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カリブ地域史におけるレゲェ、そしてボブ・マーリー №5 「祖国、ジャマイカへの愛惜」

 カリブ・ジャマイカ史におけるボブ・マーリーの生涯と音楽 №5

 日本でレゲェが定着した要因は幾つもあるが、全盛期のジミー・クリフが主演し、ジャマイカン・パトワ(クレオール英語)が意識的に用いられたと思われる映画『ハーダー・ゼイ・カム』(一九七二年)の存在は大きいだろう。主題歌はジミーの代 表的なヒット曲ともなった。前回、取り上げたミリー・スマイルのヒット曲は、彼女の母語、濃厚なイントネーションを肉体的言語としていたジャマイカ・パトワを徹底的に矯正した後、録音スタジオ入りしたという記録がある。
 映画『ハーダー・ゼイ・カム』のラストシーンは暗示的だ。
 ジミーが演じるのは首都キングストンのスラム街を根城とするストリート・ギャング、チンピラやくざ。瀕死の重傷を負ったチンピラは、ジャマイカには絶望しかないと海に泳ぎだし、たどり着けるはずもないキューバを目指す。「自由を求めて」と……。ジャマイカではそんなオチも不自然さをともなわず受容されていたのだ。

 ソ連解体後のキューバは経済の苦境を打開するために観光業に力を注ぎ、外貨を稼ぐ重要産業とした。カリブ諸島をめぐるクルーズはハバナや、キューバ革命の揺籃の地サンチャゴ・デ・クーバの港にも入るようになった。その豪華客船はジャマイカのリゾート地モンテゴベイにも周航する。そして、そのモンテゴベイはこの 国の矛盾がきわまる地である。経済の歪み、貧富の差、グローバリズムの弊害が屹立するところだ。
 モンテゴベイの港から発車する外国人観光客を乗せた観光バスは、しばらく走るとT字路に出る。バスは決まって左に曲がる。そして港で働く労働者を乗せた公共バスはそのT字路を右に曲がる。左に進めば五星ホテルがすばらしい海岸を占有して外国人観光客を迎える。右にいけば狭い土地に軒低い家が密集するモンテゴベイの町となる。その町では少し前までLP盤のボブ・マーリーの国内プレス盤の初期アルバムが売られていた。否、いまも売れ筋かも知れない。ボブ・マーリーのレゲェはすべて、T字路の右側で暮らすモンテゴベイの民衆のために書かれている。左側はボブがバビロンと指弾した虚飾の世界だ。
 
 生前のボブ ・マーリーは有権者として、低所得者層を基盤とする政党・人民国家党(PNP)に肩入れした。ジャマイカにはこのPNPと、右翼の労働組合が組織し、英国系白人や中流商店主、黒人エリート層などを支持者とするジャマイカ労働党(JLP)の二大政党制だ。
 一九七二年の総選挙でボブ・マーリーは、PNP党首のマイケル・マンリー候補を積極的に支持し活動する。マンリー党首が選挙前に訴えていた社会改革の提言、貧困層に対する道徳的共感にシンパシーを感じていたからだ。そして、PNPは選挙に圧勝する。
 マンリー首相は選挙で圧倒的支持を背景に段階的に社民主義的な政策を実現してゆく。大農園の休耕地など接収して農民へ貸与する土地改革、多国籍企業が握っていた電気・電話・ バス会社といった公的事業の経営を有償国有化してゆく。しかし、七三年からはじまったオイル・ショックによって、石油を全面的に輸入にたよっていた同国経済はたちまち悪化する。この経済危機を乗り越えようとPNPは、外貨収入の約半分を支えるボーキサイトの輸出権を確保するため米国やカナダの企業が握っていた鉱山の株五一%を収得する挙に出た。さらに、米州機構(OAS)から追放され、米国の経済制裁を受けているキューバ政府との緊密化も図った。こうしたマンリー政権の“左傾化”に対し、米国は反撥した。当時、米国は戦略的物資としてのボーキサイトをジャマイカに依存していたからだ。
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 米国の反撥を受けても民族主義的な政策を守ろうとしたマンリー政権ではあったが経済的には効を奏さ なかった。
 国内総生産高は七四年から八〇年までに一六%も下落し、失業率は二四%から三一%に急増した。マンリー政権の社民主義的手法も貧困化を助長するだけのものと民衆に写った。ジャマイカでは両党支持者のあいだで武装対立が悪化する。ボブも標的になった。マーリー政権の広告塔のような存在になっていたため、対立するJLPの支持者から銃撃されて怪我を負うのだ。
 マンリー政権はすでに末期症状だった。そして、八〇年の総選挙でPNPは大敗した。
 ボブ・マーリーはこの年秋、米国ツアーの最中にガン性脳腫瘍で倒れ、以後、活動は全面に停止する。翌八一年五月、死去。享年三六歳。夭折である。

 ボブ・マーリーがガンの宣告を受けたのは一九七七年、ヨーロッパ・ツアー中、ロンドンでの ことだった。それから療養生活を送りながらも、翌七八年四月にはPNPとJLPの政争で混沌とするキングストンで両党首を招いた「平和コンサート」と開催する。彼が音楽を通しておこなった最後の雄弁な政治的行動であった。
「自分を革命家だと思っている。誰の助けも借りず買収もされず音楽を武器に単身、戦っている」と、ボブ・マーリーは語った。
 「革命家」が孤高の道を歩むとき、それは非業の死への近道である。
 ボブのレゲェをグローバル言語による英語歌手という見方は止めた方がいい。むしろ、カナダ、米国を除く南北アメリカの第三世界、発展途上国から出た“民衆の声”、その代弁者として見なすべきだろう。

 ボブ・マーリーのレゲェに近いのは英国のポリスや、日本のレゲェ・ミュージャンではありえない。
 チリでピノチェットの軍事クーデターの最中、ギターを持つ手を銃底でうち砕かれ暗殺されたヌエバ・カンシンオン(新しい歌)運動の担い手であった歌手ビクトル・ハラ、アルゼンチンの軍政の不正に対し、“母なる声”として歌うことを止めなかったメルセデス・ソーサ、ニカラグアのソモサ独裁 政権から追放された“ギターを抱えたゲリラ”カルロス・メヒア・ゴドイとその一派、メキシコで長年に渡って権力と戦ってきたオスカル・チャベスとその一党、米国ヒスパニック社会の若者たちに民族的アイディンティテイの覚醒を促し、米国にあってスペイン語で歌いつづけ夭折し“テハーノ(メキシコ系テキサス人)の女王”セレーナ……南北アメリカにはボブ・マーリーの戦列に連なる音楽の闘士、社会的不正を指弾するヒーローたちに事欠かない。その系譜に重ねるとき彼ボブ・マーリーの位置は鮮明化する。  (つづく)

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