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作曲家マスカーニ、1945年8月の死

作曲家マスカーニ、1945年8月の死

 映画『第三の男』再考のなかで新ウィーン楽派の作曲家アントン・ウェーベルンの不条理な死について触れた。1945年9月、戦火で荒廃したウィーンの夜に起きた悲劇であったが、その1ヶ月前、ローマ市街の片隅で廃残の身を憂いて自ら死期を早めた作曲家がいたことを思い出した。
 19世紀後半、イタリア歌劇史に新たな傑作を加えたピエトロ・マスカーニの憔悴の死であった。ムッソリーニを独裁者の椅子から引きづり降ろしたイタリア民衆は、そのファシスト政権の擁護者たち、その利権にありついた者たち、不当な地位に上り詰めた者たちを容赦しなかった。
マスカニーニ
 イタリア音楽界にあってスカラ座の監督に就任し、そこで指揮を執るのは最高の栄誉だ。マスカーニはムッソリーニに取り入って、その座を簒奪しようとした。しかし、時代はトスカニーニの時代である。ムッソリーニといえど、それはできない相談だった。マスカーニのそうした行動は友としてのトスカニーニを失い。楽界で孤立を深めるも人気歌劇『カヴァレリア・ルスカティカーナ』の作曲家、そして指揮者として、名声は維持され収入も大きかった。しかし、音楽家マスカーニにとっては、じっさいむなしいものであったはずだ。
 27歳の若さにして『カヴァレリア~』を書き、作曲家の一生を決定的に縛り付けることとなる成功を収める。その後、15曲の歌劇の他、多くの作品を世に送り出すも、聴衆は『カヴァレリア~』しか求めないというジレンマのなかで過ごしてゆくことになる。音楽家としての焦燥が旧友トスカニーニの毅然とした態度をみらなうことなく、ムッソリーニにへつらおうとしたのだろう。
 
 時代の狂熱は民衆から冷静さを奪う。マスカーニに重大な犯罪行為があったわけではない。しかし、1945年という年は大戦で大きな人的被害を体験した国では戦勝国、敗戦国を問わず、多くの罪なき人たちが戦争を生き延びた後に犠牲となった。イタリアが連合軍に無条件降伏した後、マスカーニは全財産を奪われた。70歳を超えた老音楽家にとって、それは死刑に等しいいものだった。
 27歳の歌劇『カヴァレリア~』に正直、芸術的感銘度は低い。あの有名な「間奏曲」にしても、美しい哀切の旋律として後世に遺贈されてゆくだろうが、19世紀後期の音楽としてみればすこぶる伝統的な作法で書かれたもので、音楽史に特筆されるような作品でもない。しかし、美しい、確かに美しい。
 政治の激変のなかで財産を失う前、指揮者として最後にタクトを振ったのも『カヴァレリア~』であったというマスカーニの晩年。名声に包まれつつ、芸術家のプライドは依然として満たされない生活。ファシズムの実相を検証することなく接近してしまったマスカーニの心の闇を思う。自ら振った最後の「間奏曲」、それは若い日の恋の甘美、哀切、思いだけでは恋する人の心を動かせない焦燥、そんな沈痛な思いも旋律の揺らぎとなり、抑制と制御の旋律となって聴くものの胸をときにしめつける。出口を求めてさまようような恋の旋律である。若い芸術家にしか書けない真実がそこにある。名声を得た後では、技術として書くことができるとしても、名もなき青春の悲痛の真実は消える。天才なら書けることも、マスカーニにはそれはもうできない。無名であった当事のマスカーニだから書けた旋律であった。
 その美しい「間奏曲」にイタリアの詩人マンツォーニが詩篇を重ねる。それが『マスカーニのアヴェ・マリア』。孤老の作曲家の慰めもまた「間奏曲」、その一篇であったように思う。
 死から11年後、マスカーニの名誉は回復されるが、それは彼の伝記の余禄にすぎない。写真は、『カヴァレリア~』成功に満腔の自信を抱いていた若き日の肖像である。

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