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文庫化されない本のために №015  深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』

文庫化されない本のために №015
 深谷克己著『八右衛門・兵助・伴助』

 本書は今年9月、新宿・紀伊国屋ホールで観た青年劇場の芝居『郡上の立百姓』を読み解く資料と手にし、ページを捲るごとにたちまち芝居の感興から離れ、刺激的な示唆に富む一書として知的興奮を味えた。日本の庶民の基層を考えるうえで貴重な一書であると思う。文字通りの労作であった。しかし、読み易い本ではないし、煩瑣ですらあると思う。しかも扱っている人物も、本書で可視化されるまでまったくの無名、歴史に埋もれた農民であったから文庫化は望めない。ここで取り上げる意味があると思った。
 1978年前後、朝日新聞社から「朝日評伝選」という書下ろしシリーズが刊行された。企画者の慧眼が光るもので、たとえば大菩薩峠の作者「中里介山」(松本健一)、金次郎伝の読直し「二宮尊徳」(守田士郎)、宗教家としての「出口なお」(安丸良夫)といったラインアップで、それぞれの専門分野で評伝が書かれることはあっても「平将門」「親鸞」「福沢諭吉」といった顔ぶれと並んだ日本史上の列伝のなかに、前記のような人物が取上げられることはなかったはずだ。本書はその「評伝選」の一巻として書き下ろされている。そして、選集中、唯一、苗字をもたない文字通りの市井の農民を取上げた実にユニークなものだった。埋もれるべきではない一書だ。

 無名の農民たちの評伝を書くという作業は至難であったことは随所に窺えるもので、推理・推測で行間を埋めていく作業の労苦はそのまま読みにくさにも繋がっているのだが、それでもそこかしこで次第に浮かび上がってくる農民像に、この国の民衆の忍耐力、知恵、したたかさなどを観る思いがした。
 八右衛門は、文政十三年(1830)、上野国東善寺村(現在の群馬県前橋市)で牢死。兵助は、慶応三年(1867)、甲斐国犬目村(山梨県都留市)で71歳で死去。信州伊那郡米川村(長野県飯田市)の伴助、明治十七年(1884)、89歳の長寿を全うして死す。その三者の生き様を、かれらが関わった百姓一揆の推移とともに書き下ろしたのが本書となる。
 三者三様、実に個性豊かな人たちで、江戸期の封建制のなかで精いっぱい自我を押し通した農民たちであった。
 教科書が教える無味乾燥な百姓一揆の記述はまったく農民個々の血が通っていない。だから、子どもたちの胸に染み込まない。反面、講談や芝居などで語る義人として脚色されてしまった佐倉惣五郎のように史実から遊離してしまった。しかし、本書の三者は地に足のついた膂力を感じさせるものだ。

 百姓一揆の首謀者は、その正当な要求行動に関わらず獄門晒し首、資産没収など、もっとも重い刑罰を伴うもので、それが一揆の抑止力となりもしただろう。しかし、現実に江戸期に3200件の一揆が各地で族生している。そして、首謀者がけっして極刑に処せられたものではなかったことが本書で、その理由とともに知った。本書で取り上げれた三者のうち死罪となったものはひとりもいない。八右衛門のみ牢死しているだけだ。
 八右衛門像の構築の手がかりは彼が牢中で書き残し、子孫に伝えられた手書きの「勧農教訓録」の一書で、それを中心に地域に残る古文書などを漁りながら肉付けしてゆく作業であった。兵助像は、一揆後、捕縛の手を逃れ北陸、山陰、山陽、四国、畿内から三河、房総と驚くべき逃避行を重ねながら記していった備忘録が奇跡的に残っていたことだ。そして、伴助は明治期まで生き延びたということで比較的記録類が多く残り、彼を知る人たちも近くの時代まで暮し、それぞれ口碑として残った、という事情もある。
 江戸時代を語る書は年々歳々、増量していくが、農民、ましてや酷税、飢餓などに苦しめられた地方・寒村で地を這う農民の姿を掘り起こした書はまことに少ない。本書は「一揆」の指導者となったことで歴史に名を残すことになった三者の像を等身大にする作業のなかで、江戸時代の生活人の姿に血肉を与えた。

 兵助は逃避行の糧を、算盤算術指南で得ていた。江戸時代は庶民のあいだいに和算が驚くべき水準で定着していたことは、金森敦子さんの短編集『瞽女んぼが死んだ』収載の「算士とその妻」でも書いていた。芸は身を助けるとはこのことだろう。平助は晩年、一揆を起こした故郷へ戻り、捕縛もされず長寿を全うした。当局は、兵助の名望を尊重せざるえなかったようだ。村落治安維持経営のためにも手出しはできなかったのだろう。一揆後の事情はけっして極刑を与えることで終息をはかったわけではない、柔軟な大岡裁きが各地であったということだ。
 伴助は賭場にも出入りしたハズレ者であった。生粋の農民というわけではない。しかし、弁も立ち、お上を恐れない「強情者」として立ち現れる。江戸下町におけば「いなせな」若衆というところだろうか。おらが村の窮状に際しては一命を賭しても一肌脱ごうという男だった。そういう男も一揆の先頭に立ったことを記す。幕末、牢にあったが維新の特赦で娑婆に出た。

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