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日本で最初に公開されたアルゼンチン映画『黒い瞳の女』

日本で最初に公開されたアルゼンチン映画
 『黒い瞳の女』マヌエル・ロメロ監督
yjimage (2) アルゼンチン映画について書いたついでに。最近、フィルムセンターで1939年、アルゼンチンで制作された映画『黒い瞳の女』が修復されニュープリント版の完成披露が2日のみ行なわれたので、その話題から。
 同映画の日本公開は1941年。12月8日、連合艦隊がハワイの真珠湾を空爆して太平洋戦争がはじまった年だ。そんなキナ臭さただよう9月、東京でアルゼンチン映画が初公開され、翌10月には、つづく交歓事業の一環で『薔薇のタンゴ』が公開されている。ちなみに開戦直前の11月には米国、フランス映画も公開されていることは注目されていいだろう。日本政府が最後まで対米開戦を避けたいという気配がそうした映画の公開に反映しているのかも知れない。 
 アルゼンチン映画2本の公開は、同国との文化交歓事業のひとつであった。開戦と同時に米国と同盟関係にあったアルゼンチンは他の中南米諸国とどうよう対日戦争の当事国となったわけだから、それこそ戦前、最初にして最後の同国映画の公開となったわけだ。その時、交歓で日本からアルゼンチンに送られた事業とはなんだったのだろうか、興味のあるところだ。当時、アルゼンチンには約7000人の日系社会があった。
 さて、『黒い瞳の女』の原題は “la vida es un tango”だから、「タンゴこそ人生」となるだろうか。昭和10年代には東京にもタンゴ楽団が誕生していたから原題を邦訳しても良かったと思うが、タンゴプラス恋愛映画として売り出したかったのだろうか、チェーホフの短編のような題名になった。
 監督は1930~40年代に量産といってもよいぐらいの作品と脚本を書いたマヌエル・ロメロ。手馴れた展開の早い演出、構成に監督の熟練度がみてとれる作品だ。内容はなんてことはないストーリー。タンゴ歌手になりたい大学生が飛び入りで三流劇場のステージに立ち喝采を受け、やがてフランスまで進出してゆくも、やがて飽きられ自信を失い、精神的に声が出なくなり、うらぶれて帰郷、そして再起して名声を取り戻す、という実に小気味よい起承転結に富んだ娯楽映画で、その歌手の岐路に絶えず方向を与え、励まし成功に導き・・・という存在が「黒い瞳の女」という最愛の伴侶というわけだ。
 いうまでもなく取り立てて評価する材料のない作品だが、アルゼンチン映画の日本での公開がタンゴから始まったことは記しておくべきだろう。
 当時のアルゼンチンは政治的には政争に明け暮れていたものの冷凍船の技術が進み、同国の主産物である牛肉の欧州への輸出が伸びたり、英国の資本が大量に入り込むなど南米諸国のなかではもっとも富裕化が進んでいた、貧富の格差も・・・。当時、南米でもっとも識字率が高かった、という数字が残されているから初等教育はだいぶ改善されたのだろう。また、ミュージカルや映画ともなった「エビータ」ことエバ・ペロンが映画界に活動を開始していた時代でもあった。
 アメリカ地域におけるスペイン語圏では同国はメキシコと並ぶ映画量産国であった。当時のアルゼンチン映画、音楽界での大スターはリベルタ・ラマルケであったが、ファーストレディとなったエビータによって国外追放された(異論もある)。失意のラマルケは、チリに逃れ、メキシコ渡り、やがて世界的な名声を得ることになる。メキシコもアルゼンチン同様の映画・音楽の購買力が民衆にあったから活躍できたといえる。

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