スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

改稿版 強いられる「無知」の悲劇 続*グァテマラ映画『火の山のマリア』

強いられる無知の悲劇
 ~グァテマラ『火の山のマリア』
1012997_02.jpg

 昨年7月、本作がベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した直後、グァテマラ及びラテンアメリカ諸国での反応も読み、まずは速報、一報として某誌に書き、月遅れで、その原稿を本ブログに再録した。と同時に字数の関係で、内容まで言及するには至らなかったので再度、日をおいて書こうとおもったまま、いつの間にか失念してしまった。そこで、今回、再見しての感想として記しておきたいと思った。

 映画の9割がスペイン語ではなくカクチケル語で話される。私はその先住民言語に取り巻かれるように6年ほどグァテマラに暮らしていた。当然、言及すべき映画だと思った。
 といっても私がカクチケル語を話せるわけでも聞けるわけでもない。カクチケル文化圏のなかにある旧殖民都市アンティグアに暮していたということだ。大地震で崩壊する以前、アンティグアは現在の中米地峡諸国をスペインが制圧、統治するために拓いた町で、ここに総督府が置かれた。米大陸における4番目の大学もおかれた文教都市でもあった。そして、スペイン人たちが創建した当時の面影がよく遺されいる町としてユネスコの世界遺産に指定されている。信号一基もない石畳の歳月がワープしたような町だ。ここに暮らした。
 もともとこの地方に住むカクチケル族が神殿を設けた地であり、現在、町の中心にあるカテドラルはその先住民の神殿を解体し、その石材を活用して建てられたものだ。カテドラルの裏庭の廃墟となった一角、地下部に小さな先住民祀場が現在も遺されていて、カクチケル族がいまも詣でいる。
 映画は、このアンティグアも含む現在でも相当な広さをもつカクチケル文化圏のなかでももっとも辺境ともいえる地の話となる。ちなみにグァテマラ先住民の最大部族はキチェ族で、その民族語キチェ語は当然、最大の民族言語である。つづいて多いのが統計の取り方によって大きな誤差がでるはずだかが、カクチケル族とその言語、つづいてマム族のマム語となると思う。
 この国には正確な統計はまったく存在しない。国勢調査もない。役所に登記された出生届けあたりを根拠に数値化しているに過ぎず、僻遠の地までは調査は届いておらず、首都周辺のおおきなスラムなどにはほぼ放棄されたままだろう。
 映画でも白人女性がマリヤの家に家族調査に訪れるシーンがあるが、スペイン語を理解できない彼女たちは、農場の管理人のいい加減な通訳を通して、数値化されるだけだ。この管理人も先住民だが、カクチケル族ではない。映画ではそのあたりの説明はないが、幾つかのシーンでそれがわかる。管理人の男の彼の家族がマリアの家を訪問するシーンがあって、その家族の民族衣装からアティトラン湖地方に住む先住民である。その訪問は、妻を亡しやもめとなった管理人の後妻としてマリアを所望、そのかための挨拶として、遠路、押しかけてきたというシーンだ。カクチケル族とは近隣関係にある部族だが、厳格には違う。したがって、その管理人の男が農園のカクチケル族貧農に対する無慈悲な収奪ぶりも理解できる。本作をみたグァテマラ人ならその辺りの事情はたいてい理解できるだろう。カクチケル族はスペイン征服軍が侵入以前、アンティグアに近いチマルテナンゴというところの一角に王都築き繁栄していた部族だ。その広大な王都の廃墟はいま遺り、しばしばし首都グァテマラ・シティに近いマヤ文明の遺跡としてセレモニーの会場となっている。つまりカクチケル族はスペイン人侵入時代かた、もっとも頻繁にスペイン語の洗礼を受けてきた民族だ。
 
 映画は実話に基づいているものだが、むろん創作的ディフォルメは各処にあるわけで、映画に登場する先住民俳優たちはみな演技をしている。しかし、その自然さ、ナチュナルな佇まい、ドキュメントフィルムのように流れる時間のなかで展開される「悲劇」につくりものめいた構築性はまったくない。それはすばらしい演技であり演出であって、ゆったりとした大気のながれに人の営みを溶かし込んで描かれた叙事詩である。映画はやすでの涙も流さなければ絶叫もしない。マリアの家族が社会不正に憤怒するということもない。いわゆる安価なヒューマニズムのスタンスは完全に捨てられいる。ただ、ありのまま、あるべき姿のままという、それ自体、きわめて意志の強さを密めている。少女マリアさえ、悟りきった運命論者のように身の不幸を受け入れていく。

 米国へ不法越境を試みようと旅立ってしまった少年ぺぺとのたった一回の性交によってマリアは身ごもる。そのマリアは親の言いつけで性悪な管理人との結婚控える身であったから、母親は、子を堕ろうそ腐心する。それは無知なる迷信の類いの祈祷行為のようなもので、むろん、実効があるわけではない。マリアのお腹は人の目に隠すことはできなくなり、やがて、管理人に告げることになる。農場に雇用される貧農一家であったマリアの家族はそのため早晩、農場から追放される身となるはずであった。
 そんなある日、マリアは毒蛇に足をかまれ生命の危機にさらされる。
 意識をうしなったマリアは父母に抱えられ、管理人の男が運転する車で首都(と思える)病院に搬送され、一命を取り留める。しかし、お腹の子は死産だったと告げられる。そして、政府から入院費などが免除されるからと、一枚の書類にサイン代わりに、マリアは拇印を捺してしまう。女の子だったという赤子の葬儀も終わってしばくして、一度、マリヤの肉体に宿った母性のマグマ、収まりきらない疼きにでもうながされたように憑かれたように墓を暴き、小さな棺の蓋を開く。それは禁忌の行為であったから、映画はマリアを憑かれた状態になることを要請していたのだ。棺のなか、粗末な布に包まれていたのは一片のレンガであった。

 マリアと家族は、また管理人に頼って警察に訴えでる。そこで、あきらかになったのは、マリアの拇印が捺された書類は、新生児を放棄し、里子に出す、と認める承諾書であって、それは法的拘束力をもつものだった。警察は、本人が許可している以上、私たちはなにもできないと説明する。しかし、管理人は警察の言葉をそのまま通訳しない。通訳すれば、自分が新生児を売って得た金を着服したことがわかってしまうし、最悪、その場で警察に拘留される身になるかも知れないのだ。
 そう、グァテマラではこうした新生児が両親の無知に付け込んで欧米諸国に“密輸”されている。それは養子であったり、あるいは臓器移植のパーツの具として“輸出”されている。それはもう常態、システム化されているともいえる。

 映画はマリアの婚礼日の朝、装うシーンで終わる。管理人と結婚するためだ。その管理人がマリアの子を盗んだ男とはしらぬまま結婚することになる。とりあえず、それで家族の生活は安定する。しかし、マリア・・・「悲劇」はつづいていくだろう、と予感させてしまう。

 どこへ去ったかも知れない恋人ぺぺもスペイン語を理解できない少年だった。それでも“夢”の米国を目指し、パスポートを持たずに北へのの旅に出た。メキシコはグァテマラより大きな国だとはしっていても、比較する知識もないまま、スペイン語もしらず資金もないまま北上する。そんなグァテマラ人、ホンジュラス人、エルサルバドル人、そしてメキシコ人が無数に存在するといってよいだろう。そして、少なくない若者がメキシコの南と北の国境地帯で非業の死を遂げる。無事、米国に入国しても、ロス・アンジェルス周辺にあるグァテマラ人たちのコロニーにたどりつけるのはまた至難なのだ。そういうことはグァテマラ人や中米人ならたいていしっている。しかし、スペイン語をしらず、地図の読み方をしらない先住民は、そんな基本的知識ももっていない。彼らは、スペイン統治時代から、言語圏分断の植民地政策の遺制のなかで、そうとはしらず、気付かぬように生活圏を隔離されて暮らしてきた。貧困を運命論的に受け入れるしかない悲劇、それを紛らわしているのが男たちには安酒だ。映画のなかに登場する先住民少女のラベルがついた酒瓶は、グァテマラの搾取層が広く売りさばいている安酒の典型だ。その安酒を市価より高くツケで売るのが農場内に農場主が設けた暴利の販売所となる。映画でも繰り返し、その販売所でのシーンが繰り返されている。
 その安酒ケツァルテカ、というの銘柄で、ラベルにはキチェ族の娘が描かれている。おそらくグァテマラ第2の都市ケツァルテナンゴの地場産業として生まれた酒なのだろう。ともかく、その酒は先住民に愛飲され、また、先住民諸部族が彼らの祖先神をカトリックに奪われた後に出てきた奇態な土俗神マシモンに捧げる清めの酒として使っている。映画のなかでも葉巻を咥えた異様な男性像に祈る先住民の姿が描かれいるが、それが地方によって呼称が変わることがあるが、通称マシモンと呼ばれる神像だ。アンティグアの郊外に村にもマシモンを奉る聖堂がある。

 グァテマラ先住民の悲劇を終わらせるためにキチェの娘リゴベルタ・メンチュウさんがノーベル平和賞を受賞した。けっきょく、コロンブスによる「新世界発見」500周年を迎えた1992年の祝典へのアンチテーゼの象徴ぐらいの意味しか、グァテマラでは持たなかった。メンチュウさんはこの国では人権活動家として必要な“人徳”を剥ぎ取られたように過ごしていて、この国では受賞者にふさわしい敬意ははらわれていない。そこにはまた先住民分断の余波を受けている。メンチュウさんが受賞した当時、カクチケル族のなかにも優れた女性活動家はいた。それぞれの部族に献身的な活動家は存在していた。キチェ族の娘メンチュウさんに対する反感は他部族には当然ある。映画で描かれた管理人の男の存在は、先住民社会のなかに大きな格差があることを示している。そして、その先住民出身の管理人が、私益のために同胞たちを借金漬けにしている様子まで描いているのだ。
 

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

上野清士

Author:上野清士
店長の最新著書

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。