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花もつ女たち №70 柳兼子(声楽家*1892~1984)

花もつ女たち №70 柳兼子(声楽家 1892~1984)
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 明治期、西欧文化を学び・吸収するという時代の要請に多くの若者が“国”を背負って参加した。あらゆる先進文化を学ぼうと企図した時代の熱狂のなかで実力以上の成果をみせた才能がある一方、志しなかばにして斃れた野心もあった。現在の日本の繁栄は、そうした明治の青春が鍬をいれた土壌のなかから育ったものだ。
 科学・化学分野、産業殖産、軍事に多くの資本が投下されたことはいうまでもないが、明治維新政府の優れたところは、芸術やスポーツの分野ににも目配りしたことだろうし、そこでは男女平等の精神があった。なかでも絵画や彫刻、音楽などに女性を積極的に受け入れることをためらわなかった。
 工部美術学校に多くの女子学生が学んでいた。そのなかから、例えばロシア聖像画家となる山下りんといった異才が誕生している。音楽でも同様で、滝廉太郎のライバルは同窓の女子生徒であった。
 柳兼子は、滝らが学んだ東京音楽学校を1910年に卒業した。滝のライバルの女子生徒たちは幼少期にそれぞれ邦楽の手習いを受けている。その延長で西欧音楽に触れることになった。また、美術教育でも生徒の多くは、水彩や油絵の筆を持つ前に、日本画の手ほどきを受けたものが多い。それが明治の西欧芸術受容の揺籃期の特徴だろう。
 
 兼子は学校でドイツ・リートを専科とした声楽家として活動を開始する。1920年代にはマーラーの歌曲を初演している。現在、兼子の歌を良い録音で聴けるのは日本の歌曲集である。ベルリンに留学した時期、一夜のリサイタルを行ない絶賛され、ドイツ国内を巡る公演の熱心な依頼があったという。傍証として当時のドイツ新聞の公演評もあるから事実に違いない。
 声楽家、演奏家や舞踊家の芸術、その最良が後世に遺贈されるようになったのは1940年代以降の話だから、それ以前に最盛期を迎えた才能はじっさいのところ確認しようがない。しかし、兼子、80代の高齢で録音した日本歌曲集一作をもって、その才能は肯ける。アルトという声質がたゆまぬ努力・研鑽によって、その年齢まで維持されたのだろう。美空ひばりさんのように、類い稀な喉の強さ、柔軟さ、もって生まれた喉の構造という天与の恩恵があったかも知れない。兼子は言う、「みなさん、年をとると歌えなくなるのではなく、歌わなくなるのでしょう」と。でも、ソプラノ歌手であったら兼子もそういい切れただろうか・・・。
 遺された朗唱のなかで江戸・明治の風情を物売りの売り声を取り入れて歌う、「苗や苗」は絶品だろう。人によって推す曲は違うだろうけど、筆者はその曲を採る。
 補足となるかも知れないが、日本民藝運動の創始者とされる柳宗悦は、兼子の夫。その宗悦の研究を支えたのは兼子のリサイタルなどによる収入であった。現在、宗悦が蒐集したコレクションを基礎とする東京・駒場の日本民藝館などに収蔵されている民芸品の多くは、兼子がもたらした収入から得られたものだ。もちろん、蒐集にあたっては宗悦の鍛えられた審美眼に帰するのだろうが、兼子の収入がなかればいかんともしがたい時代があったことを知っておく必要はあるだろう。 

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