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花もつ女たち №70 リリウオカラニ女王(ハワイ王国~米国*

花もつ女たち

 リリウオカラニ (ハワイ王国・米国*王女 1838~1917)
リリウカタニ

 赤道をはさんで多くの島が散在するポリネシア。その海域は、しかし先住民の言語ではなく、ギリシャ語で「多くの島々」を意味するポリネシアと命名されてしまった。西欧起源の言語が公用語となってしまったが、豊かな伝統文化、独自の宗教体系に支えられ現在も多くの言語がいまも生きている。
 ラグビーの強豪ニュージーランドのチームは、戦前の儀式として、勇猛さをシンボライズする儀式ハカを行なう。同国先住民マオリ族の伝統儀式のからきているものだ。そのマオリ族の文化も南ポリネシアを象徴するものだ。タヒチもまた独特の戦士たちの舞いがある。そして、ポリネシアの北部に位置するハワイにはおなじみの民族舞踊と音楽があり、総称してハワイアンとなる。
 東日本大震災で被災し一時、活動の場 を失った福島県いわきのハワイアンズのフラガールは積極的に広大なポリネシア圏の舞踊を研究し消化して日々、ステージで披露している。いちいち解説して踊られるわけではないので観客には理解されていないと思うが、彼女たちの舞いハワイアンではなくポリネシアンなのだ。けれど女性を主体としてはじまったショウであったためハワイアンに傾斜していた。
 マオリやタヒチアン・ダンスが戦闘への闘志を掻き立て、自ら鼓舞するあための儀式であるのに対し、ハワイの舞いは民族神への敬愛、畏敬、あるいは感謝を捧げる儀式としての神技でもあるのだ。それは音楽の洗練さ、華麗で神秘性もそなえた旋律を伴奏とする踊り子たちの舞い姿からも理解できると思う。そして、手の動き、精緻な指の動 きの言語性でも象徴される。指と手が言語化された動きとなるとき優艶な美となった。それはタイの宮廷舞踊にもみられる乙女たちの舞い姿にも似ている。

 ハワイアンの名曲に「アロハオエ」、「カマラヒラ」がある。数多くあるハワイアンのなかでももっとも優美な旋律をもつ作品で世界的に知られる名歌。その「アロハオエ」を作り、「カイマナヒら」の歌詞を書いたのがハワイ王国の歴史のなかで女性として最初の国王になり、そして王国最後の王となったリリウオカラニである。前おきが長くなった。王女に拝謁するためにはしもじもの人間は王宮の回廊を経巡られなければあいけない。

 リリウオカラニが生きた時代、ポリネシア圏では欧米列強が最後の植民地争奪戦が行なっていた。その波濤をまもとに浴びながら米国併呑に必死に抵抗を試みた王女であった。
 1894年、ハワイの王制は米国の支援を受けて倒れるが、98年までハワイ共和国として独立は維持されていた。しかし、ハワイを制するものが太平洋の覇権を握ることができると考えた米国に準州として事実上併合した。今日のカリブ海のプエルトリコと同じ位置だ。現在もハワイとプエルトリコには“独立”を志向する民族派が存在する。

 ハワイ王国の成立は1795年、カメハメハ1世が即位宣言したことにはじまり1810年にハワイ諸島全島を統一し、ポリネシアにおける先住民を主権とする最初の近代国家となった。立憲君主制をしいたハワイの憲法では、リンカーンの奴隷解放宣言よりはやく奴隷禁止令を公布した。
 しかし、ハワイ王朝はリリウオカラニの退位まで約100年で終焉した短命の王朝であった。自壊したのではない、米国の武力による脅迫によるもので、リリウオカラニは強いられて廃位となった。
 ハワイ人、移住植民していたアジア人たちの参政権を無視した米国系白人たちによる共和国宣言に反対する人たちが抵抗するのは当然だった。その精神的支柱がリリウオカラニであった。近代装備に優れた白人たちの共和派の武装勢力は、民族派の抵抗を鎮圧する。その際、捉えられた約200人のハワイ人の生命と引き換えに、リリウオカラニは自ら退位宣言書 に署名したのだ。
 プエルトリコが米西戦争で米国の“戦利品”となり独立を失ったが、ハワイもまた植民在住していた白人たちの利権とワシントンの思惑が一致して独立は失われた。
 もし、米国がハワイに地政学的な戦略性を見出さなければ、ハワイは観光立国として独立を保っていただろう。たとえ、真珠湾に米国海軍の基地が設けられたとしても、それは沖縄や、かつてのパナマにあった基地、あるいはキューバのグアンタナモにある米軍基地として留まっているに過ぎなかっただろう。

 独立を失って、リリウオカラニの後をつぐ王位継承者として指名されたのが映画にもなった美貌の皇女カイウラニアであった。23歳で夭折したこと、小国の皇女ゆえの悲哀、そうした悲劇性ゆえ、その生涯は映画化もされている。そのカイウラニアが5歳のとき訪日、明治天皇に謁見している。彼女は当時の国王カメハメハ7世の姪であった。国王は明治天皇への謁見の場で、カイウラニアを、当時13歳であった山科宮定麿王との結婚を望んだ、という史実がある。国王は、当時、米国の動きを牽制する意味でも日本との関係を強化しようと模索していた。明治政府は米国との関係を思慮し、それを断ったわけだが、その後もハワイ王国とは緊密な関係を維持した。1892年、アメリカ海兵隊による武力「革命」によって王制を打倒しようという試みに対し、「邦人保護」の目的で軍艦を派遣し、 米国の武力外交を批判している。もし、明治天皇がカイウラニアを迎えていたら太平洋の歴史はどのように変化しただろう。歴史に「もし」を持ち込むことはタブーだが、そう思わずにはいられない史話である。
 
 今日、映画化され評伝が刊行されたこともあって“悲劇のヒロイン”カイウラニはハワイ王朝、落日の夕陽のように象徴されているが、その陽の傾きに必死に抗して力尽きたのがリリウオカラニであった。平穏な時代に玉座にあれば、「アロハオエ」「カイマナヒラ」を超える名曲を生み出していたかも知れない。しかし、時代はそれを赦さなかった。

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