは大戦直後、ソ連軍に抑留された日本兵たちだった。というより、ウズベキスタンの運河は日本の抑留兵の存在抜きにしては語れない。
 首都のタシケントをはじめ各所に祖国に帰還することなく息絶えた抑留兵士たちの墓地がある。過酷な運河建設にたずさわり、病いなどで倒れた兵士たちが眠っているのだ。
 首都タシケントにウズベキスタンのボリショイといわれる国立ナボイ歌劇場がある。華麗とはいいがたいが質実剛健でティムールの末裔たちの首都にふさわしい剛毅さはある。この劇場の建設に日本の抑留兵がかかわり一九四七年に完成した。抑留された日本の若者たちの血と汗の結晶といってよい。
 「若者たち」と書いたが、歌劇場の建設に従事した日本抑留兵は「タシケント第四ラーゲリ」に収容されていた。歌劇場の建設を担当した抑留兵隊長は当時、二十五歳の永田行夫陸軍大尉であった。みな若かった。
 一九六八年、タシケントは都市直下型の大地震に見舞われる。スターリン時代に建設された建物の大半が壊滅したといわれる。しかし、ナボイ歌劇場はビクともしなかった。以後、ウズベキスタンでは、「日本人たちの優れた技術、誠実な仕事が堅牢な建物を残してくれた」との賞賛が定着した。
 ソ連から独立して以後、ウズベキスタンは、「わが国は日本と交戦したことはない。戦争はモスクワの政府がやったことだ」という“論理”で親日国であること宣明している。そのリップサービスに酔ったか、中央アジア五カ国中、ウズベキスタンは日本からの経済援助をもっとも多く享受している。しかし、政敵を非合法手段で逮捕、拘禁し、健全野党の存在すら認めないイスラーム・カリモフ大統領の“独裁”を擁護する姿勢は、欧米の人権諸団体からは懐疑の目で見られていることは認識すべきだろう。
 さて、ナボイ歌劇場建設でみせた日本抑留兵の堅実な仕事は、運河建設でも例外なく発揮されたのは当然である。当時の日本人の愚直なのだろうか、激しい労働にも関わらず慢性的な食糧不足、医療設備の不備、そして厳しい気候風土にも関わらず「手抜き」をしなかった。しかし、そうした仕事への誠実さは抑留兵たちの肉体を蝕んだ。多くの犠牲者を出した。コーカンド二四〇人、アレグレン一三三人、ベガワード146人、チュアマ三二人……と確認されているだけで八〇〇人以上の抑留兵が帰還することなくウズベキスタンの荒野に眠ることになった。
 戦後、運河建設に関わった人たちの手記や記録などが数種出版されている。けれど、その多くが私家版で広く読まれることにはならなかった。筆者が手にした自費出版を幾つか読んでみて、あらためて当時の日本人達の労働観、あるいは責任感の強さを知った。建設に携わった人たちが皆、「恥じない仕事」という意識をもっていたことだ。
 彼らの名が歴史に刻まれるわけではないが、「日本人の仕事」として残ることの意味を日本人として責任を待たなければならないと思っていた。日本人としての矜持が妥協を赦さない、という心根を皆、もっていたのだ。戦前の日本は、そうした美質をもった人たちをふつうに育てていたのだと思う。昨今、見つからなければ数本、鉄骨を抜いても、細くても安く上がれば 、それで良い。利潤を追求することを最優先させた“構造疑惑”など、ウズベキスタンの荒野で血と汗を流した人たちには理解できないことだろう。


 日本人たちが建設した運河は無論、現在も使われている。
 もちろん日本人に責任はないが、結果として堅牢に作られた運河はアラル海に流れ込むべき二つの大河の流れを急速に細くしてしまった。
 大規模灌漑事業は第二次大戦後から一九七〇年代まで引き継がれた。日本人たちが建設した運河から支脈も延びた。そうして七〇年代には六二〇万haの灌漑農地が造成されている。
 スターリン時代、綿花増産と運河建設の近視眼的な生産第一主義は、「やがてとんでもない自然破壊を引き起こす」と警告する農学者がロシアやウズベキスタンにも存在し、条理を尽くして反対していたという。しかし、そうした勇気ある学者は反ソ的存在として“粛清”されていった。また、ソ連邦中枢の科学アカデミーとその傘下に多数の研究機関が存在しながら、灌漑事業の推進による環境被害を食い止める調整制御機構をつくれなかったのは、生産向上というスローガンに乗らないと研究資金が政府から得られないという体制上の問題も無視できない。
 綿花栽培を主体的に担ったのはウズベク人であることは間違いないが、彼らはもともと遊牧の民であった。農耕を好まない民族である。しかし、ソ連政府はロマ族(ジプシー)の定住化を強制したように、中央アジア諸国の遊牧民の定住化を、イスラム教団の活動を停止させ、影響力を殺ぎながら推進した。
 一所不在の民族譜を織りつづけてきた遊牧民を定住化するには、生活の糧の創出がなければならない。急速な工業化社会が実現できない以上、農地を確保しなければならなかった。しかし、元々、痩せた地で収益を出せる換金作物は限られていた。伝統的な綿花栽培を拡大するのが一番、手っ取り早かった。しかし、綿花栽培には大量の水が必要だった。米国南部に綿花畑が広がったのは、カリブ海から吹き寄せる雨雲による降雨量があったからだが、中央アジアの降雨量の絶対値は少ない。そこで二つの大河から運河で水を敷くこととなったのだ。
 ラテンアメリカやアフリカ諸国の多くが旧宗主国から砂糖、コーヒー、あるいはバナナなどモノカルチャー経済を強いられ、今日まで構造的な貧困から抜け出させないでいるのと同じような状況によってもたらされた人災なのだ。クレムリンは中央アジア諸国にモノカルチャー経済を効率よく短期間で強いたともいえる。
 

 これまでウズベキスタンのアラル海として書いてきたが、正鵠を欠く。
 何故ならば、アラル海の沿岸を持つ地はウズベキスタンではなく現在、防衛と外交権をタシケント政府に委ねているカラカルパック自治共和国なのだ。ソ連邦崩壊後、短期間、「独立国」として存在いた時期もある。その独立以前、この小国は世界から弧絶した「封鎖国」であった。
 一九三〇年にスターリンはこの小国に「調査団」を派遣した。この国に散在する歴史的建造物の「科学的調査」を実施するというのが目的だった。調査の本当の意味は、いかにモスクワ政府に従わせるかの一点のみ。調査の結果として、一〇〇のモスクと二〇のマドラサ(神学校)が三四年、たった一年間で取り壊された。ただ破壊されたのではない。モスクなどの廃材はそのままソ連スタイルの役所などの建設資材として活用されていったのだ。
 カラカルパクスタンの首都はヌクス。中央政庁前の通り駱駝が日がな一日、寝そべっているような町である。その政庁の周囲には旧ソ連各地でみかける無彩色で堅牢な建物が幾つも建っているが、その建材にモスクやマドラサの廃材が使われたわけだ。こうした宗教破壊はロシア革命後、全土に及んだ。そして、イスラム教国では宗教施設が、宗教を否定する役所の建材に転用された。こうしたことが集約的に起きたのがコロンブスのいわゆる〈新大陸発見〉以後のアメリカ大陸、特にマヤ文明、アステカ帝国があったメキシコから中米諸国であった。ピラミッド型の広壮な神殿は次々と破壊され、その神殿跡地に山積した石材を組み直してカトリック教会の大伽藍を作ったのだ。
 現在、新大陸一の規模を誇るメキシコ市のカテドラルはアステカ帝国の中心地に、神殿を破壊して建てられたものだ。その地下には、幾層ものアステカ期の遺構がいまも眠っている。そう、スターリンが中央アジア諸国で行なった宗教施設の破壊は、スペイン征服軍のエルナン・コルテスやペドロ・デ・アルバラードなどがやった蛮行と基本的に変わらない。
 スターリンの犯罪は宗教者への弾圧で加速した。カラカルパクスタン政府の資料によれば、宗教施設の破壊の完了とともにはじまり三七年から翌三八年に掛けて約四万一千人が逮捕され、七千人が処刑された。おそらくカラカルパクスタン人の抵抗はつづいたのだろう。三九年からスターリンが亡くなる五三年までに約10万が逮捕され、一万三千人が処刑されたという。逮捕者のなかにはシベリアなどのラーゲリに送られ、獄死したものも多かったはずだ。そうした犠牲者の存在は、現在でも総人口百五十万の小国にあっては知識人と宗教者の大半が消された、ということだ。当時のイスラム社会にあって知識人とはイスラム神学者、高位聖職者であることも意味した。
 こうして抵抗勢力を徹底的に殺いだ後、スターリンはカラカルパクスタンを「封鎖国」として外国人の入国を制限し、ヌクス郊外に地元民をまったく雇い入れない秘密軍事工場を建設し、さらに、アラル島の孤島ボズロジェーニエに生物兵器を研究・開発する赤軍直轄の研究所を設立し、炭疽菌やペスト菌などによる動物実験を繰り返していたという。同島にはソ連軍侵入以前には漁民が暮らしていた。その住民が何処へ強制移住させられたか不明だが、無人となった島に赤軍が生物兵器の実験場としたのは、カラカルパクスタンにソ連の強制執行の「調査団」が入る前年の三六年であった。
ソ連邦崩壊後、九一年に赤軍撤退にあたって施設は無菌状態に戻され、完全封鎖して引き上げたといわれた。しかし、約一〇年後の二〇〇〇年に米国の疫学調査団が入島、殺菌され地下数メートルに遺棄されていた炭疽菌の胞子数一〇トン(!)のうち一部が生きていることが確認されたという。同調査団は無論、緊急処置を施し、細菌の流出を止める処理し、本格的な除去をできるだけ早い時期に実施するということになっているが、現在のところ、その作業はまだ済んでいない。
 同研究所の細菌の一部がなんらかの理由で漏洩し、カザフスタン沿岸周辺で八八年にはペストが流行し、八八年には家畜五〇万頭が原因不明の病気で死んで、周辺住民に避難命令が出たことがあった。
 かつての漁港ムイナク周辺の乳幼児の死亡率がウズベキスタン平均を上回り、アラル海の後退による何らかの原因と予測される。


 アラル海から揚がった水産物はムイナクだけでなく水量の豊かだったアムダリア川を遡上して首都ヌクス郊外に岸辺に作られた加工工場に運ばれた。その工場も現在は閉鎖され、従業員の宿舎は空き家となった。工場で働く従業員のほとんどがロシア人であった。ソ連崩壊後、ロシア人は引き上げ、空き家となった宿舎に地元民が入居した。その村に住む老人の案内で、「アムダリア川が消滅している場所はすぐそこだよ」ということで案内してもらった。
 そこにも漁船、小型輸送船や係留されたまま朽ち果てているのだった。その一艘の船体には「レフ・トルストイ号」とあった。
 「すぐそこまで水量はあったんだ」と老人が示す辺りから、数十メートル先まで下降したところに細い流れがあった。無論、大河の面影はまったくない。
 村の近くの路上で魚をビニールシートの上にならべて売る人たちがいた。アムダリア川から獲ってきたものだが、こんな魚も数年後には揚がらなくだろう。
 ウズベキスタン政府は非公式だが、アラル海の再生をあきらめたという。
 アムダリア川とシルダリア川の水量をかつてのように戻し、アラル海に注ぐ量を増やすためには膨大な綿花畑を潰さないといけない。そこで生計を立てる農民の再就職先を確保しなければできない相談だ。それに綿花の輸出に頼る経済構造を急激に替えるわけにもいかないし、同国東部のファルガナ盆地では地域格差を放置するカリモフ政権に対する根強い反対勢力が存在し、二〇〇五年には中央アジア諸国が独立して以来、最大規模といわれる暴動、それを鎮圧するための過酷な弾圧が行なわれ女性や子どもを含む五〇人以上が殺されている。これ以上、貧しい農民の生活を困難にする施策は絶対にとれないのが同国政府の現況だ 。
 ただ、同じような独裁的な国家であるカザフスタンだが、独自に同国領で分離して残された小アラル海では漁獲が認められること、保全が可能ということで水量維持するためのダム建設、及び南の大アラル海につながる水路を封鎖する工事が進められている。この一連の工事のためにカザフスタン政府は世界銀行から多額の資金を借り受けている。この返済に見合うだけの価値が小アラル海の一連の再生事業に見合うものかどうか、それは先の問題である。
 ダムは永遠に使用できるものではありえないし、世界的な傾向としてダムそのものの見直しが始まっている。それに、これまで世界銀行が融資する、いわゆる「開発援助」事業の多くが広大な環境破壊に繋がっていることは周知の事実で、たとえば“ 地球の肺”と呼ばれるブラジル・アマゾン地帯の荒廃に拍車をかけたロンドニアの植民事業に世銀が積極的に融資した。一九九七年、インドネシアの熱帯雨林二六万ヘクタールが消失し、隣国のマレーシア全土まで煙幕で覆った“人災”も世銀が融資した開発事業計画に遠因がある。世銀の絡んだ“人災”は一九六〇年代に開発途上国を対照に開発融資を行なうようになってから、地球の各所で引き起こされるようになった。


 ムクスの博物館で三〇年ほど前にモスクワで発行された豪華な写真集〈今日のウズベキスタン〉を売れ残っていた。退色した表紙をめくると綿花の収穫が飛躍的に伸びた、と自画自賛する本であることが分かる。農民の顔は晴れやかであり、役人も自信に満ち、灌漑用水に勢い良く水が流れている。言うことなし。計画経済の勝利、社会主義バンザイである。この制作された映画などでも広大な綿花畑を映し出すものがあったし、海外にでなかった歌、教宣的小劇(街頭劇)、プロバカンダとしての詩や小説にも繰り返し描かれただろう。それがソ連という国であり、スターリンの時代にそうしたことが国の文化政策として決定した。しかし、その社会主義バンザイはアラル海の荒廃を告げる晩鐘のなにものでもなかった。 2007/6

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